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2016年11月15日08:50

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【バレエ】「ラ・バヤデール/バヤデルカ」の魅力

「シンデレラ」のプログラムの中で熊さんは、
バレエ団の今後のレパートリーについて、
次のように語っている。

「より演劇性の高い作品をもう少し増やしていきたいというのはあります。
今、レパートリーの中でドラマティック・バレエといえるもの、
つまり自分の生身の感情を腹の底から表現するような作品は、
『ロミオとジュリエット』くらいですから。」

1830年代にポワントの技法が確立されてから、
バレエ史の巨匠プティパが本格的に活動を始める、
1870年代までの約40年間は、
「ロマン主義バレエ」の時代とされ、
この間に創られた作品群の多くは、
「ロマンティック・バレエ」と呼ばれる。

この世のものではない存在や夢幻が好まれた、
ロマン主義の時代は19世紀前半までとされるから、
厳密には「その影響を受けたバレエ」だが、
タリオーニの「ラ・シルフィード」や、
コラーリ/ペローの「ジゼル」は、
まさにロマン主義が渇望した作品と言える。

続くロシア革命あたりまでのやはり約40年間、
旧ロシア・バレエの絶頂から衰退に至るまでが
「クラシック・バレエ」の時代で、
「白鳥の湖」を始めとする著名作品の多くはこの頃に登場した。

ちなみに「古典バレエ」と言うと、
「クラシック・バレエ」だけを意味する場合と、
近代バレエより前と言う意味で、
「ロマンティック・バレエ」も含める場合がある。

20世紀に入ると「クラシック・バレエ」は、
見た目の美しさを追求した「シンフォニック・バレエ」と、
演劇性を重視した「ドラマティック・バレエ」という、
両極端に分かれて再び進化を始める。

前者を代表するのがバランシンの一連の作品で、
グリゴローヴィチもその影響下にあると言えるだろう。
一方、文学作品を原作に、キャラクターの人物像を掘り下げ、
踊りは感情表現のツールに特化したのが後者で、
ラヴロフスキー、ザハロフに端を発し、
エイフマン、マクミラン、クランコらの名を挙げれば、
作品のイメージは掴みやすい。

熊さんのコメントは、
この「ドラマティック・バレエ」の作品群を指していると思われるが、
「クラシック・バレエ」の作品では、
「生身の感情を腹の底から表現」できないかと言うと、そうでもない。

チャイコフスキーの作品群をはじめとする「現代の古典」は、
登場人物の心理を深く掘り下げるには、たしかに不向きな作品で、
主人公は能天気だったり、ひとめぼれしたり、浅はかだったりと、
その人間性に深みを持たせるのは難しい。

しかしこれは、本来は整合性がとれていた物語を、
短縮化や踊り重視の改訂をしているうちに、
辻褄が合わなくなってしまったからで、
改訂が上手くいった古典中の古典「ジゼル」は、
「ロミジュリ」に比肩する心理劇であることを、
多くの踊り手たちが証明してきている。

また作品を造るにあたり、
物語性を重視していたというプティパは、
20世紀の「ドラマティック・バレエ」さながらの、
複雑なストーリーの愛憎劇も残している。
その代表例が「ラ・バヤデール」だ。

しかも19世紀に創られた「バヤ」には、
「ドラマティック・バレエ」には不足気味の成分が、
ふんだんに盛り込まれている。

「ドラマティック・バレエ」の特徴は、
人間の複雑な心理、感情の機微を、
踊りで表現するところにあり、まさにセリフのない芝居だが、
それは「ドラマティック・バレエ」から始まったことではない。

踊りで考えや感情を観客に伝えるというのは、
「シンフォニック・バレエ」を除けば、
古典から前衛的なコンテンポラリーに至るまで、
すべてのバレエの基本であって、
踊りから「言葉」が聞こえてこなかったとしたら、
それは踊り手の技術が足りないからだ。

バレエの本質を突き詰めたのが
「ドラマティック・バレエ」と言えるが、その反動か、
踊りを見せるだけのディベルティスマンには、
重きを置かなくなってしまった。

しかし宴や儀式の場面を盛り上げる踊りや、
荘厳で美しい群舞は、バレエの見せ場のひとつでもある。
婚約式の余興である多彩な踊りも楽しいが、
「バヤ」の「影の王国」は「白鳥」や「ジゼル」の群舞にも匹敵する、
名場面中の名場面とされる。

