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2017年08月15日13:31

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大人の夏休み,宿題の読書感想文

夏休みも今日が最後。

5日間かけて,音楽のなりたちやら,発展と進化の変容やら,思想史・哲学との関係の本を読んでいる。
そして,ふと考えたことがある。

小学校でも中学校でも,国語の授業で「作者の気持ちを考えてみよう」という課題があったと思う。
作者の気持ちに思いを寄せること,確かにそれは作品の理解の上で大事なことには,間違いない。
しかしそこに,「こう答えるべき」という,画一的な模範解答が用意されていることに強い疑問を感じずにはいられない。

そして「作者の気持ち」より「それを読んだ私の気持ち」を考えることの方が,はるかに重視されるべきことなのではないか?

それは,文章表現に限らず,音楽を聴いて,他ならぬ私自身は,何をどう思ったのか?,絵画や写真,彫刻などを見て,何をどう感じたか?という,芸術作品という対象と,それに向き合う自分自身との間に,共通する問題だ。
自分以外の存在である「作者の声」では無く,作品を媒介にして自分自身の内面と向き合い,「自分自身の内なる声」に耳を傾けること。

文章,音楽,絵画はじめ,各種の芸術作品を見て聞いて,自分は何を感じ,何を思ったの
か?
それを考え,思いを巡らす。
その過程のひとつに「作者の気持ちになって考えてみよう」という視点も,確かにある。
しかし,それは,自らが何をどう感じ,何を考えたか,思索を巡らし,対象を理解するための「手がかり」のひとつに過ぎないのではないと思う。
それが視点,手がかりの全てではない。
作者の気持ちを考えたからといって,作品が理解できるのではない。
自分が何を感じたか?それを明らかにすることこそが,自分なりの作品の理解なのだと思う。

子供の頃の夏休みの宿題に,読書感想文の作文があった。
私にとってそれは,同じ宿題の中で,図画工作よりもラジオ体操よりも統計グラフづくりよりも,書道よりも,何より楽勝!(^^)!の課題であった。
だって,何も考えず,思ったことをそのまんま書きつらねればいいのだから。

しかし,身の回りには,読書感想文が苦手だった,という方も結構多い。
その背景の一つが「作者の気持ちを考えてみよう」という視点の方に,「それを読んだ私の気持ち」という視点より,重きが置かれていることにあるのかも知れない。

そこには,模範解答が既に用意されている前者は,評価の対象になじみやすい(点数をつけやすい)のに対し,後者は絶対唯一の正解などなく,評価の対象になじみにくい,という事情があるのだろうが。

さて,明日から,また仕事。
労働者のひとりとして「この仕事に対し,私はこう考える」という視点を持つことは許されないのだろうか?
「なぜこの仕事を処理する必要があるのか,作者(→上司?顧客?)の気持ちになって考えてみよう。仕事に対するニーズがある,需要がある。だからこの仕事を行うのが当然」という模範解答に,あまりにも慣れ染まりすぎてはいるのではないだろうか?

ってなことを考えた,夏休み最後の一日。
「音楽とは,芸術とは何か」それを考える宿題はまだ,終わっていない・・・(^^;)


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