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2023年06月09日23:23

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ZARDの坂井泉水とバブル経済第7回目 戦後復興期、6月4日(日)横浜市都筑区のアジサイ、中区山手西洋館 花と器のハーモニー展2023〜果てしない夢を〜 リリース30周年記念ZARD WANDS

ZARDの坂井泉水とバブル経済第7回目 戦後復興期、6月4日(日)横浜市都筑区のアジサイ、中区山手西洋館 花と器のハーモニー展 〜果てしない夢を〜 

 目次
・第1章 バブル経済の原点、戦後復興経済
・第2章 6月4日(日)横浜市都筑区とみなとみらい地区〜果てしない夢を〜 
 (1)から(4)

 ZARDの坂井泉水と日本のバブル経済を結びつけた日記の第7回目、舞台は初めて神奈川県秦野市周辺地域から横浜市に移る。戦後復興期の経済状況と共に、バブル崩壊後に横浜市を旅する若者の視点に立って描く。

 前回6回目 舞台 5月4日(木・祝)秦野市 1993年の経済 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985091153&owner_id=32437106

 前回横浜舞台の日記 4月22日(日)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1984956061&owner_id=32437106

 昨年同期2022年6月4日(土)花と器のハーモニーを紹介した日記
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1982513000&owner_id=32437106

  第1章 バブル経済の原点、戦後復興経済

 日本経済は、今株価において、バブル期以来の最高値を記録している。いかに労働者の賃金に反映させるか、経済再生への鍵を握る。株価を支えるのは、日銀の金融緩和政策である。目座すのは、物価以上に賃金が上昇するインフレである。振り返ると、1956年から1972年まで続いた高度経済成長期、インフレ率は、年平均4,5%、対して経済成長率は、年平均9%から10%に達した。1955年から1975年までの20年間で、名目賃金は男性で7,4倍、女性で9倍に達したのである。戦後高度経済成長期は、人々の購買欲により、受容が高まり、物の値段が上昇した。経済学では「ディマンドプル・インフレ」という。生産元は、人々の購買欲に支えられ、強気の値段設定にすることにより、確実に利益を上げられる。

 写真 掲載元  明石順平氏 https://twitter.com/junpeiakashi/status/1031136516787953664
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 もう一つのインフレは、供給サイドが、原材料の調達価格や人件費の上昇により、価格に転嫁する場合である。いわゆるコストプッシュ型のインフレで、企業自体は商品の販売価格を上げても、生産コストや人件費増により、利益を確保できない。

 日銀が2023年4月12日に発表した2022年度の企業物価指数は、前年比プラス9,3%上昇した。一方総務省が2023年4月21日に発表した2022年度の消費者物価指数は、前年比プラス3%である。企業物価指数と消費者物価指数に乖離が生じている状態から、企業の経営は苦しくなっていることは明らかである。長く低迷した日本経済の建て直しのため、政府と日銀は難しい舵取りを迫られた。

 さて、続くテーマは、二次大戦後に起こった日本の急激なインフレーションである。戦後、日本は資本ストックを25%失い、1935年の水準に逆戻りした。繊維工業と化学肥料工場の損害は大きく、設備機能に関して、1937年時点の半分に落ち込んだ。もう一つ敗戦の痛手は原材料の輸入制限がかかったことにある。海外への所得の実質額は、1935年の8分の1にとどまった。海外との取引に関しては、戦前の水準に戻るまで時間を要した。1950年時点でも戦前の3分の1に落ち込んだままだったのである。

 当時国内のエネルギー産業も大打撃を受けた。戦前炭鉱に従事していた中国人や朝鮮人が、母国へ引き上げたことにより、担い手不足から生産量が極端に下がった。戦後翌年となる1946年の実質GNPは、1935年時の70%だったのである。当時の日本は、資金不足から、産業を興せなかった。

