mixiユーザー(id:68644421)

2026年06月23日08:02

14 view

完全なるノンデュアリティ覚醒のためのいやし

無条件 無努力からの
世界の見方(いやし、そして説明)

なぜ、スピリチュアルティーチャーは
いつまでも
分別してから、統一のための修行を説くのだろうか
それはもはや必要ない

まず 無条件 無努力のひとつ
がある
今それである

そのなかに
いぜんに分別した
「こころ」や物
があるにすぎない

今 それらは実在しない

なぜ
分析してから修行をすすめるのか

修行とは分析とおなじく
いぜんとして努力である

真理のための分析であっても

それは癒しそのものではない

癒しそのものに、修行はありえない

今

「こころ」も物もない

二つの意識をもつものはいない

意識はだれもがひとつである

それが存在意識による平安(癒し)である

形而上学的に分析するなら

在るがまま

から

「こころ」
や
その投影の

物(投影)
がある

と分析できるだろう

もっと分析するなら

こころ
と
物
のあいだには

まずシナリオがあり
あとに
魂たちがあらわれる

それゆえに

在るがまま(無条件 無努力)のなかに

認識は

「こころ」(大自我)
そして
シナリオがあり
魂たちというフォーカスがある

覚醒からみれば

私たちというフォーカスより
緩んだ(ゆるんだ)状態として
シナリオがある

なぜなら
大自我はシナリオのあとに
私たちを作ったからである

ただし
大自我とシナリオは

在るがまの癒しのなかで、
無効化され、在るがままからのエネルギーとして
もはやみなされる

したがって
フォーカスの順序は次のようになっている

在るがままから そのサブ性質のワクワクにより
「こころ」
次に
シナリオ
次に
魂たち(私たちというそれぞれのさらなるフォーカス)
次に
投影(多次元ボディやその環境)となる

これを
癒しのなかでみると

在るがままのなかに
「こころ」や客体意識やシナリオがあるが
そこに
さらなる私たちというフォーカスがあり
そして日常生活がおきているようにみえる
あるいは
身体と同一視している場合がある

ということである
これが覚醒からみた、仮説的なノンデュアリティの分析的な説明である

しかし
癒しとは
無条件 無努力によるいやしであり
いかなる分別もいらない
ひとつのいま
だけが実在しつづけているのである

説明のためにいぜんとして努力は必要であるが

癒しのためには

いかなる努力もいらない

これがナチュラルノンデュアリティである
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2026年06月>
日 月 火 水 木 金 土
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930    

最近の日記

もっと見る