mixiユーザー(id:345319)

2009年08月30日17:35

12 view

高潔と沈黙、あるいは「できちゃったもの」を「なるべくしてなったもの」にしようとする英雄的な努力に関する独り言

柳田國男というのは謎の多い人物である。詩人、農政官僚/学者、貴族院書記官長、朝日新聞論説委員、そして民俗学者。幾つもの変節を経たような経歴の持ち主なのであるが、そのきっかけとなった内面上の動きを知ろうと思うと、そこに意図的としか思えない沈黙の壁がある。橋川文三が書いているように、卓抜した記憶力の持ち主である柳田はいろいろなことを詳細に記憶しているのだけど、肝心なところには鮮やかなまでにだんまりを決め込むところがある。

柳田の沈黙の別の例を挙げれば、彼はかなり政治的な意図を持って学問をやっていた形跡がある。彼にとって学問とは、単に好事家的な関心とか知識のための知識を求めるものではなく、急速に近代の波に飲み込まれていく日本の直面する現実の問題に取り組む実学であったのだ。しかし、多くの政治上の重要な問題、例えば国体思想とか植民地主義といった当時論壇を騒がし、また柳田の懸念に直接関係するような問題に関しては不思議なくらい沈黙を守っている。

理由は様々考えられる。柳田は非常にプライバシーを気にする人で、内輪の話を公開されるのを非常に嫌った。友人であった田山花袋がその小説で柳田の悲恋やその後の養子縁組の話を暴露した時も、非常に憤ったらしい。政治の方に関しては、うかつなことを言って筆禍事件でも起こしてもつまらんという現実主義もあったのだろう。また、徹底した実証主義者であった柳田は、証拠もなしに大胆な説を唱えることを潔しとしなかったようなところがある。つまり演繹ではなく帰納が彼の方法論だったのだ。

でも、もっと深いところでは、柳田というのはインテグリティを非常に気にした人というところに原因があるように思われる。インテグリティというのは日本語では誠実さとか高潔さと訳されているけど、もともとはインテグラル、つまり分割されない全体性みたいなものを指す。裏表が無くて一貫して筋が通っているということである。

田山花袋や泉鏡花の小説に柳田をモデルにした登場人物が出て来るのであるが、理想主義的でロマン主義的な美少年というのが若き日の柳田(当時はまだ松岡姓なのだが)に周囲の人が抱いていた印象のようである。この恋に悩む抒情詩人松岡國男が、詩を捨て実学である農政学をとり、また官界で影響力のある柳田家へ婿養子に入るというのは、文士仲間にはちょっとした驚きだったのだ。不思議なことに、柳田自身はこの辺の事情に関して徹底して沈黙を守っている。それどころか詩人としての過去を消し去ろうとするようなところがある。自分の全集にも、若き日に書いた詩を収録するのを頑に拒んだりしている。

柳田が気にしたのは、若気の至りで書いてしまったような青臭い詩を世間に晒すことは恥であるということのようだ。つまりあれは過去の過ちであり、今の自分にとっては既に清算されたもの、関係ないものであるということである。現在の自分のインテグリティを守るためには邪魔なものなのである。政治に関する意見をはっきり言わないのも、後で自分のインテグリティを汚すような不用意な発言を避けたいという意図があるのだと思う。嘘をつくより黙っていた方がマシという判断があるのだと思う。

これは柳田のパーソナリティの問題なのだが、彼の思想自体にこうした沈黙(と隠蔽)とインテグリティの微妙な関係が見出せるような気がする。そして、これは柳田に見られるナショナリズムにとって重要な一要素にもなっている。

現在あるものにはその来歴がある。今はどんなにインテグラルなものに見えても、そこに至る過程には様々な偶然が働いてる。人間であったら、それは多くの迷い、逡巡、決断、失敗、反省と言った経験の繰り返しである。つまり、それは裏表どころかいくつにも分裂して、どんな後知恵を使ってもつなぎようもないものなのだ。でも、今の自分のインテグリティにこだわりすぎると、現在の自分に合わせて自分史を再構成しそこからこぼれるものに関しては沈黙、隠蔽しようとしてしまう。

ナショナリズムというのもこれに似たところがある。現在ある国というのは必然ではなく偶然の産物である。その起源はとらえどころが無いし、それが出来上がる過程は矛盾や暴力に満ちていて美しくもないし合理的でもない。それは「できちゃったもの」に過ぎないのである。でも、現在ある国をインテグラルなものにしようとするあまり、都合の悪い過去について沈黙したり隠蔽したりして歴史を作り替えてしまう。結果は、それはある明確な起源から紆余曲折を乗り越えながらも必然的に発展してきた、「なるべくしてなった」という物語、つまり「神話」なのだ。

でも、こうした密封されたはずの過去は完全に消え去ることなく、今あるもののインテグリティを脅かす「亡霊」として我々にまとわりつく。

柳田がインテグリティにこだわったのは、彼の性格だとばかりは言えない。それはめまぐるしく変わっていく世情、つまり近代資本主義の導入が生み出す絶え間ない価値の変化に対して、変わらない価値を守ろうとする抵抗の所産でもあったような気がする。つまり、学者としての柳田が乗り越えたはずの理想主義やロマン主義との連続性がそこに見られるような気がする。ちょっと逆説的なのだけど、柳田が今ある自分のインテグリティのために封じ込めようとした過去をほじくりかえし再び統合しようとすることによって、また別のインテグリティが現れて来るのだ。これは柳田固有の経験というだけではなく、近代、現代に生きる我々の経験でもあるはずだ。

妙に神格化された柳田にしろ日本しろ、「できちゃったもの」を愛でるだけだったら神話も役に立つ。でも、もう少し柳田や日本を知ろうとする時には、神話を乗り越えていかないとならんのだな。柳田自身の議論を聞いていても、彼にとって「日本」というのは現存するのか、彼が学問により作り上げようとしている「神話」なのかわからないようなところがある。

柳田の日本観というのは戦後日本のナショナリズムを先取りしたようなところがある。でも、いたずらに柳田の民俗学者としての功績をほめたたえるのではなく、この柳田の沈黙についてもう少し深い議論が求められているのだ。それが柳田の思想が持つその世界史的意味、またナショナリズムを考え直すきっかけになると思う。
0 7

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2009年08月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031