mixiユーザー(id:24016198)

2014年08月14日23:30

721 view

夜が来るということ

夏休みを釧路で過ごした。
日曜日にフットサルFリーグ、エスポラーダ北海道対フウガドールすみだの試合が釧路の「湿原の風アリーナ」という素敵な名称の体育館で開催されるため、昨年からフウガのサポーター稼業を開始した身としては、これは行かずにはおられまいとて、さっそくLCCのチケットを手配したというわけだ。

釧路といえば、当然、釧路湿原である。
かねて願っていた旅の機会をようやく得て、十年以上前から捨てずにとっておいた雑誌『旅の手帖』の特集号を引っ張り出し、想いを新たにする。
そんな時、招かれた友人宅の書棚で、一冊の本を発見した。
近藤泰年著『釧路湿原を歩く』 福音館書店 1988年
近所の新刊書店に手頃な本がなく、一般的なガイドブックだけで済ませようかと思っていたところなので、ちょっとした予備知識を得ようという程度の軽い気持ちで借り受けて一読したところ、これが大変な本だった。

著者の近藤泰年氏は、1980年代に読売新聞の記者として釧路支局に在籍した。
大自然への漠然とした憧れから釧路に赴任するも、当時はまだ湿原の自然・文化的価値が認めらないためインフラの整備がなく、夏はおろか冬の湿原に立ち入ることすら困難であった。
著者は、日常の取材業務のかたわら、釧路特有の厳しい気候に身体を慣らし、まず車の免許を取ることから始め、地元博物館や研究者のもとに足繁く通って、少しずつ少しずつ信頼関係を築きながら、湿原立ち入りのチャンスを待つ。
こうして一歩一歩湿原との距離を縮めながら、著者は湿原を巡るさまざまな立場の人々と交流を深めてゆく。
それにつれて本書は、釧路の街のようすから湿原特有の自然条件の描写へ、湿原とかかわる人々のスケッチ、そこで得られた情報に基づく開拓期以降の湿原の歴史、そこで暮らし、去っていった人々の痕跡から、近年の観光地化の動きに対する地元民、特に世代を経たアイヌの、葛藤の末のそれぞれの選択、さらに特別天然記念物である丹頂の保護に単身その身を投じた人の肖像へと、どんどんどんどん深いところへ分け入ってゆく。
そこに出てくるほとんどの人は、組織ではなく、個人として、堂々と登場してくるのだ。
観光情報の足しに、などと思って紐解いてみたら、そこに書かれていたのは、釧路湿原をめぐる実在の人々の、強固で苦く、そして熱い物語であった。

近藤泰年氏の姿勢は、あくまでも控えめ。
新聞記者なのだから、事件取材にはそれこそ単刀直入の体当たりで向かったはずだが、湿原への興味は、彼の中で特別に神聖なものだったのだろう。
湿原に足を踏み入れるに際しても、連れて行ってくれそうな人と何カ月も付き合い、勉強を重ねた末に、相手が自然に「いいよ」と言ってくれるまで辛抱強く機会を待つ。
殊に、センシティヴなアイヌ問題に突き当たった時には、鍵となりそうな人物の名前を知ってからも、機が熟すまで充分な時間をおいてから、ゆっくりとその人にアプローチしてゆく。
他人の個人史に興味を持ち、しかも仕事とは無関係と言いながらも、職業柄いつかどこかで書くかもしれないことを相手に承知してもらうプロセスというものを、著者はきちんと踏まえている。
この本には多くの魅力があったが、それもすべて、著者のこうした基本姿勢があってこそのものだと思った。


本書で触れられていたものの一つに、1958年の小説『森と湖のまつり』がある。
『ひかりごけ』を出したばかりの武田泰淳が、1954年の夏に道東を取材して、4年にわたって文芸誌に連載したものだという。
アイヌ民族の保護と発展に尽力する学者に同伴して道東を訪れた女性画家が、将来を誓い合ったはずの和人教師に捨てられクリスチャンになった姉、学者の片腕として働きながらも独自の未来を勝ち取ろうとする情熱的な弟、学者を捨てた美貌のアイヌ女性と、今や漂泊の身となったかつての和人教師らの濃い人間関係に身を投じ、二つの血統がぶつかり合う中で喘ぎながら自問自答を繰り返す、そんな物語だ。
同年に高倉健と香川京子主演で映画化されており、我々は出発直前にDVDでこれを観て、旅の最中も少しずつ原作を読みながら旅を進めた。

