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2026年08月10日03:55

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「音無響子を完全無欠のマドンナにしなかった」からの連想拡大(ハチャハチャ)

『めぞん一刻』の音無響子を、完全無欠のマドンナとして描かなかったことの意味を考えていたら、そこから連想が妙な方向へ広がっていった。
いわば、マドンナという言葉そのものからの、ハチャハチャの脱線である。

「マドンナ」という単語で、私がまず思い出すのは、夏目漱石『坊っちゃん』のマドンナだ。
あの人物は、理知的で計算高く、少なくとも作中ではあまり好意的には描かれていない。
けれど、あれはあれで、もっと焦点を当て、解像度を高くして描けば、また別の本質が見えてきたのではないかとも思う。
『坊っちゃん』はあくまで坊っちゃんの視点で進むから、彼女はどうしても「そう見える女」として処理されてしまう。
だが、もしあの女性の側から世界を描けたなら、かなり違う像が立ち上がったのではないか。
もっとも、それをやるには漱石ひとりでは足りず、与謝野晶子か樋口一葉あたりとの合作が必要だったかもしれない。

合作といえば、ふと連想する。
古くはエラリー・クイーン、藤子不二雄、岡嶋二人など、合作の名コンビはいろいろいるが、最初に有名になった作家としては、やはりエラリー・クイーンなのだろうか。
こういうことを考え始めると、合作という形式そのものが、急に面白く見えてくる。

たとえば、ブロンテ三姉妹が、もし本当に合作小説を書いたらどうなっただろう。
それぞれの気質の違いが、うまく噛み合うのか、それとも激しくぶつかるのか。
題材さえうまく見つかれば、とんでもないものができたかもしれない。

さらに妄想を広げれば、紫式部と清少納言が、互いに肝胆相照らす仲として合作小説を書いたらどうなるか、というところまで行ってしまう。
もしこの二大平安女流作家が、紫式部のプロットで『源氏物語』を書いたなら、そこにはきっと、今の『源氏物語』にはない場面が差し込まれただろう。

たとえば「雨夜の品定め」に対して、女性側から男たちを品定めする場面があってもおかしくない。
そのとき、誰が「すぐれてをかし」とされるのか。
やはり頭中将あたりが有力なのではないかと思う。
一方で、薫や匂宮は、たぶんかなり手厳しく評されるだろう。
少なくとも私には、あの二人は冷泉帝の見事な覚悟に比べると、どうしても見劣りして見える。

こうして考えると、「完全無欠のマドンナにしない」という発想は、単に人物造形の巧拙の話にとどまらない。
誰の視点で描くか、誰に語らせるか、誰が誰を値踏みするのかという、物語の構造そのものに関わってくる。
音無響子から始まった連想が、漱石、合作、ブロンテ姉妹、そして平安文学にまで飛んでいったのも、たぶんそのせいなのだろう。


PS:私は、玉鬘と遠山家の娘(マドンナ)がよく似ていると推察する。

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