「学校で先生が教えているのは知識ではなく情報で、その情報を知識化するには、暇な時間や遊ぶ時間がチャンスであり必要。
だから、先生たちがあなたたちに知識を与えること自体を期待しないでください。
なぜかというと、先生たちは一面でしか物事を語りません。長年その分野で研究し、何かを極めた人の一事例を伝えます。
それを信じるかどうかも、どう深めるかも個人の判断」
〜京都精華大学学長ウスビ・サコ「自由論」講義
↑坂本龍一 ウスビ・サコ対談記事からの引用
https://www.fujingaho.jp/culture/interview-celebrity/a34107381/ryuichisakamoto-oussoubysacko-200923/
これは、大学の講義に限らずあらゆることについて言えると思う。
情報という食材を用意しただけでは食事にならない。
どう調理するか?
他の食材や調味料とどう組み合せるか?
慣れ親しんだ味にするか、新しいレシピに挑むか?
そもそも自分は今何が食べたいのか?
これらを考え料理という形にして食べることで、はじめて自分の中に取り込み血肉化できる。
情報という食材を自己のうちに知識として血肉化するためには、記憶と意識を整理統合し、食材と調理法を吟味し、自分で頭と手を動かす「料理」という「遊ぶ時間」が必要なのだろう。
「知りたい」あるいは「見たい」「聴きたい」という欲求は、どこか食欲に似ている。
美味しいものは、ずっと食べていたい。
美味しい音楽や美味しい絵画も、ずっと耳に、目にしていたい。
いや、そんな生ぬるいものではなく、心身の維持に必要なものを取り込むという、生命の本能そのものが求める、切実で切羽詰まった欲。
それは、今、ここに生きる私の心身に変わるもの。
この欲求ある限り、自分もまだまだだ大丈夫なのだと思える。
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