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2023年12月23日12:23

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ベトナムのクリスマスと同国の歴史 2023年横浜みなとみらいライド第5回目12月10日(日)山手西洋館めぐり ZARDのクリスマスタイムより(後編)第5章から最終第7章 2022年と2023年の観光を振り返る

   <横浜みなとみらい 2023年第5回目12月10日(日)山手西洋館クリスマス展(後編)ZARDのクリスマスタイムより>

 前編 スウェーデンの歴史(創世記から14世紀)三渓園 馬の博物館
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 中編 フランスの歴史 ブルゴーニュ公国の歴史 
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引き続き、山手西洋館の「世界のクリスマス展」が舞台である。過去2回イタリア山庭園内のブラフ18番館のスウェーデンのクリスマス、みなとの見える丘公園内の山手111番館のフランスのクリスマスを取り上げた。その他西洋7館のうち残り5館と元町公園内のテニス発祥の地記念館のハワイのクリスマスを紹介する。

 第5章 イタリア山庭園内 外交官の家 ベトナムのクリスマス 同国の歴史 フランス領インドシナ連邦結成から太平洋戦争の日本統治下にて

横浜みなとみらい周辺地区を自転車で回る青年が訪れた場所は、イタリア山庭園内の外交官の家、ベトナムのクリスマス展である。

 外交官の家は、水路や花壇を幾何学式に配した西洋風の庭園である。明治期から大正期にかけて外交官として活躍した内田貞槌(うちだ・さだつち)によって、明治43年(1910年)に東京渋谷の南平台に建てられた邸宅を移築展示した。


 (1)ベトナムの現在 サイパ市

邸宅内は、ベトナムのクリスマス一色に染まっていた。人口は2022年時点で9747万人、国民の平均年齢は33歳である。

 詳細 スマートワーク 総研 https://swri.jp/article/1156

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 人口の8割は仏教徒、現地でクリスマスは若者の祭のような感覚を抱いているという。地域によっても催しは様々だった。南北に細長い地形上、北部は12月になると肌寒くなる。逆に南部のホーチミン市(旧称サイゴン)は、雨季から寒気に移り変わるクリスマス、人々は半袖で町へ繰り出す習慣がある。国内でもキリスト教が多いという。

 フォトフォト

北部は、年間を通して気温が高く、モンスーン気候に属する。険しい地形上、標高が高い都市は、気候が安定している。その一つの都市、首都ハノイより北西に250km、ホアンリエンソン山脈の山間に位置するラオカイ省のサパ市は、平均気温17度から23度と過ごしやすい。2013年12月に、51年ぶりに市内で積雪を記録した。標高は1600m、谷合の狭い地域を開墾して、古くから稲作で生計を立てていた。傾斜地を利用した棚田は、景観の良さから、観光客の目を引きやすい。日の光が差し込むと、稲穂が黄金色に染まる。収穫前の10月頃が最も棚田の撮影に適しているという。

 写真左 サパ市の位置 掲載元 PEACE IN TOUR
https://www.pitt.jp/report/vn-train.php
写真右 サパの棚田 掲載元 uide Vietnam 掲載元 
https://www.guidevietnam.org/ja/best-time-visit-sapa.html
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 人口は2018年時点で6万1498人、花モン族や黒モン族を含め、少数民族は今なお伝統的な暮らしを受け継ぐ。それぞれ民族が受け継いだ技法から生み出された繊細で、華美な、刺繍織物や家具製品は、都市圏へと出荷される。布製の枕は、質朴ながら温かみが感じられる。フランスの委任統治領時代には避暑地として開拓された山間のサパ市、15の少数民族は、文明からかけ離れた生活を送っていた。ベトナム政府は、少数民族の権利を認め、多様な社会を築き上げている。

 (2)フランスの統治下 インドシナ連邦形成

 ベトナムに、クリスマス文化が伝わったのは、19世紀半ばのフランスの政策にある。1858年にフランス王国が、インドシナ半島に兵を向け、軍事的に制圧をする。第二次帝政から共和制へ移行した1887年に、インドシナ連邦を発足し、フランス人から成る総督を置いた。直轄領コーチシナ(南部ベトナム)、半直轄半保護国のトンキン(北部ベトナム)、保護国のアンナン(中部ベトナム)、カンボジア、ラオスで構成される。

