私は、昭和21年春の生まれであります。
親しい産婦人科の先生によれば、母が私を妊娠したのは、
昭和20年の7月頃だろうとのことであります。
わが父母の家、西宮市今津久寿川の家が、空襲で焼けた
のは、8月6日の明け方のことでありますから、私は、
空襲で逃げ惑う母の胎内で空襲を経験していることにな
ります。
幼い頃、まわりの大人の皆さんの話題は、戦争一色であ
りました。
11歳年上の姉と、9歳上の兄は、縁故疎開で、父のふ
るさとに疎開しておりました。
西宮の空襲は、5歳上の兄の手を引いて、父母は、甲子
園の海に逃げようか、阪神電車の方に逃げようか、迷っ
たそうです。もし、海に逃げていたら、ほとんどの方が
やられていたそうです。
「アイゴー、アイゴー」と、朝鮮人のお母さんが、子ど
もを焼夷弾の直撃で亡くし、泣いていた様子を、母は、
亡くなるまで、しばしば語っていました。
今でも、甲子園球場では、高校野球の試合の初めにサイ
レンを鳴らしますが、母は、それを聞くたびに「空襲警
報」を思い出すと言って、すこぶる嫌がっていました。
【続く】
感謝、感謝。
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