關東の錢湯は新潟/石川/富山から上京してきた人が開いているとか鶴見に沖縄の人が多いってのは、関西にも与せないけれども、下町にも与せない心理だともう。最近は下町はある面では嫌われている。江戸っ子文化だけならば、私だって黙る。
ある意味極端な選択だが、どちらにも与せない。半藤一利が苦手なのは、彼の背後にある上野駅メンタリティだろう。
半藤一利は近現代には強いが、自分が下町人という尺度で守っているように思えた。關東では地域の権利が地域を決めるようなところがある。
最近、城南の下町という単語の成立背景に興味を持っている。城東の本家下町が山手に対する對抗軸で弱い人を守る尺度になっていればよかったのに、上野駅を介して電車でやってくる人の権利団体や彼らの關東での橋頭堡になっていったからだろう。そして、城東は
もし、妖怪がいる世界が存在する。その妖怪はヨイショだけが許されている。批判されている人はしばしば攻撃される。でも、影では結構批判されている。その影で批判される妖怪よりも怖いのはその世界の可哀そうで抑圧されている存在だ。それは妖怪をありがたが
日本の国内問題で、自分が気にしている東北と下町の關係性。最近思うけれども、電車の終着驛である上野駅周辺の地方の方が、未だに幻影を見ているようにも思える。
少し前、哲学ニュースnwkで、フランスは文化程度や料理とかすごく高得點なのになんで天下を取れなかったんだみたいなスレがあったのを見かけた。やはり日本だからそういう話題が出るのだろうな。ある一定より上の世代がフランスよりアメリカの豊かさに惹かれ
tvでも、全くテレビを見ない若者の話題をしていた。じゃあネットがtv草創期のtvみたいになっているならばそれはそれで構わないなと思っている。香川照之のネット中心の報道から感じることだ。
香川照之の性加害報道を見ていてあんまりtvでは報道していない。ネットではやたら報道している。もしかしたら、テレビをやめてネットに重要なことを流す方に仕向けているのではと考えてしまっている。
悩む。所謂洋楽/洋畫しか見えない世界と、インド映画や韓国映画などアジアのサブカルチャーも紹介される世界どちらが美しいのか。ある人はうちの家族はチャングム好きだよとかうちの家族は東洋西洋区別して見たことがないよというけれども、どうして一時期、
うちの近所ではセーラー服は女子校しか採用していない。二次元で存在する男子ブレザー女子セーラー服という組み合わせはファンタジーに所属する。
神戸新聞が連日横浜と神戸の比較を報道している。ネット時代、恐らく横浜市民が読むかもしれないと考えているのでは。でも、横浜に住んでいいて、神戸に対してあまり感じないのも正直なところだ。
自分が親の考えがおかしいと考えるようになったのはグランジのあと日本人が持ってきたoasisやbulrの存在かもしれない。洋楽などを嘲笑する考えが擡[もた]げてきて、親がムトゥや冬ソナにいやみをぶつけるのにいい時代の幻影を背負い込んでそれでしか見えない