 フランスの東南アジア進出へのきっかけは、1858年にベトナムでの宣教師殺害事件にある。当時ベトナムを治めていた阮朝の抵抗を受けながら、南部サイゴンを占領した。1862年6月5日にサイゴン条約を結び、コーチシナ東部三省の割譲を迫った。1867年には、サイゴン条約に反して、コーチシナ西部三省を占領した。ベトナム南部サイゴン占領を足がかりに、南下をしていく。カンボジアの国王ノロドム王との間で1863年に条約を結び、保護国化した。カンボジアに対する宗主権を主張していたタイに対しては、対話する意思はなく、主張を貫き通した。戦争を避けるべく、カンボジアの北西部二州の宗主権を与えて、折り合いをつけた。

 1871年の第2次共和制時代において、南部から始まったベトナムの侵略は、北部へと展開する。1883年から1884年にわたる戦争において、ハノイに出兵する。2次に渡るフエ条約に基づき、アンナンとトンキンを保護国化した。フランスの影響力が及ぶにつれて、阮朝の宗主国である清朝が立ち上がった。1884年に、フランス軍と中国を支配する清朝との間で戦争が起こった。当初は劉永福の率いる黒旗軍が優勢に進めていた。兵力で勝るフランス軍は、中国沿岸部の要衝に砲撃を加える。両者互角の戦いだった。清朝は、対外的な問題で戦争継続が不可能になる。1884年12月に、宗主権下にあった朝鮮で、日本と結んだ開化派(独立党)がクーデターを起こした。甲申政変により、清朝の主権が脅かされたのである。清朝の軍隊を率いる李鴻章は、舞台を派遣して、鎮圧した。朝鮮半島の平定には、より警備を増強する必要にあった。フランスとの清仏戦争に、兵員を避けることができず、拮抗した戦いの最中、和平を結ぶ決断をした。1885年6月の天津条約により、清朝は、フランスに対して、ベトナムの保護国化を承認したのである。

 写真 掲載元 ウィキペディア インドシナ連邦より
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 フランスの支配域は、ベトナムとカンボジア全域に及んだ。1887年10月17日にフランス領インドシナ連邦とし、総督を置いて統治した。

 フランスの支配権が拡大するにつれて、カンボジア北部2州を割譲して、領土問題を一端解決を先延ばしにしたタイとの決戦は避けられなくなっていた。フランスの次なる目的は、ラオスだった。国土を南北に貫くラオスの左岸の主権はタイにあったのである。フランスは、力によって、タイを屈服させた。軍艦を派遣してチャオプラヤ川河口を突破した。タイ軍との砲撃戦に勝利し、バンコク港を封鎖した。(パークナーム事件)、交易が途絶えることによる物資不足に陥るタイは、フランスの要求を呑まざるを得なかった。1893年10月3日にタイはラオスの主権を放棄するとの文章に署名した。1899年にラオスはフランスの保護領になった。ベトナム、カンボジア、ラオスの支配権を手に入れ、現地人を安い労働力として登用した。

 植民地政策を任された当時の総督ポール・ドゥメールである。1897年から1902年まで総督として現地に滞在する。1931年から32年までの約12ヶ月におよび、第31代大統領職を務めた。各地域に行政機関を置き、財政を管理する。鉄道建設にも一役かった。1910年に先人を切って、中国雲南省昆明とハノイを結ぶ滇越鉄路(雲南-ベトナム鉄道)が開通した。ベトナム首都ハノイと南部の主要都市サイゴンを結ぶ南北縦貫鉄道は、1899年着工し、1936年に完成した。2つの区間は、海運と平行する。

