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2018年04月21日12:49

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ひとまたぎ

確か、唯物論という言葉は、義務教育で教わらないと思うけど、思春期に悩んで大人になるまでに誰もが思考が避けて通れない要点に当たるキーワードだから、いくらかわすのがうまくても、大概の大人ならば、唯物論という哲学用語の意味くらいは漠然とでも知っているだろう、ということで、既知と仮定した上で、マルクスの思想として、有名な、唯物論について、以下に議論しよう。

人間は、学校に遅れないように足を動かして走ったり授業中に手を動かして挙手したり、心が命じた通りに体を動かすことができるのだけど、このような、生体という命令系統の存在は、もちろん、唯物論に対する反例として、挙げることができる。

なぜならば、もしも物質が自己組織化した結果としてそこに心が生じてきたとする唯物論が正しければ、ちょうど本体が光を遮った結果である影が本体の動きに連動することはあり得ても影が本体を動かし返すことはあり得ないのと同じように、心は物で出来た世界の事態の推移に何らの影響力も行使し得ないことになるからだ。

しかしながら、このような反論に対しては、唯物論者たちの側には、以下に述べるような伝家の宝刀となる言い分が実は予備の装置として用意されていて発動されることになる。

すなわち、もし仮に、脳にしか心は存在しないとする我々唯物論者たちの主張に真っ向から反対して、脳以前である最初からすべての物が心という物を動かす能力を潜在能力として秘めていてそれが化学進化した結果として生物という段階に至って初めて顕在化した、というふうに、神秘主義的に考え得るとしても、脳や生物に存在する心よりも以前の段階の何かに対しても心という同じ呼び名を与えなければならない何らの必然性もありはしないではないか、と。

こう考えてくればもう、すべての物に心という意志が存在していてそれが意志通りに物を動かしているとする神秘主義と、物のほうが心よりも根源的な存在であるとする唯物論は、心という言葉の適用範囲が広いか狭いかの違いこそあれ、実は同じことを言っているのである、ということが分かるだろう。

唯物論の文脈に沿った言い方をするならば、たとえすべての物が見えざる神の手によって動かされているのだとしても、神は存在しない。

存在する以前の段階の無のことを神と呼んでいるのだから。

無とは数理科学ではプラスマイナスゼロのことを言っていて、存在とは無のプラスの存在とマイナスの存在への自己分裂の結果のことを指し示して言っている。

つまり、宇宙はなぜ存在するに至ったのかと言えば、空間的な大きさの無い点が膨張拡大したためで、無というエネルギープラスマイナスゼロが、運動する物質というプラスエネルギーと、膨張する空間というマイナスエネルギーに、分化した結果として、無から宇宙が誕生したのだから、宇宙全体のエネルギーの総量は現在に至るまでエネルギー保存の法則に従って合計プラスマイナスゼロのままに保たれている。

宇宙というマクロの領域だけでなく素粒子というミクロの領域においても何も無い真空から粒子と反粒子という電気的なプラスとマイナスが反転している物質粒子が対生成しては電気的引力で引かれ合って対消滅している。

このように、存在は無から発出されてきては無へと帰還するものだ。

ちょうど、脳の視覚野を損傷した患者が、症状の進行につれて、まず七色が四色程度に、ついで白黒二色に、しかるのち灰一色に、というふうに、全体の内部分節が消失していって脱分化することから分かるように、人間から、猿、犬、猫、ネズミ、魚、アメーバ、バクテリアへ、と生物進化の系統樹を根っこのほうへ遡行していくならば、心という意味構造や価値判断の喜怒哀楽という複雑な分化が快不快という単純な分化にまで退行していって、無生物においては、心の分化が未分化である、すなわち、心に関して無である、とする唯物論の言い分は、かくて、神秘主義と見解の一致を見る。

灰の内に白も黒も含まれているのと同じように、存在という顕前秩序を未分化な混沌として内蔵しているのが無なのだ。

存在と無が相互乗り入れしていて反対者が一致しているということを、認めることからこそ、哲学的営為は出発するので、以上に縷々述べた。

ただし、今まで言ってきたことを覆すようなことを言うけど、ここだけの話、本当のことを言えば、神秘主義者は神秘主義者たちのコミュニティを支配している神秘主義という公式見解に反する唯物論という考えを所持してはいけないとされていて、唯物論者は唯物論者たちのコミュニティを支配している唯物論という公式見解に反する神秘主義という考えを所持してはいけないとされていて、神秘主義者と唯物論者という反対者たちの思考が歩み寄って譲歩し合って見解の一致を見るまで対話することは、いずれにせよ、ありえなくて、僕は、生まれてこの方如何なるコミュニティにも適応できたことがないからこそ、このような横断的な知を所有している、というところを、開示して見せた次第である。

どのみち、人のコミュニティは固定観念の塊で、帰属によって精神の安定は得られても独創的な考えはできなくなっていく。

つまり、固定観念に反応し続けることができないという抜き差しならない事情を負っている僕は、唯物論とも、神秘主義とも、反する、独創的な考えを、所有してしまうに至っている、という意味で、アウトローな厄介者なので、何らかのコミュニティに帰属して生きている人々の集まりの中に入って行って、反対者の一致を説けば、九割九分が僕の敵に回って勝ち目のない喧嘩になるから、こうやって、ネットの片隅で、密やかにやっているだけだ。

人々が認めまいとしている現実を認めさせようとして顰蹙を買ってきた僕の議論は今後も一切の学問と無関係だろうけど、僕はまともな育ち方をしてきていないので誰からも相手にされなくても仕方ないとも思う。

メンヘラで申し訳ない。
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