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2019年06月07日17:51

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ミコシかつぎ

閑話休題。が、寄り道ついでに、最近仕入れたミコシの話を付け加えておく。前々回の日記の最後の部分の説明が分かりにくいかもしれないが、その具体的実例になると思う。

復習すると、柳田は個人ではなく群を文化発展の主体として重視した。群には創造的な模倣の能力がある。「要するに我々はたゞ口移しに、よその説話を受売するやうなへぼな国民では無かつたのである」(「和泉式部の足袋」『桃太郎の誕生』)。ただし、この群は烏合の衆ではあってはいけない。集団内に公的領域をもち、集団としての意志形成を行う群だけが主体性をもちうる。こうして文化創造力が政治的自治と結びつけられる。

この点を明らかにするために、橋川文三による丸山眞男と渥美勝の神輿(ミコシ)観の比較(『昭和維新試論』)をざっと眺めて、それから柳田の神輿観と比べてみることにする。丸山眞男は政治思想史家で、戦後を代表するリベラル知識人、渥美勝は右翼の聖人として崇められている人物である。

丸山は「神輿担ぎ」を日本の天皇制国家の前近代性を剔抉するための「たとえ」として用いた。担がれる神輿は実力を持たない「権威」であり、この権威を笠にきて実際に権力をふるうのは神輿を担いでいる文武の役人。しかし、この役人はまた右翼浪人という外部のものに「尻尾をつかまえられていて引きまわされる」。この浪人たちは自ら権力を掌握する気がないからまったく気楽で無責任である。結果として生まれるのが、日本特有の政治文化である「責任の所在の不明確さ」なんである。

橋川は言う。「丸山の場合には、みこしもそれをかつぐ人間も、またその両者の関係も、いずれもグロテスクな原始的性格のものとして、つまり醜悪なものとしてとらえられている」。

これに対して渥美の方は、神輿に個と全体の融合の理想を見る。「拝殿には、神と面々単独の参向であるのであるが、神輿には衆多の共同協力によりて奮躍興進する。大神の霊は、神の氏子らの個々の独参にその無限の静味を示し、氏子らの衆多の共同協力に奮興展開の裡に、その無限の動味を表す。」

この神輿におけるロマン主義的融合に対する憧憬には、渥美の社会的立場が反映されている。京都帝大を退学し、放浪者として生活した渥美は典型的な煩悶青年であった。立身出世を捨て、毎日街角で辻説法を行ない、「桃太郎主義」なるものによる世直しを訴える。そうして、現実の社会から疎外された自我を、自我と社会が完全に融合した理想社会の実現により修復しようと求める。渥美の目には、神輿がこの理想社会の象徴として映っている。橋川によれば、「渥美の場合には人の心をときめかせるような、アンガージュマンの美しさとしてそれ[=神輿]は描かれている。」

橋川は丸山の弟子であるが、渥美のロマン主義的心性にも共感を感じている。柳田国男にも渥美に似た心性があり、それが煩悶青年たちをひきつけた。三島由紀夫が柳田のなかに見出したディオニュソス的要素である。このロマン主義的な心性が、柳田をしてあの民俗の世界、自分の国のなかの見知らぬ国の発見に導いた。しかし、啓蒙主義の洗礼を受けた彼の理知的な頭脳は、現代の「幽世(かくりよ)」をそれとして受け取ることを許さなかった。公的な場所への欲求から、世間から逃避した好事家として私的な趣味に耽溺することを肯んじえなかった。柳田の知的軌跡は、己のロマン主義にたいする自己批判であったと言ってもいいような側面がある。

その柳田もまた神輿について語っている。『祭礼と世間』(1922)は、柳田が1919年5月に東京朝日に連載した同名の論説などをまとめたものである。宮城の鹽竈神社の神輿が「荒れ」て、民家だけではなく鹽竈警察署にまで突っ込んだ。氏子たちの言い分はこうである。神輿が荒れるのはそこに乗っている神様の意志である。担ぎ手の意志とは関係なしに、神輿が勝手にあちらこちらに向かうのである。

