日曜美術館「美は喜び 河井寛次郎 住める哲学」を見る。
尊敬する陶芸家、河井寛次郎が、自ら設計した住まい兼アトリエ兼親しい友をもてなすサロンのような空間。
この家では、彼の「人となり」が、まるで彼の分身のように時を刻み続けていた。
言わば、家自体が一つの作品のように。
彼は言う。
「一度も見た事のない私が沢山いる。
始終こんな私は出してくれとせがむ。
私はそれを掘り出したい、出してやりたい。
私は今自分で作ろうが人が作ろうが、そんな事はどうでも良い。
新しかろうが古かろうが、西で出来たものでも東で出来たものでも、そんな事はどうでもよい。
私の好きなものの中には、必ず私はいる。
私は習慣から身をねじる。まだ見ぬ私が見たいから」
坂本龍一の訃報に接し、親交のあったたくさんの芸術家、作家たちが、彼へ追悼の言葉を捧げてきた。
その中で私にとって救いとなったのは、ある編集者の「坂本さんの中にバッハやドビュッシー、武満徹らが生きてきているように、私たちの中にも、あの日の坂本さんが生きている」という言葉だった。
私の中で、バッハやドビュッシー、武満徹や坂本龍一は生き続けている。
決して肉体としての死を迎えることはなく。
そして私もまた、彼らの音楽や言葉の一端に、河井が言うところの「一度も見たことのない私」自身の姿を見いだしているような気がする。
それは「私自身の姿」であり、「自らの進むべき方向」でもあるようにも思える。
天に召された星々が、星明かりとなって、暗い夜闇の中にあっても位置と方向をそっと導き示してくれるように。
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