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2026年04月22日06:43

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映画「マリリンとアインシュタイン」

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大学生くらいに映画館で初見。マリリン・モンロー(とははっきりしないが、地下鉄の風でスカートが吹き上がる、あの有名なイメージから始まるので、まあ誰がどう見ても、である)と覚しき女優が、アインシュタイン(これまた教授としか呼ばれない)に、風船とミニカーと懐中電灯で特殊相対性理論を説明し、「一般(相対論)はまた別よ」とやるシーンだけが、なぜか強く印象に残っていた Insignificance (邦題『マリリンとアインシュタイン』)の中古VHSを最近購入し、何度か見返してみた。
以後微妙にネタバレしてます、手に入りにくい映像とは思いますが、自分で見たいと思う人はここまでにして下さい。十行空けます。











初見では、ずいぶん洒落た場面だけ覚えていたものだが、見返してみるとこれは、そんなに呑気な映画ではなかった。
出てくるのはみんな「覚しき」人物ばかりである。マリリン・モンロー覚しき女優、アインシュタイン覚しき教授、マッカーシーを思わせる上院議員、ディマジオっぽい野球選手。要するに20世紀アメリカの神話的人物の仮面舞踏会なのだが、舞踏会というより、ホテルの一室で全員だんだん嫌な汗をかいてくるタイプの寓話である。

そもそも「女優」が「教授」の部屋に押しかけるところからして、かなり寓話的だ。彼女はただの気まぐれで行くのではなく、自分に貼りついた“セックスシンボル”というレッテルを、せめて「知」の代名詞みたいな教授の前でだけでも剥がしたいのだろう。

世間には♪マリリン・モンロー、ノーリターン、という死を悼む歌(帰らざる河"River Of No Return"の本歌取りby野坂昭如)を、さらに♪マリリン・モンロー、脳たりん、みたいな失礼千万な替え歌にまで歌われ、セクシーだけの女優として消費されたわけで、そりゃあ本人(覚しき人)としては、「私はあなたたちが思っているほど空っぽではありません」と一度くらい言いたくもなる。

だから、風船とミニカーと懐中電灯で特殊相対性理論を説明するあの場面は、単なる洒落たギャグではなく、かなり切実な自己証明なのだと思う。「一般相対論はまた別よ」という台詞まで含めて、私はただのスカート要員ではない、という。
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もっとも、その相手が「教授」であるところが、この映画の意地の悪いところでもある。これはセックスシンボルが知の権威に会いに行く話、というより、身体の記号と知の記号が出会って、どちらもまた中身を奪われた偶像にすぎないことが露呈する映画なのだろう。片や「歩く欲望の対象」、片や「歩くノーベル賞」みたいなもので、どちらも本人である前に巨大なイメージとして消費されている。

そしてそのホテルの一室に、権力の記号としての上院議員、男らしさの記号としての野球選手まで入ってくる。
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記号の見本市である。だが見本市にしては、みんなずいぶん心に闇を抱えている。教授は「原爆トラウマ」を強く持っていて、上院議員にそこを突かれると「あれについてはオッペンハイマーに聞いてくれ」と言う。責任転嫁といえば責任転嫁なのだが、あの言い方には、自分でも持て余している罪責感がにじんでいるように見える。『オッペンハイマー』を見た後だと、なおさら妙な重みが出る。野球選手はガムの景品で自分の写真がアイテム化していることが自慢(自分が記号として消費されている自覚などない)。

上院議員は、有名女優のそっくりさん(と彼は思っている)を金で買おうとして拒絶され、腹にパンチをお見舞いする。最低である。しかもその結果、女優は出血する。どうやら野球選手の子を流産したことが示唆される。国家権力の横暴も、男の所有欲も、女の身体に対する暴力も、この映画ではきれいに一本の線でつながっている。

その出血の始末を済ませ、教授の部屋から去っていく女優の姿に重ねて、教授には、広島・長崎を思わせる、あの炎に焼かれて倒れる悲劇的なイメージが見える。ここはかなりきつい。ひとりの女の傷ついた身体と、原爆で焼かれた無数の身体とが、教授の罪悪感の中でつながってしまう。もちろんそれは現実そのものではなく教授の幻想なのだが、その幻想の飛躍の仕方自体が、この映画の悪趣味さであり、同時に凄みでもある。

最後に残るのは、チェロキー・インディアンのホテルのエレベーター係の呵々大笑である。
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あの笑いは、単なる脇役の味では済まない。私には、人間たちの虚栄、暴力、知性、権力、色気、罪悪感、その全部をひととおり見物した自然の精霊か何かが、「人間なんて偉そうな顔をしているが、本質はこんなモノ、insignificance さ」と冷笑しているように見える。20世紀の神話的人物たちがホテルの一室で大騒ぎしていても、宇宙か自然の側から見れば、まあ、だいたいその程度なのだろう。

初見では、相対性理論を説明する洒落た場面だけが印象に残っていた。だが見返してみると、この映画は、有名人のパロディでも知的な悪ふざけでもなく、20世紀の偶像たちを一室に閉じ込めて、人間の矮小さと暴力と罪責感を、かなり意地悪く、かなりユーモラスに暴いていく映画だった。

セックス・シンボルとしてマリリン以前にもてはやされたリタ・ヘイワースだって、実際には波瀾万丈な人生を懸命に生きた頭脳明晰な女優だった。

レッテルと中身はまるで別物である。人にレッテルを貼って、それだけの存在みたいに扱うのは、人間を舐めてるとしか言いようがないよ。


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