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2021年12月20日18:24

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一期一会の「ズレ」と「不ぞろい」そして「音楽の危機」

先日、本当に久しぶりに、オーケストラの生演奏を聴きに行った。

私の好きな指揮者のシャルル・デュトワの手による、これまた私の好きな武満徹「弦楽のためのレクイエム」、ラヴェル「ピアノ協奏曲ト長調」、ストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」というプログラム、そして会場は音質に定評のあるすみだトリフォニーホールと、ライブ鑑賞再開の第1回目を祝福するかのような、素晴らしいコンサートとなる、はずだった。

ああそれなのに、そうだったハズなのに(^^;
コロナ禍の余波で、ラヴェル「ピアノ協奏曲ト長調」はピアニストの来日後の隔離、経過観察日数がコンサート当日にも及ぶことが発覚し、突然の曲目変更。
更には何と、最も待ち望んでいた指揮者デュトワの突然のコロナ罹患による来日中止が、なんと公演前のわずか一週間前に報じられ、青天の霹靂、想像だにしなかった空転直下の思いもよらぬ展開に(^^;)

指揮者、曲目に想定外の大きな変更があったにも関わらず、それでもあえてコンサートに行こうと決めたのには、3つの理由がある。
残響が少なめな分、響きが濁らずにスッキリ見通しのよい(その分、カラオケのエコーを切るのと同じで、演奏者の上手い/下手が如実に表れることとなる(^^;)音に定評のあるすみだトリフォニーの音を聞いてみたかったこと、「弦楽のためのレクイエム」、「ペトルーシュカ」を生演奏で耳にしたかったこと(両曲とも生演奏では未聴)、そしてもう一つは、自宅のオーディオセット(一応、オーディオファンの端くれとして、最下層(軽自動車1台分の価格に相当)くらいのシステムは持っている(^^;)が、どのくらいフルオーケストラによる音の広がりを再現できているのか確認したかった、もちろん生演奏とオーディオでの鑑賞は違う、直接の比較の対象にはなりえないってことは百も承知ではあるが、そのうえで、少しでも生演奏の音の世界の再現に近づくようなセッティングにしたい、そのために実際のコンサートホールの音を、耳で、全身で浴びておきたい、との思いからによるものである。

そして迎えたコンサート当日。
久しぶりのライブということもあり、やはり生の音を聞いておいて良かったと思う。

代役指揮者の井上道義は、その音を聞いたことはなかったものの、書籍で著作(対談)を読んだことがあり、対談相手にケンカ越しの態度をとるなど「クセが強いなあ」という前印象があったのだが、「音の魔術師」と称されるデュトワの代役に起用されるだけあって、勢いの中にもスッキリ洗練された響きを聞かせる、なかなか良い演奏だった(ひょっとしたら、それはホールが創り出す音に起因する要素も大きかったのかもしれないけれど)。

そして、やはりコンサートホールで生まれた音を、全身で受け止め、浴びること。
オーケストラの各奏者によって音のこども(そして、こだま)が次々に生み出され、こっちに向かって飛んでくる。
音のこども・こだまたちが運んでくれた次々に生まれる音符のひとつひとつに羽根が付いて、天使のように飛翔し、耳の中に時にダイレクトに、時にすぅっと飛び込んで来るようであり、鈴なりの音が天から降り注いでくるかのようだった。

この感覚は、やはり自室のオーディオでは味わえない。
とはいえ、そのようなオーケストラ奏者全員によるトゥッティ(全奏)の轟音が、楽曲の中で常に響いている訳ではない。
周囲の楽器群が静まりかえった中、個別の楽器が見せ場、聴かせ場となるソロをとる場面もあれば、弦楽のパート、管楽器のパートのみによる演奏の場面もある。

オーケストラの全奏で、そしてホールまでもが一つの大きな楽器のようになって壮大に鳴り響く、大地をゆるがし、全身をもって浴びるようなあの怒濤の轟音は、さすがに庶民の一般家庭のオーディオ再生では望むべくもないが、それ以外の場面の音なら、まあうちの軽自動車並みのオーディオでも、そこそこの音の解像度を持っているかなと改めて認識した次第である。

しかし、そんな本来の目的を離れ、大きく印象に残る出来事があった。
それは、オーケストラという大人数が一回限りの生演奏を行うことならではの、音の微妙な「ズレ」や「不ぞろい」に、心地よさを感じたということ。
決して下手っぴでグダグダの不愉快な「ズレ」や「不ぞろい」なのではなく、一回限りで再現ができない一期一会の生演奏ゆえに起因する、音のこどもたちを人の手で生み出すゆえの、むしろ心地よい「ズレ」や「不ぞろい」の感覚。
音色の微妙な「にじみ」。

弦楽器群が一斉に奏でる場面において、数十人にも及ぶ各奏者がみな寸分の狂いもなく完全に同時のタイミング、同じ強さで、ごくわずかなピッチの狂いもなく、同じ音を繰り出せるということは、実際には「ありえねー」ことだ。
合っているようでも、複数の人間が人の手を介して演奏する以上、そこには必ず微細なレベルで、発音のタイミングやピッチ、強弱の「ズレ」や「不ぞろい」が存在する。
そして、そのズレ自体の大きさや幅も決して一様ではなく、ズレ自体もまたもそれぞれ不ぞろいにズレている。