 資本ストックの破壊により、物不足に陥り、受容と供給のバランスが大きく崩れることにより、悪性インフレを招く。

 詳細 戦後インフレーションとドッジ・ライン http://www.cirje.e.u-tokyo.ac.jp/research/dp/92/j3/dp.pdf

 1945年8月15日に、日本政府はポツダム宣言を受諾し、全面降伏する。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の管理下に置かれた。国民は、先行きの不安から、預金を引き出して、必要な生活物資を購入する。少ない物を奪い合った結果、平均2倍まで価格が上昇した。日本銀行券の発行残高は、1945年7月末は285億円、同年末には555億円に膨れ上がった。

 詳細 わが国経済金融50年 https://www.chibabank.co.jp/company/info/history/pdf/50/003.pdf

 政府は、インフレ抑制のために、手を打つ。1946年2月に金融緊急措置令を発して、金融機関の預貯金を封鎖し、旧日銀券を廃止する。代わりに、新円を発行し、引き出し制限をかけた。その場凌ぎの政策では、インフレの主因となる物不足は解消されなかった。日本政府は、経済を立て直すべく、さらに手を打つ。1946年12月、必要な産業から優先的に投資をするべく、「傾斜生産方式」を採用した。国のエネルギー源だった石炭の生産、鉄鋼業の回復に努めたものの、資金不足から頓挫する。1947年1月、政府は日本銀行と一帯となり「復興金融金庫」を発足する。政府が足りない予算を、通貨の発行権を持つ日本銀行が肩代わりした。現在財政法第5条で禁じられている日本政府が発行した国債を、日銀が直接引き受け手になっていたのである。財政規律が緩み、必要以上に通貨が流通することにより、外貨を獲得できず、海外から輸入できない状態が続いた。資源のない日本は、国内でエネルギー調達は難しい。インフレスパイラルに陥った経済を立て直すため、GHQ主導により、金融政策が行われた。財政健全化のため、1949年2月に、デトロイト銀行総裁の経験があるジョゼフ・ドッジ氏を招き、金融政策顧問のポストを与えた。ドッジ氏の仕事は、通貨の流通量を減らし、インフレを抑制することにある。GHQは、ドッジ氏の就任に先立ち、当時の第2次吉田茂内閣に対しても、インフレ抑制策を命じていた。吉田内閣は、9原則を発表している。

 当時日本政府より上の立場に立つドッジ氏は、9原則を具体化するため、実行に移す。ドッジ氏の下で敷いた緊縮財政を「ドッジ・ライン」という。

 写真 掲載元 ガウスの歴史を巡るブログ 2022年7月15日付 http://gauss0.livedoor.blog/archives/15496291.html
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 政府の国債を日銀が直接引き受け手になる「復興金融金庫」を廃止し、赤字財政を禁じる。輸出力の回復を優先させ、国際基軸通貨ドルとの交換レートは360円に設定した。

 アメリカは、対立が先鋭化したソ連と中華人民共和国を睨み、日本国を反共の一員に組み込もうとしていたのである。日本の復興は、反共勢力の拡大を意味する。

 もう一つGHQは、日本の税制そのものを変えた。1949年5月10日、経済学者カール・シャウプが率いる使節団が来日し、同年8月26日に帰国するまで、税制の見直しに着手する。間接税の割合を引き下げ、直接税を中心とした。戦前からの累進税率を維持しながら、脱税の動機となりうる最高税率を引き下げる。所得税率は引き下げる代わりに、富の再分配の観点から、富裕層への課税を強化した。またGHQの意向に沿い、中央集権型の軍国主義への後戻りを避けるため、地方自治の独立性を強化した。

 使節団は、1947年8月20日と翌1950年9月21日に、合計二つの報告書をGHQ宛に提示した。シャウプ勧告により、日本の税制が確立し、富の集中を防ぎ、労働者の分配率が高く、一億層中流社会の根幹を成した。

写真=シャウプ氏と地元の商店主 掲載元 国税庁より https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/shiryou/library/19/01.htm
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 1949年に、インフレは抑えられたとはいえ、日本経済に必要なのは、失った産業を取り戻すことである。内需を堀り起こすには、公共投資が必要である。ドッジ・ラインにより、デフレに陥った日本は、1950年から52年まで3年に渡って続いた「朝鮮戦争特需」により、経済が一気に回復した。朝鮮半島に程近い日本は、アメリカ軍の拠点になる。横浜港が、国連軍の兵站輸送の集積地になった。テントや軍服の原料となる繊維品を中心に入ってきたのである。国内でも、アメリカの軍用機の修理や点検業務を引き受け、生産工場が作られた。工業生産が復活し、伝統的な物つくり技術が最大限に発揮された。1951年にサンフランシスコ講和条約により、主権を取戻し、戦後復興を歩むことになる。

