70年前は、そういうわけにいかなかったことでしょう。
わが家では、当時10歳の姉と、7歳の長兄は、岡山の
父の郷里に疎開していました。
祖父が当時70歳。元気な医者でしたから、生活は出来
ていたことでしょう。
8月6日に、家が空襲で焼けた母と4歳の次兄は、とり
あえず兵庫県神崎郡鶴居村(=現、市川町)の母の実家
に行ったそうです。
父は、大阪毎日新聞に勤めていましたから、空襲の翌日
から毎日新聞の寮に泊まって、新聞を作り続けていまし
た。
今日14日は、夜までの勤務で、明日15日は、16日
朝刊の整理デスクで、当直だったそうです。
あの広島の原爆の翌日、今のJR山陽本線は走ったそうで
す。鉄道員魂!です。
家族や我が身を忘れても、汽車を走らす。新聞を発行する、
というような気持ちに感動します!
戦火に倒れた皆さんも含めて、大感謝であります。
感謝、感謝。
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