わからなくなって当日を迎える日付が変わって部屋のどこかにそれがあるような気もする手段もあったような気がするそれよりも向こうから伝えがあるのではないかと考えたりもするそれが今日だけはないだろうという日に
朝7時23分 下から練習している音がする本を探しに出かけたいが日が眩しい説明しなければいいというものでもないが決めかねていると決めかねていることを話すことが億劫になる億劫になると距離をとり遮断して結果決めかねていることだけと向かい合うはめに
どうするかわかっていることをどうするもないのだがこういうのがいつもとおなじやりかたでよいのかどうかそもそもいつだってそれはなにかをうったえているわけではないはず