島国日本は、勤勉で実直な国民性から、物事に取り組む際、集中力を発揮する。ものつくり大国として名を馳せ、少なくとも1991年のバブル期まで、景気の波がありながら、技術革新を経て、人々の暮らしは向上した。坂井泉水が登場したのは、奇しくもバブル崩壊時だった。一般的にバブル期は、1986年12月から1991年2月といわれている。坂井泉水のCDデビューは、91年2月10日にリリースした1stシングル「Good bye My Loneliness」だった。発表した歌詞の中には、人間関係や進路に躓きながらも、立ち直っていく若者像が見える。バブル崩壊の後遺症は、いまだに残る。少子高齢化、富の偏りによる子供の貧困問題など、数多くの課題を抱える。投資による損失を恐れて、貯蓄思考が強くなった結果、市場の流動性が低下した。賃金に比例する物価上昇、いわゆるディマンドプル・インフレには程遠い環境である。いかに人々が希望を持つのか、坂井泉水は歌詞を通して表現していた。

  第2章 6月4日(日)横浜市都筑区とみなとみらい地区〜果てしない夢を〜 花と器のハーモニー

    (1)テーマ「果てしない夢」の歌詞紹介

  舞台は、横浜市都筑区と保土ヶ谷区のあじさいスポット、中区の横浜人形の家、同区の山手西洋館である。

 山手西洋館では、6月3日(土)から11日(日)までの8日間にわたり、毎年恒例のイベント「花と器のハーモニー」が開催された。

 2023年は、春先の桜の代表種ソメイヨシノと共にツツジも例年よりも早く開花した。本来梅雨を彩るアジサイも、5月下旬には咲き出していた。温暖化が進むにつれて、花の開花時期もずれることが予想される。

 今回歌詞のテーマは、ZARDが参加した複数のアーティストによるコラボレートシングル曲「果てしない夢を」である。1993年6月9日のリリースから丁度30年を迎えた。

 コラボの実現には、プロ野球「読売巨人軍」のスポンサーに就く日本テレビが一役かっていた。巨人のホームゲームのテレビ中継「劇空間プロ野球」を放送するに当たり、レコード会社B-ZONE(当時はB-ing)」グループの取締役兼プロデューサーの長戸大幸(ながとだいこう)氏にテーマソングの提供を依頼した。当時看板アーティストであるZARDとWANDSを中心に、ZYYG, 出口雅之{Revレビュー}を含む4組のアーティストが参加し、新曲を作成する。日本テレビの意向に沿い、ゲストヴォーカルとして、読売巨人軍の終身名誉監督長島茂男氏が加わった。長島氏は、最終サビの二フレーズを担当した。

 写真=「果てしない夢を」を歌う坂井泉水 掲載元 ツィッター よっちゅう
https://twitter.com/yocchu812/status/1270121246181621760
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 4組のアーティストのコラボレーションにより、発表された楽曲「果てしない夢を」は、93年の一シーズンに渡り、日テレ系列「劇空間プロ野球」のテーマソングに抜擢された。作詞者は、ZARDの坂井泉水と、当時WANDSのヴォーカルをつとめた上杉昇である。上杉昇も坂井泉水と共に、作詞家として評価を高めていた。97年1月に、ギターリストの柴崎浩と共にWANDSを脱退し、ユニットal.ni.coを結成したものの、西暦2001年に解散している。現在は、ソロで小さなライブハウスを中心に活動を続けている。

