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2024年02月29日00:06

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死に対して寛容な国?

 2月も今日で終わりですが、今月あったこのニュースを覚えているという人もいらっしゃることと思います→https://news.mixi.jp/view_news.pl?id=7747003&media_id=103
 安楽死法という法律で定められた要件が満たされれば、安楽死、尊厳死※が認められるオランダでは、こういうことも認められるようですね。

 ここ数年、一種のアイロニーを感じつつ時々想起することの一つに「安楽死、尊厳死が合法化されている国では、大抵の場合、死刑制度が(事実上)廃止されている」ということがあります。上掲ニュースの発信源のオランダも死刑制度は廃止しています。 
 死刑制度の廃止というと、人命を大切にしている印象を受けますが、その一方で、そんな国の一部は安楽死、尊厳死の方は認めているのです。
 死刑制度を存置する日本では、生きることに絶望した人が、自殺する勇気がなくて、死刑が確実になるようにわざと何人も罪のない人を殺して逮捕されるという身勝手で理不尽な事件がたまに起こることがありますが、そういう人は日本で死刑制度が廃止されたらどうするのでしょうね? 日本では今もなお安楽死、尊厳死を認める法律は立法されていませんし、判例においても、安楽死、尊厳死を認めて被疑者を無罪とした例もありません。
 ただ、この国では安楽死、尊厳死は常に非合法なのかというと、そういうわけでもないようです。
 例えば、下級審判例においては、安楽死、尊厳死が認められるための要件を幾つか掲げています。これは、その要件が満たされる場合なら、日本においても、安楽死、尊厳死が認められるということでしょう(ただし、当該判例の事案において要件が満たされると認定されたことはない)。
 その要件は、例えば、1962(昭和37)年の名古屋高等裁判所の判決(名古屋高判昭37.12.22)では;
(1) 病者が現代医学の知識と技術からみて不治の病に冒され、しかもその死が目前に迫っていること
(2) 病者の苦痛が甚しく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものであること
(3) もっぱら病者の死苦の緩和の目的でなされたこと
(4) 病者の意識がなお明瞭であって意思を表明できる場合には、本人の真摯な嘱託又は承 諾のあること
(5) 医師の手によることを本則とし、これによりえない場合には医師によりえないと首肯するに足る特別な事情があること
(6) その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうるものであること
が挙げられており、これが長らく実務における一つの規範となってきました。
 しかし、「東海大安楽死事件」に関する1995(平成7)年の横浜地方裁判所の判決(横浜地判平7.3.28)では;
(1) 患者が耐えがたい肉体的苦痛に苦しんでいること
(2) 患者の死が避けられず、その死期が迫っていること
(3) 患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がないこと
(4) 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること
が挙げられ、今日ではこちらの方が主流になってきているようです。
 両者を比較すると、以前は(患者)本人の現実的な意思が必ずしも絶対的な要件とされてなかったり、本人自身の苦しみというよりも周囲の者にとり「これを見るに忍びない」ことが重視されたりしたのに、近年では、患者の自己決定権という視点が重視されるようになり、周囲の者がどう感じるか等の問題は議論の中心論点からは後退してきていることが分かります。
 これは、安楽死の問題が、かつては森鴎外が小説『高瀬舟』で触れたように、痛みからの解放という側面が強調されてきたのが、鎮痛医療の発達によって痛みから逃れるためという側面が弱まってきたこと、さらに、人工呼吸器や生命維持装置などの開発と改良によって、回復の見込みがなくなった後でも本人の意思如何にかかわらず人工的に延命できるようになったことにより、自己決定権からの検討がますます重要になってきたことによります。
 そして、24年前の今日には、ついに最高裁も、エホバの証人輸血拒否事件において、この自己決定権という憲法にも民法にも明文の規定がない権利の侵害があったと認定しました。肝臓の腫瘍手術を受けたエホバの証人の女性信者が、事前に輸血拒否をしていたにもかかわらず(そういう自己決定を予め明示していたにもかかわらず)、医師の緊急判断で輸血が行われたとして、不法行為に基づく損害賠償請求を認容したのです。
 旧統一教会と同様、方々で問題を起こしているエホバの証人側の主張を認めたということは、一見、最高裁も教団に洗脳されたんじゃないの?という気がする人もいるかもしれませんが、ここではエホバの証人の信者であろうとなかろうと、事前に「輸血拒否」という自己決定を明示していたならば、その自己決定は尊重されなければならないということが述べられているわけです。
 この自己決定権がどこまで保護、尊重されるのか、その守備範囲は今はまだ不明ではありますが、理屈の上では、自己決定権の保障を推し進めれば、日本においても、安楽死、尊厳死が(今より容易に)認められる日が来るかもしれません。
 もし、死刑制度を存置したままそうなったら、日本は「死刑制度は存置しつつ、安楽死、尊厳死も認める」世にも珍しい国(死に対して寛容な国)ということになるでしょうね。


※刑法上の「安楽死」とは、「死期が切迫し、激しい苦痛にあえいでいる患者に対して、殺害して苦痛から解放する」場合をいい、「尊厳死」とは、「治療不可能な病気にかかって、意識を回復する見込みがなくなった患者に対して、延命治療を中止する」場合をいう(多分、決定的違いは作為によるか(安楽死)、不作為によるか(尊厳死)であろうと思われる)。
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