一方、CDや配信音源などで普段「日常」耳にする音楽(コンサートホールやライブで聴く「生」の演奏の方が「非日常」の出来事)は、何回かリハーサルを繰り返したうちで最高の演奏を選んで商品化されるのみならず、その最高の演奏の録音を単にコピーして配布するのではなく、録音後にノイズの除去やバランス補正といった加工に加え、演奏ミス部分の差し替え、上書編集が、クラシックやポピュラー、ロック、ジャズなどジャンルの区別なく、当然のように行われている。
つまり、商品としてパッケージされた音楽は、素材そのものが最高の録音であることに加え、ミスやズレ、不ぞろいが除去された加工物として私たちに届けられる。

私も楽器演奏をする者の端くれとして、自分の演奏を可能な限り最高の状況下で録音、記録したいという思い、願いはよく分かるし、実際ネット上で公開している自分の演奏の中にも、演奏自体はよくできたものの、一部ミスタッチがあった部分については、その部分だけを修正、上書録音したもので公開しているものがある。

しかしそんな音は、完成された理想に近づいた音ではあるかもしれないが、現実には「ありえねー」音なのだ。
人が関わる以上、それも複数多数の人が関わる上で、ズレは起きて当然なのだから。

先日のコンサートを聴いて最も驚いたのは、その楽器間の発音の微妙なズレに、「手作りのものだけが生み出す心地よさ」や「あって当然のものがあるという安堵感」、そして「音が次から次へと生まれてくる瞬間に立ち合っているような感じ」を覚えたということだ。

当然のことが起きないことに、違和感や空々しさを覚えることがある。

ミスやズレ、不ぞろいを排除され、加工されたCDや配信音源を聞くのは、例えばコンビニスイーツや既にできあがった料理をレンジで温め直すのに似ている。
一方、生演奏のコンサートは、音楽という料理がシェフの手を介してできあがる、この世に生まれたその瞬間から頂ける、レストランの手作りの料理、とりわけシェフと向き合って、カウンター席でいただく天ぷらや寿司、鉄板焼きのようだ。
焼きむらがあったり、不ぞろいの焦げがあったり、提供される時間に差があったり。
シェフやスタッフの機嫌や、その日の温度や湿度が素材に及ぼして味が微妙に変わるということも往々にしてあるだろう、いや、あって当然、ない方がむしろ不自然なのだ。
手作りのものが、正に、いま目の前で生み出される、その瞬間に立ち会っている感覚。
それは、再現性のない一期一会の機会ならではのこと。

コンビニスイーツや、レトルト食品の味は、確かに美味い。
しかもコスパ、ハンパない。
それはそうだろう、個人経営の店とは比較にならない膨大な額を投資して消費者の好みのデータ解析とリサーチ、そして商品開発を行い、完成された味を大量生産で提供するのだから。
しかし商品開発データに基づく、統一され均質化された、完成された味に、手作りゆえの不ぞろいな「味」はない。
今、まさにここで生まれたての「味」を味わうこともない。
全国どこのコンビニに行っても、クローンのように、全く同じクオリティを担保された商品が、全く同じ価格で提供されているということ、それは考えてみると、どこか非現実的で空々しい感じがする。

私が敬愛する音楽学者の岡田暁生は、規格と効率を重んじる近代社会にあっては、この規格外のズレ(音楽でも工業製品でも、ひいては人の教育、育成においても!)を排除する方向に働くとする一方、ポストモダンの現代にあって、音楽における「ズレ」とどう向き合うか、どう対処するかについて
1.合わせること自体から逃避する
2.合うようになるまで待つ
3.スケジュール管理の厳密でグロテスクな戯画を見せる
4.ゆるやかにみんなでズレに流される
5.たとえズレていても自分のペースを守る
を例示している(岡田暁生「音楽の危機〜第九が歌えなくなった日」より)。

私はこれに加え、
6.手作りならではのズレを楽しむ、味わう
という選択肢を選びたい。

統一され均質化された、完成されたパッケージ商品としての「味」。
ズレも不ぞろいもない、完成されたパッケージ商品としての「音」。
それに慣れてしまうことは、生物としての感覚が少しずつ失われていくような恐ろしさを感じずにはいられない。
コスパの良さは、私たちの生物としての感覚を鈍らせてはいないか?。
そのことに常に疑問と危機感を抱くようにしなくてはならないと思う。

「ズレ」や「不ぞろい」がもたらす手作り感、心地よい安心感
人の手で、今、この場所で、音のこども・こだまたちが生み出されてくることに立ち会っているような感じ。
複数の人が関わる上でズレは起きて当然。
その当然のことが起きないという違和感、そして空々しさ。

そう考えると、溶けきらずに味噌が残った手作りの味噌汁や、焦げやらダマの残った手作りケーキの方が、多少なりとも美味いと思えるのである→それはちょっとズレてるかもしれない(^^;)

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