 写真=2023年時の上杉昇 掲載元 BARKS 2023年5月24日 https://www.barks.jp/news/?id=1000234486
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 ZARDの方は、91年2月10日のデビュー時、新たにバンド編成の方向を掲げながら、坂井泉水のソロ・プロジェクトとしてスタートした。西暦1992年から93年2月時点まで、ギター、ベース、ドラム、キーボードリストが加わり、5人組のバンド体制に代わった。TVの前から姿を消した93年3月以降、坂井泉水のソロに戻っている。

坂井泉水は、2007年5月27日に、闘病中に不慮の事故により、この世を去った。亡くなった後も、後世のアーティストに影響を与え続けている。2019年9月18日には、長戸大幸氏の下、ZARDの名曲を歌い継ぐバンド「SARD UNDER GROUND」がデビューした。コロナ禍で活動が制限される中でも、イベントを通して、往年のZARDファンと共に、若い人々の心を掴み取った。

一方WANDSは、音楽性の違いから、91年12月のデビュー時から、メンバー3人体制を維持しながら、3度に渡る交代を経て、総入れ替えした。西暦2000年に一度は解散したものの、2019年11月13日に、5期体制として再始動を発表する。水面下では、2018年にプロデューサー長戸大幸氏により、復活に向けて準備が進んでいた。当時を4期体制としている。

写真 掲載元 家電凡人パパスのデジタルお昼寝日記 2023年5月26日付け
https://papasu1102.com/wands/
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元号が令和になり、平成に惜しまれつつ解散したバンドの再結成が進んでいる。時代の波に合わせて、WANDSの復活、ZARDの坂井泉水の意思を注ぐSARD UNDER GROUNDの結成に繋がった。両グループは、人気アニメ「名探偵コナン」のタイアップを受けて、ファンの裾野を広げている。

 写真左=WANDS第5期 2023年5月26日、テレビ朝日系列ミュージックステーション出演時 楽屋にて 掲載元同番組ツィッター https://twitter.com/Mst_com/status/1662076824497831936
 写真右=SARD UNDER GROUND 2023年6月1日 杉岡泉美ツィッター
https://twitter.com/sugioka_sard
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         (2)都筑区のアジサイスポット巡り

6月3日、最初の舞台は横浜市都筑区茅ヶ崎東3丁目の正覚寺、最寄のセンター南駅から徒歩5分、周辺はファミリー世帯向けの住宅街である。子供たちが遊ぶ公園の脇に、一昔前の面影が残るお寺が、鎮座していた。

 詳細 https://iwalkedblog.com/?p=29469

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 先代住職が植栽した約300株の花しょうぶと1000株のアジサイが競演する敷地は、「つづきみどりと花の名所25選」に入った。アジサイは、境内裏の墓地から崖地にかけて、複数の品種が咲く。

 フォト

境内を訪れた若いカップルは、お気に入りの株の前で、スマホをかざして、記念撮影をする。しとしとと雨が降る梅雨を彩るアジサイは、緑が濃くなった世界で、一段と鮮やかさを増す。

 花の観察を通して、四季の豊かさを実感し、自分の境遇を重ね合わせる。季節のように、我々人間社会も変化が生じる。若い頃は、小学校、中学校、高校と進学するたびに、将来への夢が膨らむ。ZARDの坂井泉水と当時のWANDSのヴォーカリスト上杉昇が作詞した「果てしない夢を」は、若者たちの気持ちを代弁している。

 冒頭の歌詞:「回転DOORを抜け出した時から 何故か新しい自分を感じた」

 卒業を控え、将来の目標を持ち、進路が決まり、一歩踏み出す主人公の姿がある。

続く歌詞:「昨日みた夢はきっと叶うとつぶやくように、暖かな風が吹きぬけていく」

 寒い冬が過ぎ、暖かい春風に後押しされたかのように、新しい生活をスタートした。

歌詞:「きらめき揺れている星屑たち、明日を照らしている」

 夜空に瞬く星も、主人公を見守っていた。

 
 宅地の中に位置する正覚寺から、南へ1,6km、大熊川沿いのアジサイスポットへと移動する。周囲は、昭和の里山の面影を残す農地が広がる。東方農業専用地区に指定され、川沿い600mに渡り、アジサイが植えられていた。