『釧路湿原を歩く』を書いた近藤泰年は、武田泰淳の取材旅行に協力した現地の人たちにも話を聞いており、アイヌの妻に捨てられた学者は、それまでにアイヌモシリを訪れたたくさんの研究者たちの総体で、女性画家は武田泰淳その人であろうとしている。
(一般的には、学者は金田一京助、その裡にたぎる昏迷を抱えるアイヌ青年は知里真志保、クリスチャンの姉は真志保の姉・知里幸恵や伯母・金成マツのイメージが投影されているといわれている。)

物語のクライマックスは、秋の始まりに塘路湖に生えるペカンペという水草の実(菱の実)の収穫を祝うペカンペ祭りが行われる、標茶(しべちゃ)町・塘路(とうろ)を舞台に展開する。
塘路は、明治期の開拓や、川湯温泉の硫黄や石炭の採掘、その作業に従事させられた集治監の囚人(主に政治犯、思想犯)らでみるみる人口が増え、映画が撮影された昭和30年代も、汽車の他に馬鉄も敷かれ、一帯の交通の要衝であったらしい。
撮影には、アイヌを始めとした多くの人々がエキストラとして参加し、また主演の高倉健は、滞在先の宿で、夢中になって薪割りを手伝ったそうだ。
当時この町で小学5年生だった相米慎二は、この撮影風景を見て映画監督を志したという。


・・・と、塘路についてこんな細かいことを知るにいたったのは、丸4日間、この町に滞在したからだ。
塘路は現在も釧路湿原の東側の観光の中心地で、有名な「湿原ノロッコ号」が日に2回停車し、数軒の宿泊施設が建ち、カヌーなどの湿原遊びの拠点となっている。
ノロッコ号から降り立った初日は、小雨が降ったり止んだりのハッキリしない天候だった。
そこから数キロ離れたシラルトロ湖を見下ろすロッジに宿をとった我々は、宿に入るまでの行動予定を練るために、駅の近くでおばさんが独りで商っている小さないもだんご屋に立ち寄った。
あいにくのお天気ですね。ちょっと腹ごしらえしようと思うのですが、どれが一番おいしいですか?

そんな二言三言の、どこが彼の気を引 いたのだろう。
背後のテーブルで、帽子を被って黙って煙草を吸っていた年配の男性が、どこから来たの?と話しかけてきた。
よく見ると、だんご屋の隣には小さな工房があり、男性は普段、そこでなにかしらの民芸品を制作しているようだった。
昨日東京から札幌に着いたばかりなんです。
今夜はシラルトロに泊って、明日から「とうろの宿」という処に連泊する予定です。
とうろの宿にも来るの?俺はあそこの専属ガイドをやってるんだ。これからどうするの?
明日カヌーに乗るので、今日は遠くないサルボかサルルンの展望台にでも行こうかと思ってるんですけど、他にいい処はありますか?
サルボなら俺が今度案内してやれるから、二本松に行ったらどう?
湿原と、釧路の街全体が見渡せて、俺はここらでは一番好きな場所だ。
そういって、男性は地図を渡してくれた。
二本松の展望地は、ほとんどの地図には載っておらず、あってもその辺りに「二本松」と書いてあるだけで、道順はどこにも記されていないのだった。
こことこの辺りは雨で水没してるから、こっち側から登って行ったらいいよ。
行って帰ってくるだけなら、2時間ってところだな。

ちょうど焼きあがった、腹持ちのいい菱の実入りのいもだんごを食べながら、もう少しこのSさんと話を続けた。
ここに来るにあたって『釧路湿原を歩く』を読み、『森と湖のまつり』を観たというと、Sさんは驚いた顔で、あの映画を観て来たって人は初めてだなと言いながら、いろいろな話をしてくれた。
(相米慎二と彼とは小学校の同級生だったそうだ。)
――当時、高倉健はまだ馬に乗るのが上手でなく、乗馬のシーンは背格好の良く似た地元住民が代わりにやったこと。
――アイヌの集落などとっくになかったので、スタッフが映画のために粗末な小屋をたくさん建てたこと。
健さんが崖から走り去るシーンがあったろう?あれは俺の親父なんだよ。

駅前の小さな店で、奥さんがニコニコと団子を焼き、Sさんはガイドをやりながら細々と民芸品の木工を削っている。
田舎の観光地にありがちな風景ではあるのだが、Sさんからは、何かもっと違う雰囲気を我々は感じ始めていた。
もしかしてSさんって、『釧路湿原を歩く』に出てきた何人かのひとりじゃない?


