『日本の学校というのは、実に多様な物差し(人間の多面性を測る基準)
がある、多様な機会と場所と時間が用意されているところだと思っています。
実際の学校現場に働く先生方にとっては大変なことなのかもしれませんが、
勉強を学ぶ学習指導というところだけではなく、
生徒指導という領域もあり進路指導もあり、
なおかつさまざまな部活動だけでなく、特別活動の領域としても運動会、
文化祭いろんなものがありますね。
そういった多種多様な機会の中で子供たちは、それぞれが、
例えば勉強が仮にできなくても部活動で頑張ることを通しながら、
人間として成長することはどういうことかということを
いろんな形で学んでいく、こういうものがいくらでもある。
またそれを勉強を教える教員が、教室の中だけの生徒の姿ではなく、
多様な場面を見ていることによって、生徒自身も「多面的にみられている」
という包括的で安定した状況があるわけです。
つまり日本の学校には、子どもたちの多様な側面や活躍の様子を
確認できるスケール(モノサシ)がたくさんあるという風に、
私はずっと見てきました。身長を図るときの目盛である
センチメートルだけではない。体重を図るキログラム計もある。
体温を測る体温計もある。
こういったものが多様にあるからこそ、
実は子供たちがどこかで仮にうまくいかなくても、
別のところで自分なりに存在感を確認し維持しながら自尊心を維持し
「自分は生きていってもいいんだ」と自立の芽をはぐくんでいく。
あるいは、自分の弱いところをどう修正し、
自分の得意なところをどう伸ばしていくか、
そういう形へつなげていく場になっていたと思います。
ところが、「学力テスト成績」という、たった一つだけの物差しだけで、
子どもや人の成長や存在意義だけがはかられるような場に
学校がなっていくとしたら、いったいどうなるんでしょうか。
何が起きるのでしょうか?』
大阪の維新政治の教育壊しの一端です。
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