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2026年08月17日00:06

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三宅香帆『考察する若者たち』

三宅香帆『考察する若者たち』(PHP新書)を読了した。
ところてんを食べるように、するすると一日で読み終わってしまった。
この「するすると読めてしまった」という感覚は、いったい何なのだろうと少し考えた。

正反対の読書体験として思い浮かぶのが、半年前から少しずつ読み進めているハンナ・アーレント『人間の条件』である。
こちらは、まだ一割も読めていないのに、読み終わるのははるか先に思える。

両者を比べてみると、まず「言葉」の扱い方が違う。
三宅氏の著作では、言葉の定義がやや恣意的に感じられる。
この点については、先日の日記「『考察する若者たち』の『考察』を考察する」でも書いたように、とりわけ「考察」という語の定義に強い違和感が残った。
それに対してアーレントのほうは、自分の使う言葉の輪郭を、読者に噛んで含めるように丁寧に納得させていく。
この差は大きいと思う。

……と、ここでアーレントについて語ろうにも、まだこちらは読了していないので、この先は三宅氏の本についてだけ書く。

本書では、令和の若者たちの感覚の変化がいくつも取り上げられている。
たとえば、「萌え」から「推し」への変化。
そこには、趣味の分野においても「報われ感」や「報酬」を求める感覚があり、好きなタレントの成功と自分を重ね、一体化したいという欲望がある、という。

また、自分だけが特別に贔屓されたり、逆に蔑視されたりすることを嫌い、周囲とフラットで横並びでありたいと願う感覚も指摘される。
そして、社会に出て自分が他者より劣後していると感じたとき、その原因を社会の側に求め、陰謀論に引き寄せられやすくなる、という見立ても示される。

ほかにも、目次を追うだけでも、
「やりがい」から「成長」へ、
「メディア」から「プラットフォーム」へ、
「ヒエラルヒー」から「界隈」へ、
「ググる」から「ジビる」へ、
といった変化が並べられている。

なるほど、令和の若者という大きな象を前にして、「群盲、象を撫でる」のように、さまざまな角度からその輪郭を捉えようとしているのはよく分かる。
その努力自体は認めたい。

ただ、出される事例は、やはり著者自身の論点を補強するものに偏っている印象がある。
多くの評論がそうであるように、この本もまた、やや牽強付会な論証に寄りかかっているように思えた。

さらに言えば、こうした構造の変化を描き出すことには成功していても、ではその変化を駆動している大元の何かは何なのか、というところへの「考察」はやや不足している。
そのため、現状のトレンドを説明する力はあっても、次にどこから新しい波が来るのかを見通す力は弱いように感じる。

著者自身の理想は、最終章「最適化に抗う」で語られる。
ただ、ここはもっと熱を込めて、「なぜ抗うべきなのか」を読者に分からせようとする情熱が必要だったのではないかと思う。
あまりにもあっさりしていて、拍子抜けした。

しかも最後まで、本書は「考察から批評へ」という誘導を保っており、批評のほうが考察より上位にあるかのような見方を崩していない。
しかし、元理系の私には、この上下関係がどうにも逆に思える。
むしろ「考察」という営みのほうが、批評をその内部に含み込みつつ、さらに広い領域を包みうる概念ではないか。
この違和感は、最後まで消えなかった。

結局のところ、この本は現状の構造分析を主眼とした、比較的浅い著作に見えた。
そして、その浅さと読みやすさが、「ところてんのようにするすると入ってしまう」という読後感につながっているのだろう。

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