二本松から観る湿原やキラコタン岬などの絶景を独占的に堪能した我々は、戻ってきてSさんに礼を言い、明後日の朝にぜひサルボの展望台を案内してくださいと頼んで、今夜の宿に入った。
夜も7時近くになると、厚くたれこめた雲の下に、赤黒い夕焼けが帯のように広がってきた。
鴉が唐突に鳴き止んだ。
高台から眺める無音の風景の遥か遠くに、雄阿寒岳、雌阿寒岳のシルエットが黒々と浮かぶ。
夕焼けの帯が、だんだんと押しつぶされてくる。
もうじき夜になる。
一日の終りに必ず夜が来るということ。
この逃れようもない日没を見ていて、周りに一粒の明かりもなく、全くの闇に包まれるということへの言い知れない畏れが、突然にひしひしとこみあげてきた。
カムイ(自然)とアイヌ(ひと)の世界。
祈りと祀りが繰り返されてきた日常。
夜から身を守るために、カムイにすがり、寄り添って生きていくために、信仰と習慣と炉端の物語ユカラが生まれたことを、私は唐突に理解した。
昼間Sさんの店でチラとみかけたムックリ(アイヌの口琴)が思い出される。
この静かな夕闇に、ムックリの音色ほどふさわしいものは無いように思えた。


翌日から滞在した塘路のB&Bのオーナーの話によると、いや、それからの3日間に塘路のあらゆる人々が異口同音に語るのを聞くに、やはりSさんはこの町の名物、いやスーパーヒーローであることは間違いなかった。
遡ればエカシ(アイヌの長老)の家系であり、昭和初期頃の集落を引っ張っていたT氏がさまざまな葛藤の末にアイヌのエカシであることを止めてしまってから、実質的にアイヌ社会をまとめてきたのはSさんの父上だったそうだ。
オーナーがこのB&Bを建てる際にも、土地の手配や建設そのものにも手を貸し、北大や東京の音大でトンコリ(竪琴)やムックリの制作を教え、郷土資料館にあるアイヌの工芸品や模型の復元も、ほとんど彼が手がけたという。
アイヌの代表として世界中の少数民族と交流を持ち、ロシアのサハへは毎年のように招かれているらしい。
『釧路湿原を歩く』の話をすると、その本に、多分俺のことも書いてあるんじゃないかなと云う。
塘路では誰に聞いてもこの本のことは知られていなかったし、Sさんも近藤氏の名前はもう忘れておられたが、彼が自分の時間をすべて湿原の調査に当てていて、仕事の忙しい時は夜になってから俺のところに話を聞きにきたっけ、彼はずいぶんおとなしくて慎重な男だったなぁと述懐していた。
やはり、若き日の近藤氏はそのように、目立たず控えめで、誠実な人物だったのだろう。

友人宅で近藤泰年の本に出会ったおかげで、武田泰淳の小説、内田吐夢の映画化作品を知り、結果、釧路湿原での滞在が極めて意義深いものとなった。
『森と湖のまつり』をようやく読み終えたので、『釧路湿原を歩く』を、これからもう一度読み返してみよう。


※右の写真は、塘路湖に自生するペカンペ。今が花盛りで、葉の下には実がなり始めている。
カヌーの上から一つ採って生のまま食べてみたが、味は木の実、そして梨のようなジューシィさもあって美味だった。
昔から9月ごろになると、アイヌ女性はこれを収穫して乾燥させて保存し、殻をむいてから粥や餅にして食べた。
「菱の実」の名の通り、殻を付けたまま乾燥させた実は、まさに撒き菱のように固くトゲトゲとして、ちょっと触っただけで痛いものだった。



10 12

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する