 現地人の暮らしは厳しさを増した。農民たちは、搾取され、高い税を課せられた。教育においては、アルファベット文字を使用することを強制されたのである。

 抑圧された社会から解放を目指して、密かに組織が出来上がっていた。その一人が、生涯独立運動に身を投じたファン=ボイ=チャウ(1867年から1940年)である。1904年に、社会の変革を目指して、維新会を組織した。日露戦争を機に日本に渡り、東遊(ドンズー)運動を組織して、1905年にフランスと対峙した。期待していた日本から支援が得られず、鎮圧される。日本とフランスの間では、秘密裏に事が運んでいた。1907年に、植民地支配権の相互承認をする日仏協約が締結された。フランスは、ベトナム人の民族解放を掲げるドンズー運動に神経を尖らせていた。協定に基づき、日本側もフランスの要請を受けて、国内のベトナム人留学生に対して、強制退去処分を下した。1911年に中国にて辛亥革命が起こり、清王朝が倒れると、かつての宗主国ベトナムでも、独立運動が再度刺激される。辛亥革命を成し遂げた国民党と密接に結びついたベトナム光復会が発足した。ファン=ボイ=チャウは、革命後の中国の広州へと亡命し、新たな指導者が必要だった。フランスによって厳しい取締りを受けて、独立の声は押しつぶされた。フランス打倒を掲げる団体は、革命後の中国に拠点を設ける。後の1960年代から70年代のベトナム戦争の勝利の立役者
ホー=チ=ミンも中国から共産党を組織化していた。

  (3)太平洋戦争へ、日仏米の支配下にて

 対外要因からベトナムは、フランスの支配から脱することになる。1941年に、ナチス・ドイツが、フランスを占領し、親独ヴィシー内閣を発足させた。インドシナ半島へのフランスの影響力の低下は否めなかった。ベトナムには、中国を経由して、新たに日本軍が進駐した。1940年9月23日に、フランス領インドシナ総督が置かれたハノイに日本軍が入り、現地にて解放者として振舞った。4日後の9月27日には、日独伊3カ国同盟の調印式が行われた。条約にもとづくと、3カ国は相互防衛と共に経済的結びつきを深める内容だった。したがって、植民地政策を互いに支援することを意味し、世界大戦へ突き進むきっかけになった。

 フランスに対して、反感を抱いていたタイも好戦的になった。かつてはラオス領のメコン川右岸地域の影響力を持っていた。当時のタイ・ピブン政権は、1941年1月に、カンボジアの右岸地域を軍事侵攻していた。日本が、ピブン政権に肩を持ち、親独ヴィシー政権に対して、軍事的圧力で、主権放棄を迫ったのである。日本軍は1941年7月には、ベトナム南部まで進駐し、影響力を拡大した。

 
 写真 タイのピブン首相 掲載元 世界史の窓 
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 フランスからの解放者として振舞った日本軍だが、搾取する存在に変わりなかった。1941年7月から1945年3月までの間、行政権はフランスが、軍事面では日本が握っていた。現地人の立場から「仏印進駐」という。

 ベトナム人は、日本軍の圧力の下で、労働を強いられた。事態を複雑化したのは、日本の交戦国である米軍だった。米軍が、日本軍の施設をターゲットに空爆を仕掛けたのである。町の破壊により、南北に細長い物資の輸送ルートが途絶えた。天候不順による凶作が重なり、1944年10月から1945年6月にかけて、同国北部を中心に大量の餓死者が発生した。「ベトナム飢饉」として歴史に残っている。一説によると、死者数は200万人に達したとみられている。

 現地ベトナム人は、日本とフランスの二重支配下の中で、黙っていたわけではなかった。北部の山岳地帯を中心に、ホー・チ・ミンらの指導により、インドシナ共産党の下にベトナム独立同盟が結成された。ベトナム独立同盟はベトミン(越盟)と略称される。

  大戦末期の1945年3月、ベトナムの行方が左右される。フランス本国で親独ヴィシー政権が崩壊したのである。日本軍は、連合国側に付くとみられるフランスの行政に対して、軍事的圧力をかけて、追放したのである。

