ミズン『言語の人類史』がアマゾンから届いた。図書館で借りた本ではないので、自分のペースで書き込み・折り込みなどしながら読んでいる。
ミズンを読んでいると、ある程度の文の塊を読んだところで、ふと足が止まる。そこまで書かれてきたことをまとめて受け取り、そのあとで、こちらが考え込む。チンパンジーの道具使用と人類の技術進歩の差は何によって生まれたのか、言語はそこにどれほど関わったのか、さらに洞窟壁画のような「絵」は、技術や思想の伝達にどれほど寄与したのか。先を読めば、著者自身の考えは書かれているのだろう。それでも、途中で立ち止まり、自分で考えることには十分意味があると思う。先に答えを受け取ってしまうと、理解したつもりにはなれても、自分がどこで躓き、どこに引っかかっていたのかが見えにくくなるからである。
私が引っかかって立ち止まったのは、「絵」の威力だった。未発達な言語に先立って、あるいはそれを補うものとして、絵は技術や思想を後世に伝えるのに相当有力だったのではないか。そう考えたとき、ふと漫画のことが頭に浮かんだ。漫画は単なる絵ではない。コマ割り、吹き出し、擬音、効果線、視線誘導、時間の圧縮と伸長――そうしたものが複雑に組み合わさって、読者に場面と運動と音と心理とを読ませる、一つの高度な記号体系になっている。田河水泡の『のらくろ』から現代のコミックにいたるまで、そこには明らかな進歩と洗練がある。それは読み解く読者側からみると、誰かに体系的に教わったというより、多くの読者が作品に触れるなかで自然に身につけ、共有してきた文法でもある。
だが、ここで気づかされるのは、絵や図が「直感的に分かるもの」だという通俗的な見方の危うさである。漫画の文法についていけない若者がいる、という話を耳にするとき、そこにはアニメのように時間や音や動きが自動で与えられるメディアとちがって、漫画の読解には独自の能動的な訓練が要る、という事情があるのだろうと思う。長文の読解が苦手で、短文要約でしか全体を処理しにくい、という現象とも、どこか相似的である。文章にも絵にも、それぞれ固有の読みの作法があり、それは自然に与えられるものではなく、慣れと訓練のなかで身についていく。
このことは、自分が少しは読める電気回路図のことを考えると、いっそうはっきりする。私は物理が専門なので、回路図を見れば、まったくの門外漢よりは多くのことが分かる。だが、専門の電気エンジニアの読み取り精度にはとうてい及ばない。こちらが「だいたいこういう回路だろう」と見ているところで、彼らは機能ブロックの配置、設計意図、ノイズ対策、弱点、改良の余地にいたるまで読み取るのかもしれない。同じ図を見ていても、見えている情報量と解像度が違うのである。この差は、コミックの一般読者と、それを職業として深く読み解く編集者との違いにも似ているだろう。前者は物語の筋や感情の流れを追うが、後者はコマ運び、ページをめくらせる位置、吹き出しの負荷、視線誘導の巧拙まで読む。つまり「読める/読めない」という二値ではなく、読解には階梯がある。
そう考えると、絵や図像とは、言語以前の素朴で直感的な伝達手段なのではなく、それ自体が訓練と習熟を要する高度な記号体系なのだということになる。重要なのは、ただ絵が描けることではなく、その絵をどう読むかを共同体の内部で共有し、洗練し、次代へ受け渡していけることである。もしそうなら、人類の文化進歩を支えたのも、単に「言語があった」という事実だけでは足りない。言語、身振り、実演、絵、図像――そうした複数の記号体系が互いに補い合いながら成熟し、その読解共同体が育っていったことこそが、技術や思想の累積的な進歩を可能にしたのではないか。
ミズンの本を読みながら、私はそこまで考え込んだ。先を読めば、おそらく著者自身の整理があるのだろう。しかし、その前にこうして自分の手で少し泥をさらっておくことには、やはり意味がある。著者の答えをただ受け取るのではなく、自分の問いの輪郭を確かめ、そのうえで本の続きを読む。そのとき初めて、書物の言葉は単なる知識ではなく、こちらの考えに対する応答として響いてくるのだと思う。
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