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2017年09月08日08:01

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一番最後まで残るもの

本音を臆面もなくストレートに表現できるのは未だ理性を植え付けられていなくて本能しかない赤子だけで、感情表現に不具合が出ることが大人になることだ。

僕が誰かに否定されても否定し返さずに泣き寝入りするのは、悔しくても自分のところで言い争いを終わらせるという許しこそが大切だと思うからでもあるのだけど、熱くなることなしに冷静に相手を否定することができなくて、感情的になって理性が崩壊してしまい、僕の否定的言辞は支離滅裂でしどろもどろなものになってしまう、ということを、見越しているからでもある。

理性の本質が全てが一挙に与えられることを妨げて一つ一つ小出しにさせる分析的な論理性にこそあるのに対して、感情的になれば何もかもが一遍に出て来て、思いが溢れるスピードが言語表現にもたらすスピードをはるかに上回ることによって、論理破綻してしまうのだ。

人間が理性によって世界を認識するときは時空という枠に入れてしか捉えられない、と説いた、哲学者ショーペンハウアーによれば、時空の本質は全てが一挙に与えられることを妨げて一つ一つ小出しにさせるところにあるのだけど、時空とはもちろん、時間と空間という間のことで、間を隔てる仕切りによって分割不可能な全体を一つ一つの部分に切り分けて、一つづつ現象させていくところに、時空の本質はある。

現時点が現象している間は現時点以外の時点は現象しないのと同じように、自分に心が現象している間は空間的に隔たっている他人に心は現象しない、ということは、自分の心が現象し終えたら他人の心が現象し始める、というふうに、自分は死んだら他人に生まれ変わる、ということだ、と考えて初めて、自他共に同じく人体が脳を機能させているという同一事情下において同一現象が引き起こるという自然の斉一性の原理が満たされることになる。

感情という自他未分の根源的な一者を理性が粉々に粉砕して時空の中に散布するのだ。

未だ理性を植え付けられていない赤子の感情表現が泣くことであることから分かるように、心の一番深いところにある古層は悲しみの感情なのだけど、自分が悲しめることこそ他人を慈しめるために必須な条件であるということが仏教では慈悲という概念によって言い表されている。

ショーペンハウアーによれば、悲しみとは心の奥底にまで下りていって自他未分状態になることだから、悲しめることこそ他人の苦しみを自分の苦しみと同一視する同情を可能ならしめる。

ショーペンハウアーの言う同情はもちろん、仏教の説く慈悲に相当する。

それらを愛と言い換えることができるとすれば、愛こそは、時空を超えて、一番最後まで残るものだ。

泣いて濡れたおむつを代えてもらうとか泣いておっぱいをせがむとか優しくしてほしいとかスキンシップがほしいとか泣いて表現することを赤子時代から抑圧されて育って余りに早く大人になれば愛の欠如した人間になるのだけど、思いっ切り抱き締めてもらって泣くこととして行われるインナーチャイルドの育て直しによって、抑圧を解除すれば、きっと優しい気持ちを感じることができるようになるだろう。
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