日本軍のベトナムに在住するフランス軍に対する作戦を「仏印処理」または「明号作戦」という。
単独支配を確立した日本は、阮朝最後の王バオダイをたてて形式的にベトナムを独立させた。来るべき連合国軍との決戦に備えたものの、1945年8月15日に連合国側が作成したポツダム宣言を受け入れて、降伏することにより、撤退したのである。

 詳細 GRE https://gre21.com/vietnam/history

日本とフランスの二重支配から解放されたベトナムは、1945年9月に、ホーチミンが主導し、ベトナム民主共和国が成立する。一方戦勝国側にたったフランスは、はれてインドシナ連邦再建を狙い、ベトナム民主共和国へ兵を向ける。1946年12月、ハノイにて、ベトミンが、上陸を試みるフランス軍を迎え撃った。軍事力で勝るフランスがハノイを制圧し、南部へ進軍する。農村部を中心に、ベトナムのゲリラによって、阻止され、苦戦を強いられた。1949年に、香港に亡命していたベトナムの独立の阮朝の最後の皇帝(在位1926-45)
であるバオ=ダイを担ぎ出して、傀儡国家ベトナム国を打ち立てた。国際社会は、当初フランスのインドシナ連邦の復権を支持しなかった。アメリカのトルーマン大統領もフランスの占領政策を否定していた。1949年に中華人民共和国の成立に伴い、態度を変えた。反共産党勢力を結集するべく、ベトナム国の支援に回ったのである。

 表向きには、アメリカをバックにつけたフランスの傀儡となるベトナム国と、ベトナム民主共和国の戦いとなった。その裏には、大国の思惑によって、現地人が前線の部隊に立たされ、犠牲を強いられていた。1954年5月7日に、ディエンビエンフーの戦いでフランス軍は、壊滅的な打撃を受けて、戦闘が不可能になった。同年7月21日のジュネーブ協定に基づき、和平が結ばれた。フランスはインドシナ半島からの撤退を余儀なくされた。

 写真 右 掲載元 文科省 https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/kentei/06060501/17-203/17-203-8.htm
 写真 左 ホーチミン(左側)と1953年40歳のバオダイ(右側)
掲載元 ベトナム ホーチミン生活 
フォトフォト

1955年には、フランスの代わりに、アメリカが影響力を持ち、バオ=ダイを退位させ、南部にベトナム共和国を作り上げた。1965年から73年まで、泥沼化した南北ベトナム戦争へと突き進む。1976年に北の民主共和国により、統一され、ベトナム社会共和国の樹立が宣言された。

 独立から47年、現地に根付いたクリスマス文化は、植民地時代の暗い過去を写しだす。今の若者は、デジタル化によって、スマホを使いこなし、海外の文化にも積極的に触れる。ホーチミン市のゴーパック地区は、毎年クリスマスになると、ヨーロッパの古城をモチーフにした装飾が施される。冬でも暖かい同市は、雪とは無縁な世界だった。白い雪に包まれた城壁に、カエデの葉が添えられたお城は、非日常的な空間を写しだす。窓からもれる明かりにより、凛とした風格の中に、温かさやぬくもりが感じられる、

 写真 掲載元 雲のように生きる 2023年12月21日付
https://good-life-xyz.com/ho-chi-minh-city-magical-christmas-lane/
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ベトナム人の間では、日本のアニメファンが多いという。1941年から45年の日本統治下の悲惨さを知る世代は、少なくなった。

 相次ぐ大国の植民地化政策や、利権がらみの戦争にさらされ、近代化は遅れた。高度経済成長期の日本のように、若者が多く、労働力としては期待される。人口オーナス期にあたる同国は、今高い経済成長の可能性を秘めている。

  第6章 西洋館巡りを続ける クリスマスタイムのBメロの歌詞

 イタリア山庭園から離れ、山手大通りに出ると、南側のゆるやかな坂を下り、山手公園内のテニス発祥の記念館を訪れた。冬場でも日中の気温が20度に達したこの日、テニスコートでは、試合形式の練習が行われている。高台に位置する山手町は、見晴らしが良く、坂の麓へと続く一戸建ての家並みを見下ろせた。

