昭和40年男というmookにアメリカ特集を組んでいたけれども、内容にゾッとした。自分の親世代の憧れって自分ら世代には凄く虚しくて、安全牌でこそこそ逃げ回っている感じがして悲しい。なんで、自分ら世代はアメリカに憧れなくなって、その憧れだった対象を嘲
つぶやきをTwitterと連動してよかった。何も考えなくてもいいから。ニュース資料だけを流すのは意外と楽なんだ。
私は東北には東北の近畿圈には近畿圈の理[ことわり]があると思うけれども、人にわからないものを使って押し付けてくる城東のやり方には疑問を覚える。江戸っ子をやってほしかった。でも、江戸っ子だけを抱えられないのだろう。
上野駅の周りに東北出身者ばかりを集めることははたして、良かったのかと思っている。城東地方とか上野駅周辺地方の人がそれに基づいて物事を解決しようとするだけだったのでは。暴力に取材したおもちゃを与えたくないだって子供が暴力で解決するからといって
自分には気持ちの上の安全牌も母親にとっては憧れなのだろう。近年になって許せないという気持ちのほうが強まっている。母親がコーヒーを飲む理由があの時代の憧れみたいなものが背後にあるみたい。母親の憧れが自分の我儘を制御するための道具として使われた
ホーム・アローンの世代だけれども、あそこに映し出されているものを見て、いちいち憧れたわけじゃない。年配世代がアメリカのホームドラマなどでいちいち憧れたときいて信じられないと思ったことのほうがいい。私に高校時代ハングルや中国語をやることを禁じ
僕らの世代では英文法のクラスは好奇心で近づくよりいい子ちゃん振つた人が将来安定したことをするためにあえてとっているという感じ。自分世代では、好奇心と実益って一致してないんだよね。自分の親世代では、ニューヨークは夢の都だけれども、ある意味、私
もし、アメリカの豊かさとか憧れみたいな感情だけならば私は母親とは喧嘩しなかっただろう。それだけで世界のすべてだと信じ切っていただろうと思う。
自由人たる弟は生きるべき存在だと思う。みんな弟のことを慕っているし、なくてならない存在だと思っているみたいだし。
何回も聞いているジャズのcdからラテン音樂風の音樂が流れてきた。昔好きだった。ロックもそうだけれども、ジャズで多用されるBluesブレーバーの音楽も好きだけれども、ラテン音樂は浪人生から大学の頃を思い出す。
最近思うけれども、京都人の方が、東京の上野駅の周りに住んでいる人より本音で物を語っているようにも感じている。關東人は建前を大声で話すところがある。本音は建前ににじませるのが關東人だ。
上野駅の周りは、しばしば東北人を迎えるための神殿として機能している。その気持が優先されるけれども、それでいいのですか?