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2022年02月27日16:20

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蜘蛛の糸

生物はエントロピー増大の流れに逆らうエントロピー減少系であると言われる。

低エントロピーから高エントロピーへというエントロピー増大の法則は、分化が未分化へ、秩序が無秩序へ、退行していく過程が、不可逆的であることを、言い立てている法則である。

もしも高温部分と低温部分に分化している系全体があるとすれば、高低差が小さくなっていって熱的非平衡から熱的平衡へ向かっていく方向こそが、時間方向である、というのが、エントロピー増大則もしくは無秩序性増大則なのだ。

味噌汁を作るときの温度差がベナール対流と呼ばれるくるくる回る動的秩序を作り出すように、低エントロピー状態とは秩序立っている様子のことである。

すなわち、断熱壁を取っ払ったばかりの、高温部分と低温部分に分化している、部屋系全体があるとして、高温部の温度TをT_{高}と書き表して、低温部の温度TをT_{低}と書き表して、dをその次に書く量の微小な時間経過分に伴う微小な増分を表す記号として、熱量をQとすれば、

-dQ/T_{高}+dQ/T_{低}>0

という不等式が成り立つように、熱量が高温部から低温部へ移動することを、エントロピー増大則もしくは無秩序性増大則、と言う。

であれば、物理学者シュレーディンガーが言ったように、生物は太陽の低エントロピーを食べて生きているわけで、生物よりも太陽のほうがエントロピーは低い。

つまり、太陽表面と表面付近の温度差は大きい、ということだ。

そしてエントロピー増大則が正しければ、宇宙初期は太陽よりももっとエントロピーが低かったことになる。

このように、世界のうちの99.99%以上が無生物界で、生物界は限りなく0%に近いのにもかかわらず、なぜ選りに選って自分の心は生物にあるのか、という問いに対して、もし、生物は生物以外よりもエントロピーが低いからだ、と答えるとしたら、なぜ自分の心は生物にあるのであって、もっとエントロピーが低い太陽や宇宙初期にあるのではないのか、という解答不能な問いが生じてしまう。

肉体とは独立せる霊魂が存在して、それが自分の心の正体なのだ、と考えざるを得ないのではなかろうか。

解離性同一性障害を、まだ人格の同一性が確立していない乳幼児期に、親から虐待を受けたことによる、親に殴られる体の痛みから逃避するための、幽体離脱が、癖になったことによって、体において心が一つにくっつかなくなっちゃったこととして、説明する、精神医学の知見は、身体としての自分と幽霊としての自分を切り離して考える以外に、解釈しようがないのではなかろうか。

霊としての自分は、どこから来て、どこへ行くのか。

仏教では、六道輪廻の主体として、阿頼耶識と呼ばれる無意識を、想定する。

阿頼耶識が、自業自得で、自分の行いの結果として、自分の運命を作り出しているのだとする。

業が業因となって自己の阿頼耶識に蓄えられて、それが他者の阿頼耶識に蓄えられている業因である縁と結び付いて、因縁和合して、因縁生起のものとしての結果を、生み出す。

この、行為の結果が、行為である。

このように、悪い行いとすれば悪循環が始まるから、どこかで強い意志を持って、悪循環を断ち切らなければならない、と仏教は説く。

悪循環を断ち切らない限り、負のスパイラルをなして、人間界から地獄界へ、落ちていく。

このように、地獄とは、この世に内在するものなのだ。

個別的な阿頼耶識と非個別的な業の二本立てで、この世の仕組みを説明する、仏教によれば、自他が共有している共同世界は、共業の結果であるのに対して、自分の意識という私秘的な世界は、共業でない業の結果である。

こうして、善い行いをするか、悪い行いをするか、意志次第で、世界を善くも悪くも作り変えていくことができるのだ。

阿頼耶識は煩悩に塗れているが、涙を飲んで憎しみの連鎖を終わらせて、好き嫌いの感情を乗り越えて許しを成立させて、地獄から自分だけ抜け駆けしようとしない痛みを分かち合う精神を培って、煩悩を浄化し切った暁には、エゴイズムの根源である阿頼耶識の個別性を乗り越えて、阿頼耶識よりもさらに根底にある、阿摩羅識と呼ばれるエゴを超越した清浄な心の深みに到達することができる、というのが、仏教における悟りである。

個別的霊魂としての人間と、普遍的霊魂としての神の、二本立てで、世界を説明する、キリスト教と、よく似ているではないか。
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