 公園内のスイセンの花は咲いている株は少なく、蕾の段階だった。ベンチのある広場には、中高生らしきグループや若いカップルの姿がある。

 青年自身も、公園でデートした日々を思い出した。

 クリスマスタイム Bメロの歌詞

「まなざしが怖いほど、真剣で嘘はつけなかった」

 人は、大事なことを本心から伝えるときは、一段と表情が引き締まる。相手側は、時に態度が変わるパートナーの様子から、怖気づいて、一歩引いてしまう。聖夜には、恋人と思いを語るには好都合だった。

 「過去の栄光なんて自分でも嘲笑(わら)えるよ。カラ周りして、身動きできない」

過ぎ去りし思い出は、木枯らしが吹く殺風景な町並みのように、寂しくなる。10月22日には、公園を散策するうちに、日差しを浴びて、明るい気持ちになった。ハワイのクリスマスの装飾が行われているテニス発祥記念館へと、足が赴いた。

 簡素な三角屋根の一室から成る館の扉を開けると、鈴の音が鳴る。奥の部屋から、1人の職員が出迎えてくれた。前回10月22日(日)にご説明いただいた方だった。お礼の言葉を述べ、ハワイアンクリスマスの展示を眺めた。 

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ハワイは、1959年にアメリカ合衆国50番目の州として認められた。リゾート地として名高く、観光業で栄える。日本人も古くから、正月に海水浴が出来るハワイは憧れの地だった。


 山手公園を離れ、ベーリックホールのオーストリアのクリスマス展、続いて、エリスマン邸のイタリアのクリスマス展を訪れた。

 赤一色で染まった部屋から、幸せそうな家族像が見える。青年自身も切ない気持ちを抱いた。

 以下 オーストリアのクリスマス展
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 Bメロのサビの歌詞に現れている。「ああ、明日は白い粉雪のように 過ぎ去るものすべて忘れよう」

 イブの日を考えると、どこか寂しくなる。周りには展示品を注意深く見て回るカップル、昔の思い出を語り合う年配の夫婦の姿があった。撮影に打ち込んでいれば、周りの目を気にしなくてすむ。ふとカメラを置くと、恋人と過ごした日々が蘇る。

歌詞:「ああ それでも失いたくないよ Christmas time 君と永遠に踊りたい」

            <Bメロ終わり、アコスティックギターのソロが入る>

 以下山手123番館 ペルーのクリスマス
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 以下 みなとのみえる丘公園 イギリス館のクリスマス
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 誰しも若い頃、素敵な異性と聖夜に語り合う情景を夢見る。現代になり、「ボッチ」や「一人○○」の言葉がはやる通り、恋人のいない若者の割合が増えている。一人でも楽しむには、写真撮影が最適だった。


 最終第7章 夜景大桟橋 平和へのねがい

 山手西洋館巡りを終えた青年は、各国のクリスマス文化に触れた。キリスト教の国々には、一年に一度の祭典、ヨーロッパからアジアへと植民地活動により、東南アジアでも広まった。平均年齢が若いベトナムでも、クリスマスは行事の一つ、その影には植民地時代の暗い歴史があった。今ベトナムは、各国から労働力として期待される。少子高齢化が進む日本からも働き手として重宝された。日本で働いて、新しい技術を学び、最先端の社会の仕組みを理解し、母国へ帰国した際、現地の人にも伝えることができる。今多様な価値観を持つ社会へと変わろうとしている。

みなとの見える丘から、自転車で、斜度11%の300mに渡る谷戸坂を下る際、風を切ることにより、体内から熱が放出されていくように感じる。陽が落ちても、気温は10度を上回ったことにより、寒さよりも快適さの方が上回った。

 最後の舞台は、夜景撮影スポットとして名高い大桟橋である。1859年の横浜開港以来、海の玄関口として130年の時を刻んだ。手すりにひじを付けて、仲良く語り合うカップル、三脚を立てて撮影準備に入るカメラマン、横浜観光する外国人グループ客で、ひしめき合っていた。西側の茜色に染まる空の下、観覧車コスモクロックと共に、その背後の地上69階のランドマークタワーを含め、高層ビル群を見つめる。都市ならではの光が瞬く夜景が広がっていた。

