ホトトギスやカッコウのような托卵鳥のことを考えていて、不思議だなと思った。
たとえば、オオヨシキリの巣で育ったホトトギスの雛は、インプリンティングによって、オオヨシキリを親だと思って育つのだろう。
けれど成鳥になり、たとえばメスになって卵を産む段になると、自分を育てた親そのものではなく、その親によく似た別の鳥の巣に卵を産み落とす。
しかも、自分の雛の餌の取り合いになりそうな相手の卵を巣から落としてしまうことさえある。
こういう一連の行動は、たぶん「本能」と呼ばれるものなのだろう。
けれど、あらためて考えると、これはずいぶん不思議なことである。
学習したわけでもないのに、どうしてそんな行動ができるのか。
それはDNAに刻まれているのか、あるいはエピジェネティクスのような仕組みも関わっているのか。
進化生物学でいうESS、つまり進化的に安定した戦略としての托卵行動は、いったいどこに「記録」されているのだろう。
そんなことをつらつら考えていた。
結局のところ、答えとしてはいちばん素朴に、DNAのあちこちに刻まれた行動傾向として残っている、ということになるのだろう。
ただ、そうだとしても、托卵行動には「最初」があったはずである。
最初から完成された戦略として存在したわけではなく、どこかで、自分で雛を育てるより有利なやり方として選択され、少しずつ固定されていったのだろう。
そこで、さらに妙な連想をした。
アンデルセンの『醜いアヒルの子』である。
あの話では、アヒルの巣に偶然、白鳥の卵が混ざってしまったことになっている。
もちろん白鳥は托卵鳥ではない。
けれど、ホトトギスの祖先も、最初から托卵の習慣を持っていたわけではなく、こういう偶然に近い出来事が、遠い始まりだったのではないか、と想像してみたくなる。
つまり、『醜いアヒルの子』がもし無事に育って成鳥になったとしたら、その白鳥は「アヒルの巣に卵を預ける」という生存戦略を取り始める可能性も、理屈の上ではまったくのゼロではないのではないか、という連想である。
さらにそこから、E・R・バローズの火星シリーズのことまで思い出した。
あの世界では人間が卵生で、王女のような社会的地位のきわめて高い女性も卵を産む。
この設定は、たぶん作者が「美しい王女が妊娠して腹をふくらませる」というイメージを好まなかったからではないか、と勝手に想像している。
けれど、生物学的に考えると、この設定には別の問題が出てくる。
もし卵で子どもが生まれるのなら、その卵をすり替えることによって、自分の子を王女の子として育てさせる、という巨大な社会的・生物学的利得が生じるはずである。
そうであれば、王女の卵は厳重に保護・管理されるだろう。
しかし、その保護や管理を担う者自身にもまた、卵をすり替えたい誘惑が生まれるかもしれない。
バローズは、もちろんそんな生物学的ギミックを展開するつもりではなかったのだろう。
けれど、托卵という発想を知ってしまうと、あの卵生社会には当然そうしたリスクがつきまとうはずだ、とつい考えてしまう。
鳥の托卵から始まって、童話を経由し、火星の王女の卵の管理体制にまで思いが飛ぶ。
鳥の進化から童話へ、童話から火星の王女へ。科学と物語は、こんな思いがけないところでつながってしまう。
だから読書はやめられない。
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