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2026年09月11日07:43

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「分かる」と「条件付け」との間

図書館で貸し出し延長をして、ずんずん読んでいる――と言いたいところだが、実際には立ち止まり、考え込みながら読んでいる。
ミズン『言語の人類史』で、強烈に印象に残った箇所があった。

チンパンジーのヴィッキーに、ヘイズ夫妻が言語を教え込もうとした実験のくだりである。1950年頃の話らしい。

大意をかなり圧縮すると、こういう内容だった。

命令して声を出させているときに、ヴィッキーの唇を操って「ママ」「パパ」「カップ」という発音に十分近い発声を教え込んだ。
ヴィッキーは最初はこの三つの言葉を正しい意味で使うことができなかったが、「適切に使うよう命じると」、言葉や意味を間違えることも多かったものの、時々は使えるように学習したという。

しかし、この時にヴィッキーが実際に何をしていたのかは不明であり、言語を学習していたわけでも、発話能力を証明したわけでもないことは確かである。

この「適切に使うよう命じると」という文の後ろに、筆者ミズンは(ぞっとする表現だ)とヘイズ論文のすぐ後に感想を挿入している。私も同感だ。
それは「分かった」のではなく、相手の顔色を読んでいただけではないのか。
喜ばせるため、あるいは自分に辛く当たられないようにするために、それらしい反応を返していただけではないのか。

そう思うと、これはチンパンジーの話だけでは済まない。
人間の教育や訓練の中にも、似たことはかなりあるのではないかと思えてくる。

運動系の指導では、反復練習をひたすらさせる。
座学系の指導では、練習問題を大量に解かせる。
部活では、ときに「しごき」に近い訓練まである。
補習の場面では、一対一で向き合う教師に対して、生徒が「これ以上時間を取らせるのは悪い」と感じたり、「早くこの場から解放されたい」と思ったりして、「分かりました」と演技してしまうこともあるだろう。

そう考えると、「できるようになること」と「分かること」は、似ているようでかなり違う。
正しい反応を返せること、正解できること、相手を安心させること、それだけで本当に理解したと言えるのか。
ここには、かなり疑わしいものがある。

ただし、ここで話は単純ではない。
反復や条件付けが、ただちに悪いわけでもないからだ。

たとえばSAXの練習。
速い指使いや息の入れ方は、理屈では分かっていても、それだけでは吹けない。
何度も反復して、指や息に覚えさせるしかない。
これは確かに一種の条件付けだろう。
しかし、その条件付けがあるからこそ、はじめて「分かって吹ける」ところまで行ける。
身体がある程度自由にならなければ、理解そのものも実際の演奏には結びつかない。

野球のノックも同じだと思う。
昔ながらの部活では「しごき」の側面もあるだろうし、量をこなさせることが自己目的化する危うさもある。
それでも、守備の反応というものは、頭で分かっているだけでは間に合わない。
打球判断、第一歩、重心移動、捕球から送球へのつなぎ。
そういうものは、やはり反復によって体に回路を作る必要がある。
だからノックも、無益なばかりではない。

すると問題は、条件付けそのものではなくなる。
条件付けには、少なくとも二つの方向があるのではないか。

ひとつは、こちらを自由にする条件付け。
反復によって身体や思考に余裕が生まれ、その先で本当の理解や応用へつながっていくもの。
SAXの練習や、うまく機能しているノックはこちらに近い。

もうひとつは、こちらを従順にする条件付けである。
相手の顔色をうかがい、正解らしい反応を返し、その場をやり過ごすことだけを覚えさせるもの。
ヴィッキーの実験に感じた不気味さや、補習での「分かりました」の演技には、こちらの匂いがある。

人は反復によって身につける。
だが、反復なら何でもよいわけではない。
その反復が、こちらをより自由にするのか、ただ従順にするだけなのか。
「分かる」と「条件付け」の違いは、そのあたりにあるのかもしれない。

そもそも私自身、「分かる」ということが、まだよく分かっていない。
哲学とは何か、科学とは何か、という私がよく考える「問い」にしてもそうである。
一応、" 哲学 ⊃ 科学 "というベン図は思いつく。
だが、その「含む」とはどういうことなのかも、また簡単には言えない。
考えてみれば、哲学とは何かを問うこと自体が、もう「分かるとは何か」という問いから離れていないのだろう。

ヴィッキーの実験を読んでいて怖かったのは、チンパンジーに無理をさせたことだけではない。
人間の教育や訓練の中にもまた、「理解したように見せること」を引き出してしまう構造があるのではないか、と感じたことである。
そして同時に、反復や条件付けなしには届かない理解もまた、たしかに存在する。
この二つがきれいに分かれず、互いに食い込み合っているところに、問題のやっかいさがあるのだと思う。


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