「ドラマティック・バレエ」に対する、
「古典バレエ」のもうひとつのアドバンテージは、
その「ゆるさ」だ。

原作があるのと、
踊り手たちに勝手な解釈をされるのを、
振付家たちが嫌がる、というのもあると思うが、
「ドラマティック・バレエ」の登場人物像は、
概して基本型からあまりぶれることはない。
しかし「古典バレエ」の振付家は、
もう存命していないから、好き勝手できる。(笑)

「バヤ」には主役が3人いて、
さらに大僧正を加えれば四角関係の物語となり、
この4人を結ぶ要がラジャである。

5人にはもちろん基本型があるが、
フリーハンドの幅が広いので、
それぞれの解釈を組み合わせれば、
いく通りもの物語が可能となる。

たとえば、まずニキヤについては、
しがらみとは疎遠の天然系とするか、
人間味のある女性に描くかで舞台の雰囲気は変わるし、
身近にいる女性として描く場合でも、
ガムザに負けない気性の激しい女性にするか、
控えめでおとなしい女性にするかで、
1幕終盤の「女の闘い」や、婚約式の描き方が変わる。

ガムザッティも、典型的な高慢で鼻持ちならないお嬢様、
立ち位置を理解しつつも悪役になりきれない娘、
さらには臣下にも敬愛される優しい少女と、
さまざまな解釈があり、高慢ちきパターンには、
激情型と謀略型があり、それぞれに主導型と暗躍型がいた。

ソロルも同様で、ニキヤ一筋のケースもあれば、
ガムザを一目見て心変わりした者、
計算高く一度は裏切るも、ニキヤに戻ってくる者もいて、
踊り手の実年齢によっては、等身大の2人もいれば、
年齢差故に、最初は相思相愛ではないパターンもあった。

ちなみに大元のストーリーでは、
ソロルとガムザは幼い頃から婚約関係にあった。
2幕の宴が版によって婚約式だったり結婚式だったりするのは、
その名残りで、この設定を生かすかどうかによっても、
別の解釈が生まれる。

大僧正も、ベテランの狒々爺が基本だが、
若くして世襲してしまい、理性と感情の間で戸惑う者、
若気のいたりで暴走してしまう者もいた。

己は世界の中心というラジャもいれば、
娘を目に入れても痛くない子煩悩の父親、
笑顔を絶やさず権謀術数に長けた家康的ラジャもいた。

Kの「バヤ」は2014年が初演で、今年は2回目。
期待の演目ということもあって、前回は劇場に6回足を運んだが、
初演のためか、キャラ解釈の幅はあまりなかった。
それでも烈火のごとくナイフを振り上げ、
アイヤに制止されてもなお刺そうとする日向ニキヤや、
佐々部ニキヤと浅川ガムザの窮鼠猫コンビは面白かった。

幕が上がってみなければ展開が読めない、
というのが「バヤ」の楽しみのひとつだが、
エンターテイメントに悲劇や、
人間関係のどろどろは欲しくないので、
「椿姫」「マノン」「カルメン」「オネーギン」などは実は苦手だ。

にもかかわらず、「バヤ」を観てしまうのは、
時代も場所もあやふやな、おとぎ話の要素が、
人間の醜い部分の輪郭を曖昧にし、
主人公たちの心情にのめり込みつつも、
客観的に観ることができるから、かもしれない。


いよいよこの金曜日から、
Kバレエの「バヤ」が開幕する。
http://www.k-ballet.co.jp/performances/2016-labayadere

ボリショイ、マリインスキーとも、
最近は寺院崩壊シーンをなくしてしまっているが、
熊川版はオリジナリティを出しつつも、
寺院崩壊場面は残し、太鼓の踊りも入れるなど、
マカロワ版、ヌレエフ版、ロシア系の改訂版、
それぞれの美味しいとこ取りをしている。

そして年明けには、寺院崩壊の場面は割愛されているが、
ウクライナの美姫たちが、オケ帯同でやってくる。
http://www.koransha.com/ballet/kiev2017/

両者を見比べてみるのもまた楽しい。
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