この件について調査を依頼されたのは東北帝大の日下部博士なる人物。信仰の対象となるものを物理学的に解明する「信仰物理学」なるものの提唱者である。彼の結論は、神輿の担ぎ手が複数であるため、その動きは個々のベクトルの綜合となる。だから、誰一人の意志でもないが、だからといって神様の意志でもない。警察署に突っ込んだのも、無反省の個人の集団行動が産み出した偶然の結果である。

何やらネオリアリストの国際関係論に似たような説明であるが、柳田は藤村風の慇懃で韜晦な文章をもって日下部説を批判する。祭りにおいて神輿が荒れて家々に突っ込むことがよくあることは知られている。そして突っ込まれるのは、共同体のルールを破ったがゆえに評判のよくない家と決まっている。当然に神が罰を下すべきだと考える家に罰が下るのである。みんなそれを知っているが、ホンネは表だっては口にされない。

つまり、神輿が警察署に突っ込んだのは神様のせいでも偶然でもない。あそこに罰を下さずにはすまさないという意志が存在している。しかも、おそらく担ぎ手である若衆たちだけの意志ではない。その後ろには氏子一同、共同体が控えている。若衆は共同体の意志の執行者にすぎない。ここから柳田は秀逸な結論を引き出す。つまり、この事件は「新旧の警察力のあいだの衝突」であると。

新しい警察力とは勿論明治国家の警察力のことである。旧い警察力というのは、明治国家の元で解体の危機に瀕しながらも生きながらえている地域共同体の警察力である。この共同体は通常神社を中心に組織されていて、独自の公的過程を経て集団の意志を形成し、それを実行に移す手段を有している。田山花袋の『重右衛門の最後』に出て来るような私刑も、裏返せばまた、そうした自治能力の証しである。

この神輿という伝統にたいする柳田の態度の特徴は、丸山や渥美のそれと比較すると更に明らかになる。橋川の言葉を借りれば、「[丸山は]はさめた冷静な散文の眼でみこしかつぎの陶酔を眺め、そのみこしかつぎがやがて小役人的な管理者たることもあるというところにまで、むしろシニックな観察を行きとどかせている。しかし渥美はむしろ陶酔と昂揚に同一化したい熱望をこめた詩人の眼でみこしを眺めている。」

柳田の目はシニックな観察者でもなく、詩人のそれでもない。自分が属する国家秩序には回収されない政治主体としての集団の存在をそこに認めている。そして、「祭礼と世間」が書かれたのは大正デモクラシー期であることを考えると、そこに政治的なメッセージを読み込みたくもなる。つまり、民衆は自分勝手な欲望をもつバラバラの私人の集まりである「大衆」、陶酔に駆られて破壊活動に走る「暴徒」であるとは限らない。彼らは決して「政治的未成年」ではない。民主主義を支える「公衆」たれる存在である。

要するに、柳田は丸山のように古い文化を近代精神とは相容れない「因習」として切り捨ててしまわない。だからといって、渥美のように文化を「国体」とか「民族的心性」などの神秘的なカテゴリーに結びつけて、これもまた近代精神とは相容れないものにしてしまうことも拒む。そうではなくて、そこに近代社会の市民が備えているべき主体性の芽を見ようとするのである。

柳田が文化形成に必要だと見た主体性もまた、こうした自治能力と結び付いている。しかるに、今日のわれわれは、日下部博士のいうところの信仰物理学によって説明されるような行動ばかりになっていないか。反省を経ない私人が私的に独りで下した判断を、市場なり選挙なりの機械にぶち込んで集計すると、ガラガラポンと「世論」が出来上がるなどと考えてはいないか。その結果、神輿がどこに突っ込もうが、誰かがどこかでヘマしたとか天から降ってきた災難だとしか思えなくなっていないか。丸山の神輿かつぎ批判は、むしろ現代人のわれわれの方にこそ当てはまらないか。そして、今日民主主義が機能不全に陥っているのも、この博士流の考え方に一因がないか。そのために新しい生活を構想するという文化的創造力も弱ってはいやしまいか。
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