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2020年08月27日19:46

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勇ましく

大学入学した時、始めてキーボード(シンセサイザー)なるものを勝った。とはいえ、当時バイトもまだしてなかった僕は、父に費用を出してもらった。



父には運転免許代も…本当にありがたかった。俺、本当に何もしてないのに、何でそんなに出してくれるんだ、と思っていた。




月日が流れて、教員免許費用を出してもらうことになった。その期間は、採用試験受けた回数も含めれば、二十代の後半をそこに費やした。




免許を取得できた時は、「僕の未来は明るいぞ!」さえ思った。



私学の教員向け説明会も見て回り、「こんな世界が広がってる」とも思った。




教員になれば、すべて万事オッケーという状態になっていた。



ただ、母親が教師でなくなった、2017年から、俺の中で何かが壊れた。




それは、母が教師だったが故に、俺が「この人」の分身にように出来上がって、



そして同じく、「母が主語」の人生になるべく、感情にフタをした。





そのフタが壊れてしまった。



そこから出てきたのは、僕がこの「シンセサイザー」を担いで、大学で音楽したいと思って、





門を叩いた軽音部か、その隣のフォークソング部でもなく、





入学当時、まったく意識の中にも入らなかった、jazz研の記憶だった。



僕には、このシンセサイザーピアノに、すごい思いれがあった。



始めて心斎橋の三木楽器で購入した…ずっと自分が使う楽器だから、いくつも候補のある内から選んだ。




まだアンプも自分のを持っていたなから、とても安いヘッドホンヘッドフォン一緒に、一丁前に背中に担いで、岸里玉出まで駆け出した。





不本意ながら、ひとまず受験が終わった報告を、叔母と祖母にした。畳の上机にキーボードピアノ広げて、内蔵されてる音に夢中になった。




祖母の家に、たびたび音楽CDとか持ち込んでいたけど、楽器は始めてだった。祖母は前年も、予備校通いでだれてる僕に対しても、家ではひょこひょこ歩いて、玄関まで来てくれた。僕が来たときは。そこで食べたのは、カップヌードルか、それともインスタントラーメンか…いや、「お婆ちゃん」と食べるものは、何でも美味しいのだろう。




もちろんこのとき、僕は、ほぼ10年後に起きる「天変地異」の事などーー俺自身にも、そして祖母にもーー知る由も無かった。



この言い方は、関西塾で「不二門」ととの出会いが、やがてどういう「結末」を辿るのか、という部分に似ている。そういう宿命なのか?




ともかくこの時期、受験校への「理想と現実」で、俺は潰れそうだった。あと精神的にも。




俺は大学入ったとき、「音楽できればノープレexclamation」とさえ思っていたのだった。




シンセサイザー話に戻すと、俺がちゃんと「学祭」に出たのは、四年間の内で1回しかない。(後期のクズの集まりについては問題外)だけど、企画とか新歓とか、すごい濃い体験ができた。





そこで、大学の音楽の運気を使いきったんじゃないか、とも思った。事実その通りだった。




最後となる、ミスチルのスタジオ入りの時、僕の頭は楽しさでいっぱいだった。ただ、同時に、「本当に俺はここから離れたいのか?」とさえ感じていた。あるいはフォーソンの人と喋ってたとき…俺はどう思った?

「あーここにいたいなあ」って思っただろう?」





そして、jazz研時代の記憶は……






ほとんどない。







どうでもいい記憶は、消される事になるのだろう。







色々あって、僕は大学卒業前、再び祖母に家で、お婆ちゃんのコーラスのお手伝いをする事になった。





「音が私、とれへんの〜」と言って、音階をキーボードで奏でた……この年の初め、愛犬が旅立った事もあって、僕はかなり落ち込んでいた。でもこの人の、お握りおにぎりやソーセージ、卵焼きを食べたとき、ああ俺は、まだまだ「やっていける」と思った。




そしてしばらくして、新卒で入る会社の、事前顔合わせがあった。正直、誰が誰か分からなかったが、そのときは、一緒に楽しんでいた。そして入社したとき、かつてこれほど、持て囃されたかってぐらい、チヤホヤされた。「かわいーかわいー」言ってくれた。そういえば、大学時代、フォーソンのかおりちゃんも、「かとーくん、かわいいよね!」と言われたが、すごい人気ある女の子だったが、「何やコイツ、バカにしてんのか」とさえ思った。今まで生きてきた中で言われた事のないセリフだったが、こうして、同期の人とたちに言われるとーーーかおりちゃんには「先見の明」があったのだろう。






大学卒業した時、必修で一緒だった友達と写真撮った。わざわざフィールドワークで僕の地元まで来てくれた。「絡みやすい」と言われたが、やはり波長の似た人とは、俺は自然体になれるのだろうか。



そして波長といえばもう1人、軽音時代のメンバーとも写真を撮った。会ったときから「雰囲気良いやつやな〜」と思ったが、俺は彼に途中、冷たい態度を取った気もするが、彼はそんなことを気にせずにいてくれた。最初から雰囲気良いやつは、最後まで良いのだ、と思った。




それは不二門や、他のサッカー部メンバーにも言える事だった。辞めようが何だろうが、そんなことで態度は変わらない。お前の事が好きだったから、一緒に来てほしいから、と言われたが気がした。


そして祖母に翌年、僕はアクセラさんの結婚式を飾った。この結婚式にMVPがいるなら、確実にベスト5に選出されるだろうって言うぐらいの活躍だった。それは俺が、別に「呼んでくれ!」と頼んだものじゃない。カティスに来てほしい、という物だった。



俺はやっぱり高校の時のショックから「辞める」恐怖症になっていた。「辞めるか」「辞めた」「辞めさせる」「辞めさすぞ」など、多彩なワードに恐怖を持っていた。早い話、クズの集まりではそういう「俺の弱い部分」をつかれたのだろう。




そして今なら、「おう、辞める前に、血祭りにあげたるわ!」といって、嬉々として、そのクズにか「返し」していただろう。別に何も怒ってなどいない、ただ淡々んと、てめェがしたことと同じ目にあわせるだけだ。




辞める、続けるってのは、結果論で、やっぱりどういう「動機」で行動したのかが、大切だと思った。




時々、暇潰しに、地の果てまで追い詰めて…って事が、頭をもたげるが、自分の「行動の動機」を考えるとき、やっぱり間違ってないよな!とも思えた。







そして、「それ」を考えるよりの、会いたい人や、やりたい事を考えるときが、一番僕には大切だった。




続く













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