 詳細 歩いてみたブログ https://iwalkedblog.com/?p=30119

 フォトフォト

湖北ニュータウンに位置する都筑区は、宅地開発を進めながらも、環境に配慮し、農業生産地区や公園・緑道を残した。区民の健康を促進するべく、歩行者専用の遊歩道と共に、運動場を設けた。宅地に接するように、公園や農地が残り、晴れた日には散策を楽しめる。

 果てしない夢をの歌詞には、豊かな環境で育った人々の夢が感じられる。

錆の歌詞:「果てしない夢を 強く強く信じていたい to my heart こみあげる涙 ずっとずっと胸に抱きしめ in my heart 幸せと走りだそう」
 
四季折々咲く花々を鑑賞し、野鳥の声に耳をすますと、季節の変わり目を意識しやすい。

 若い頃、友人との別れや失恋により、悲しい思いをすることもある。いかに、克服するか、将来の人生を左右する。

 日本は戦後78年、他国の武力闘争にも加わることなく、得意の物づくり技術を生かして、輸出大国になる。バブルが崩壊する1991年頃まで、世界トップクラスと呼ばれる程経済的に豊かな国になった。戦後復興を夢に描いた人々の努力の成果である。

 お昼前には、保土ヶ谷区三ツ沢公園脇の市民によって手入れされたアジサイ園を訪れた。
公園から道路を挟んで向かい側の住宅地に続く傾斜地に位置する。小さなスペースながら、木を囲うように犇いている分、撮り方によっては、森の中のアジサイ園のように表現できる。

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 住民たちが、苗木を植えて、手入れをすることにより、毎年決まった時期に花を咲かせる。戦後豊かな社会を象徴する光景の一つが、植樹活動だった。

        (3)みなとみらいへ

午後からの舞台は、横浜のみなとみらい地区である。この日の最高気温は27度、程よく湿気はあるものの、春のようにさわやかな一日だった。山下公園では、家族連れや若いカップル、年配の夫婦まで、幅広い世代の方が散策している。

 果てしない夢をのBメロでは、夢を持って前に進んだ主人公が、良きパートナーを見つけて、新しい世界へ踏み出す様子を描いている。

 歌詞:「いつでも自由な自分らしい生き方、君の愛だけが心を縛るよ」

 若い頃は、何事も可能性を感じて挑戦したくなる。それでも不安はつき物、いかに克服するか、時には愛によって、心の壁を乗り越えられる。

 続く歌詞:「瞳を閉じれば、まるで昨日のことのように、彷徨った日々も微笑んでいる。」

確かに一昔前には、進路にも迷い、不安に耐えなかった。恋をすることにより、過去の自分を忘れられる。

 歌詞:「色づく景色に染まる二人、時間(とき)を越え、流星になる」

 アジサイに彩られた公園を歩く二人は、夜空に出現する流れ星のように、明るい光を放ちながら、放物線を描く。目的地は、本人の行動によって決まる。

私は、アジサイと氷川丸のコラボショットを狙った。アジサイと、かつて太平洋を横断した氷川丸の写真は、港として発展した横浜を象徴する光景である。海沿いに開けた公園で潮風に当たりながら、人々は思い思いに過ごしていた。

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 山下公園の向かい側、マリンタワーのすぐ脇にある公共施設「人形の家」が次の舞台である。4月22日(土)から7月23日(日)までの日程で開催中の「ぬいぐるみのげんざいち」を紹介する。

 公式ホームページ https://www.doll-museum.jp/11789

 展示室では、日本各地で活動するぬいぐるみ作家が、それぞれの思いを文章に綴りながら、作品を展示していた。企画展で紹介された1981年生まれのぬいぐるみ作家ひがしちか氏は、自身のぬいぐるみへの思いを書き記した文章を、写真と共にパネルにて掲載した。22年前にぼーと名づけたぬいぐるみと出会い、現在娘と3人で暮らしている。