 写真=16時54分    写真=17時00分
フォトフォト

 Cメロの歌詞は、大桟橋の夜景を眺める主人公の気持ちを代弁していた。

歌詞:「ああ 街は白い粉雪のように 誰も自分以外の人に慣れない」

 十人十色の言葉通り、我々ヒトは、個人差がある。確かに好きな人とイブの夜を過ごすことは、心ときめく瞬間でもある。その思いを全ての人がかなえられるわけではない。青年は、確かに失恋した。その青年なりに、旅を通して、歴史や文化を学び、新しい知識を吸収した。一抹の寂しさを抱きながらも、達成感にも溢れていた。

歌詞:「ああ どんなに時間がかかっても Christmas time 君のことを待っていたいんだ」
                               <終わり>

 素直に離れてしまった恋人への思いを打ち明け、心の中で乾杯した。手紙を送って、返事がなくても、一度好きになった人を裏切れない。心からその人の幸せを願っていた。

 ここで2022年3回、2003年5回にわたったみなとみらい観光の模様を紹介する。

 2022年第1回6月4日(土)テーマ曲「これからの君に乾杯}
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1982513000&owner_id=32437106

 2022年第2回10月2日(日)第3回12月18日(日)テーマ曲「今日はゆっくり話そう」世界のクリスマス展(12月18日訪問)より 

 前編 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1983990704&owner_id=32437106
 後編 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1983995396&owner_id=32437106&org_id=1983990704

 後編日記より 大桟橋での坂井泉水の写真
フォト

 2023年第1回2月12日(日)第2回4月23日(日)テーマ曲「Good bye My Loneliness」ウズベギスタンの歴史

 前編 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1984934134&owner_id=32437106
 後編 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1984956061&owner_id=32437106&org_id=1984934134

 2023年第3回 6月4日(日)テーマ曲「果てしない夢を」
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985239710&owner_id=32437106

 2023年第4回 10月22日(日)テーマ曲「きっと忘れない」
https://mixi.jp/list_diary.pl?month=10&year=2023


 海沿いにテーマパークや公共施設が並ぶみなとみらいは、近未来を彷彿とさせる町つくりを進めた。眺望が開け、夕焼け空の下、オフィスの明かりが瞬く中、心が慰められる。日本では幸せなときが流れる一方、世界各国では紛争が絶えない。ロシア軍によるウクライナ侵攻を初め、パレスチナのガザ地区では、イスラエル軍の攻撃により、民間人の犠牲者が膨らんでいる。アルメニアとアゼルバイジャンの係争地ナゴルノ・カラバフでは、2024年に新展開を迎える。現地のアルメニア人政府が、アゼルバイジャン軍の圧力の下、1月1日付で解散する。新たに京都府ほどの広さの同地区を、アゼルバイジャンが掌握することになった。

 世界各地で争いが起こっている状況から、再び戦争の世紀に入ったとの見方もされている。キリスト教の始祖イエス・キリストは、どんな人々にも平等に命を与え、幸せになる権利があると説いた。彼を信仰する人々が、西アジアからヨーロッパへと広がった。いわゆるキリスト教の始まりである。12月24日に、イエス・キリストの誕生日前夜に、祭典を行うようになった。今では、非キリスト教国家の間にも、クリスマスイブを意識して、街中に大小様々な大きさのツリーを飾り、ケーキを食べる習慣が根付いている。旅を通して、青年は、異文化に触れながら、現地の人々と交流した。平和のためには、民族を超えて、互いに理解を深め、「共感」する必要性があると結論を下した。終戦を祈りながら、みなとみらいを後にした。

 Merry Chrismas!!

写真 掲載元 かけがえのないもの 2017年12月19日付
http://izumi19670206.blogspot.com/2017/12/happy-christmas.html
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