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俳諧師:近江不忍コミュの十四、發句の論理性に就いて(2) 『發句雑記』より

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 この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
 これは自作(オリジナル)の

『YAMAHA QY100 Motion1(Metamorphose・cembalo)曲 高秋 美樹彦』

 といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
 雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、ご自由にどうぞ。







     十四、發句の論理性に就いて(2)


 發句の論理性に就いては、前囘の句でもさうだつたが、

   閑かさや岩にしみ入蝉の聲 芭蕉

 この句に於いても言へる事である。
 この句は、邉(あた)りの氣配をいふものであるのかも知れないが、よく考へてみると「蝉」が鳴いてゐて「閑か」といふのは、論理的に納得出來ない事である。
 この句から論理的に諒解(りやうかい)出來る解釋は、次の三つの事が考へられる。


 一つは、蝉と雖(いへど)も鳴き續けてゐる譯ではないので、その鳴き止んだ一瞬の靜けさ、それが鳴いてゐる時が五月蠅ければうるさい程、その瞬間はしづかに感じられる。
 それは深夜のあまりの靜けさに耳鳴りがするのと同じやうに、白晝(はくちう)の蝉が鳴き止んだ後のしづけさに、まるで蝉の聲が耳の底に殘り、その状態を「蝉の聲」が「岩にしみ入る」と詠んだと解釋出來、「岩」はその場を動かぬ芭蕉自身でもある。
 かう考へるのが、論理的といふものではなからうか。


 もう一つはといふと、實際に芭蕉が旅をした舊暦(きうれき)五月二十七日(新暦の七月十日頃といはれてゐる)頃は、蝉の鳴く季節ではなかつたといはれてゐる事が氣になつて、それを基にして考へると、芭蕉が立石寺に立寄つた時、もし本當に蝉が鳴いてゐなかつたとしても、芭蕉は蝉の鳴き聲がうるさいといふ事は、當然、知つてゐただらうし、また、立石寺で蝉が鳴いてゐたらどうかといふ空想もしたものと思はれる。


 しかし、訪れた時の現實は「閑か」なたたづまひの寺の中に芭蕉はゐた。
 寺の周りの奇岩には、萬古(ばんこ)から鳴き續けてゐた「蝉の聲」が「しみ入」つてゐて、ゐない筈の「蝉の聲」が芭蕉の耳には鳴り響くやうに思へた。
といふやうに考へる事も出來るからである。
 いや、さう考へる方が詩人芭蕉の資質から見れば、自然であるやうに思はれる。


 うるさかつた蝉が鳴き止んで、その聲が岩にしみ入るやうに感じたか、うるさい筈の蝉が今はその季節ではないので、あるいは何らかの理由でその時は鳴いてゐないので「閑か」であつた。
 しかし、太古から鳴き續けた蝉の聲は、岩にしみ入つてゐるやうだと考へる時、芭蕉の耳には、いや、頭の中には一齊に蝉の聲が鳴り響いてきたのだ、と思ふ事こそが論理的に導き出されたものであらうし、そこに何らかの理由がない限りは、閑かだと思ふ一方で、蝉はうるさいのだと考へるといふやうに、この二つを區別する事は出來ないのである。


 だが、その季節ではないので、實際には蝉が鳴いてゐない場合だと「空想の句」になつてしまつて、その事がこんにちでは何か恥のやうに感じられてゐる。
 それは正岡子規(1867-1902)が、

 「寫生こそが俳句の最高である」

としたからであるが、しかし、そんな馬鹿な事はない。


 その意味では、芭蕉は『空想の句』が結構あるが、『空想の句』は寫生の句一邊倒(いつぺんたう)の作品と同じやうに失敗する事の方が多く、獨り善(よ)がりになり易いので、戒めるべきものであるといふだけである。
 これは芭蕉がその場にゐたのは事實だし、もしそれが事實ではなかつたとしても、『空想の句』といふよりは、『願望の句』といつた方が納得の行く表現といふものであらう。


 しかも、その句に込められてゐるものは、うつろひ易い生命の定着である。
思想及び論理的には少しも空想ではない。
 蝉の生命が岩に込められたやうに、芭蕉の生命は句に込められて、こんにちの我々の中に蘇つて來る。


 最後の一つは、實際に蝉が鳴いてゐても物思ひに耽つてゐたり、何かに熱中してゐる時だけは周りも氣にならないし、音を聞く事もないだらうから、我に返つた時五月蠅く鳴つてゐても聞えなかつたのだから、蝉の聲をしづかだつたのだと感じてゐたといふ事が言へる。
 沈思から我に返つた時、現實の蝉が森林に一齊に、短い命の限りを鳴き盡してゐるのを聞いて、己が命の果敢無さを句に閉じ込める。
 丁度、蝉が岩に聲を刻むかのやうに……。


 斷(ことわ)つておくが、筆者は基本的には蝉が鳴かうが鳴くまいが、歴史的事實といふものには無關系に作品を鑑賞するやうに心掛けてゐるが、それでもこの場合、この問題は重要な事であるやうに思はれる。
 ただ、以上の三つの理由で注意して欲しいのは、いづれも「切字」の問題で、「閑かさや」の「や」といふ切字に一切がかかつてゐる事が解るものと思はれる。
 切字といふのは、今更いふまでもない事だが、切字の下に述べられた内容とは切つても切れない關係にあるが、しかし、決して同一のものではないのである。
 丁度、「泥棒のやうだ」といふのが、泥棒ではないやうに……。


 發句は永劫囘歸の性質を有してゐて、

   古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉

 といふ有名な句があるが、この場合の「古池」の「や」といふ切字は、まだ「蛙」の「飛び込ん」でゐない状態を讀者に提示して、そこに「や」の下にある「蛙」が「飛び込ん」で、「古池」に囘歸して「水の音」がするのである。


 それを蹈まへて元の句に戻ると、「閑かさ」といふ表現は、どのやうな理由であれ五月蠅かつた「蝉」が鳴き止んだ状態を指してゐなければ、切字の役目を擔(にな)ひ得てゐない事になるのである。
 これで切字の囘歸性といふものとも、全く無縁といふ譯ではない事が解るだらう。


 ところで、『芭蕉三百句(山本健吉・1907-1988)』によれば、

   山寺や岩にしみつく蝉の聲

   さびしさや岩にしみ込蝉の聲

 といふ初案から再案を經(へ)て、決定に到つてゐるとの事であるが、それを筆者は、

   山寺や岩にしみ入蝉の聲

 とした方が、「さびしさや」の上五句よりも優れてゐる、と以前に何かに書いた事があるが、その時は初案のある事を知らず、筆者ならかう詠むと述べてしまつたが、いま思へば汗顏のいたりである。


 とは言ひながら、今でも「山寺や」の上句の方が良いと思ふ事に變りはない。
 何度もいふやうに、「さびしい」とか「うれしい」とか、「かなしい」とか「しづか」とかの感情表現を生にぶつけるのは、稚拙であるといふ印象が拭ひ切れないやうに思はれるからである。
 この句はこれ以外にも、蝉の種類は何だつたのかといふ事まで、とやかく穿鑿(せんさく)する人がゐるやうであるが、筆者には無縁の話である。
 因みに筆者は最も穩當(をんたう)な、一番最初の解釋を支持する



     一九八八昭和六十三戊辰(つちのえたつ)年十月七日





次をどうぞ

十五、空想の句の視點に就いて 『發句雑記』より
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     初めからどうぞ

一、發句と「俳句」 『發句雑記』より
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