 写真=ぼーと名づけたぬいぐるみ
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 つぶらな目と厚い唇が気に入り、節約して貯めたお金を叩いて、購入したという。娘もボーを大変気に入り、保育園にも連れて行った。外へ連れだすことにたいして、時にはリスクを伴う。旅行の最中、うっかり置き忘れたことがあったという。途中見失ったわが子を探すかのように、記憶を頼りに、必死になってボーを持ち出した場所へと戻った。見つかったときは、行方不明だった我が子と再会したときのように、抱きしめた。文章の最後に「でもボーは、いつだって静かに私たちのそばにいる」と綴った。

 ぬいぐるみは、扱い方によって、人の魂が宿るとの言い伝えが昔からあった。今我々の暮らしにすっかり定着している。


 人形の家の次に訪れるのは、山手西洋7館である。6月3日(土)から11日(日)までの8日間に渡り、毎年恒例のメインイベント「花と器のハーモニー」が開催中である。今年のテーマは、日本らしさを象徴する活花だった。

 公式ホームページ https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/yamate-seiyoukan/details/212023.php

活花とは、木の枝や草花を切り取り、人為的に形を整え、器に刺し、観賞用にする芸術の一分野である。
 水の管理など手入れはもちろん、作家の表現力が問われる。古くは平安時代から行われ、既存の器から専用の花器に添えるようになった。

写真=山手111番館の一室 花はシャクヤク 
フォト

写真=山手234番館 2階
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 自然に咲く花は、日の光を浴びて、大きく育つ。一方観賞用の活花は、形がユニークな分、また独特の味がある。人が生み出した芸術の奥深さを感じることができた。

 (4)再度都筑区へ、川和富士公園の夜景

 最終舞台は、夜景撮影スポット川和富士公園である。先日4月22日(日)に続いて、2023年で二度目、トワイライトタイム前の午後6時55分、西の空は真っ赤な夕焼けに染まっていた。ほぼ正面の位置から、わずかに尾根沿いから顔を出す富士の頂も望める。

 写真=18時59分        写真=19時5分
フォトフォト 

 見晴らしのよい塚の天辺に立つと、さわやかな風を真に受け、心も軽やかになる。下界ではボール遊びをする少年や子連れの家族の姿がある。塚の上には、2人組の女子中高生が登ってきて、トワイライトタイム中、スマホをかざし始めた。途中から一組のカップルも加わり、暮れゆく町を見下ろした。

 果てしない夢をのBメロのサビでは、将来の希望が膨らむ若者へメッセージを送っている。

「果てしない夢を熱く熱く信じていたい、to my heart こみ上げる涙 ずっと ずっと 胸に抱きしめ in my heart 幸せと走りだそう」

 小さい頃から、我々は将来の夢を描いて、学校生活を送る。大人になるにつれて、現実を理解するようになり、与えられた目標を達成できるように、努力するようになる。どんな些細なことでも、満足できれば、その人の幸福感に繋がる。

 写真=19時11分        写真=19時19分
フォトフォト

 作詞をした坂井泉水も上杉昇も、93年は共にブレイクを果たした年だった。WANDSは同年CDシングルとアルバムを合わせたトータルセールス記録において、日本最多となる730万枚を記録した。翌1994年に日本ゴールドディスク大賞に選ばれている。一方ZARDは、1993年のCD売上総額において、125億円の2位WANDSを抜き、133億に達し、トップに輝いた。

 当時WANDSのヴォーカルを努めた上杉昇は、2023年現在、表舞台には出ていないとはいえ、小さなライブハウスを中心に、ソロでの活動を続けている。

 グループのWANDS自体は、新しいヴォーカルを迎え、5期体制として再スタートを切った。

 対照的に坂井泉水は、闘病中もノートに歌詞を書き続け、最後まで希望を持ち続けていた。彼女の意思をSARD UNDER GROUNDのメンバーが受け継いでいる。

 曲が発表されて丁度30年、日本経済も労働者の賃上げの動きが高まった。名目賃金は上がったとはいえ、急激な資源価格の高騰と円安に伴う物価高には追いついていない。将来を担う若者が、厳しい時代にも関わらず、夢を描き、前向きになることにより、経済は再生する。少子化のループを抜け出し、活力のある社会を取り戻すことにより、日本は再び経済大国になれる。令和時代の今、新たな転換点を迎えた。


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