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2023年12月14日15:58

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横浜みなとみらい 2023年第5回目12月10日(日)山手西洋館クリスマス展(前編)ZARDのクリスマスタイムより ブラフ18番館スウェーデンの飾りつけと共に、同国の創世記から14世紀までの歴史 馬の博物館,三渓園

2023年紅葉シーズン最後の旅、舞台は神奈川県の県庁所在地である横浜市の西区と中区に跨るみなとみらいである。今年は5回目、中区の山手西洋7館では、毎年恒例のクリスマスの飾り付けが行われていた。

 ZARDの歌をモチーフにした2023年の旅も最終回、テーマは「クリスマスタイム」、同曲は、デビュー10周年の冬場、2021年11月21日にリリースされたアルバム「
ZARD BLEND II 〜LEAF & SNOW」に収録されている。同曲は、先に作曲を担当した栗林誠一郎氏が、95年11月22日にCDシングルとして発表していた。丁度6年後に作詞を担当した坂井泉水がセルフカバーをしたのである。

 写真 掲載元 ZARD「かけがえのないもの」2018年12月12日付
http://izumi19670206.blogspot.com/2018/
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曲の方は、失恋した青年が、一人ぼっちで聖夜を迎える様子が見える。若いうちは、誰しも気になった異性とイブを過ごすことにロマンを抱く。今回私の旅の代役として紹介させていただいた一人の青年は、神奈川県秦野市を中心とした周辺地域、東京都の青梅市・奥多摩町を旅した。豊かな自然に触れ、出会った人々から知識を吸収し、再出発の決意をする。みなとみらいの訪問は、10月22日(日)以来約50日ぶり、クリスマス一色に染まった町を旅する。 

 前年同期 テーマとなった曲「今日はゆっくり話そう」
2022年12月23日付 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1983990704&owner_id=32437106
2022年12月24日付 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1983995396&owner_id=32437106&org_id=1983990704

 前回横浜関連の日記 2023年10月22日(日)ハロウィンの旅 テーマ「きっと忘れない」https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986240999&owner_id=32437106
 目次
・第1章 三渓園へ https://www.sankeien.or.jp/
・第2章 馬の博物館へ https://www.bajibunka.jrao.ne.jp/uma/index.php
・第3章 山手西洋館「世界のクリスマス展」ブラフ18番館 スウェーデンのクリスマスより https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/yamate-seiyoukan/bluff18/details/202311031400.php

 
第1章 三渓園へ

12月10日(日)首都圏は、季節はずれの暖かさにより、日中の最高気温は20度を上回った。前日の天気予報によると、「空気も乾燥し、日中は上着を一枚脱いで、散策できるほど暖かい」とのことだった。さすがに朝方7時代に自宅から自転車に乗って出発した際、風を受けて、幾分冷たさを感じる。体を動かすことにより、汗が出ると、1枚上着が不要になった。

 午前9時前、西区パシフィッコ横浜から、中区マリンタワーまでの区間、国道133号みなとみらい大通り沿いの横断歩道は、人影がまばらだった。公共施設が本格的に開くのは午前10時、企業や行政機関が休みの日曜日、静かな時間が流れていた。

 写真 掲載元 JICA 横浜へのアクセスより
https://www.jica.go.jp/domestic/yokohama/office/access.html
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 1859年の開港以来、西洋の文化を受け入れてきた横浜は、日暮れ時になると、各所で、クリスマスツリーを含め、イルミネーションが点灯する。漆黒の闇の中、人々に一筋の光を点す。若いカップルや、小さい子連れの家族を含め、色鮮やかな光のショーに、目を輝かせていた。

 今の青年は、恋人と別れ、一人である。10月22日にみなとみらいを旅した際、離れてしまった恋人宛に、思いを綴った手紙を投函したものの、返事はなかった。

 ZARDの坂井泉水が作詞した「クリスマスタイム」には、その心情が表れている。

 曲はサビの一説から入る。

歌詞:「ああ 心は白い 粉雪のように 深く冷たく溶けてゆくよ。ああ、君がこないと知ってた。Christmas time All the Colors and the lights fade away」

 一人ぼっちのイブ、心は冷たいまま、例え誰もこなくても、習慣からチキンを並べ、ケーキを用意する。祝い事は、確かに一人ぼっちだと寂しい。その現実が訪れようとしている。
 青年が最初に訪れたのは、洋風の建物が林立する横浜みなとみらい・山手地区の中で、日本古来の建物が残る三渓園だった。

 園内に育ったイロハモミジは、真っ赤に色づいていた。紅葉の時期には、毎年聴愁閣の裏の遊歩道が一般開放される。

 敷地内では、栃木県日光市からやってきた一人の若い女性と、一匹のサルから成る芸が開催された。2人は、訓練を積んで信頼関係を築き、この日デビューしたという。一匹のサルが、竹馬に乗る、または高飛びを行う。偶然居合わせた来場者から拍手喝采を受けた。

 青年も、一人の芸者を見て、過去を思い出した。Aメロの歌詞に表現されている。

歌詞:「夜更けのステージで、ただ君をみつめていたはずなのに。」

 一緒に一晩過ごした時のこと、朝日が昇ると、窓から漏れる光によって、目を覚ました。うつらうつら、カーテンを開けると、太陽光が部屋に差し込んだ。隣のベッドで寝ていた彼女は、既におきていた。太陽光を浴びた彼女は、スポットライトを浴びた女優のように華やかで、美しかった。

 歌詞:「途切れた電話 心変わりならば いっそ僕を責めて欲しいよ」

 青年は、クリスマス前に、彼女に戻ってきて欲しかった。

 サビの歌詞:「ああ、心はいつも足りない。君は気付いていたんだね」

 青年は、恋人に向って、そう問いかけた。一人では何か心細かった。

 歌詞:「ああ、奇跡が来くると知ってもChristmas time、君の代わりは、いないよ」

 別れた恋人の変わりになる存在はいなかった。パートナーがいなくても青年は、旅を通して、新たに歴史や文化を学び、一人で楽しむことができるようになった。恋人のいないクリスマスに寂寥感を抱く中、庭園散策を続けた。

 時間の経過と共に、来園者も増えていく。この日は、1649年に建築された臨春閣が特別公開されていた。ガラスの扉が取り外され、外からでも中を見渡すことが出来る。実際に中を見学する際には、事前に申し込みによる抽選に当たった人に限られていた。三渓園は、随時重要文化財の見学を受け付けている。
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 石畳の遊歩道は、やや傾斜がきついとはいえ、足場は比較的安定していた。岩の隙間から水が沸き出し、ゆったりと流れている。人口の沢沿いから、色づいた紅葉の葉っぱ越しに、庭園のシンボルとなる三重塔を遠望した。

 以下2枚の写真の建物は、聴秋閣
 
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 瀟洒な佇まいの三重、または五重の塔は、各地の仏教寺院のシンボルマークにもなる。その起源は、紀元前3世紀まで遡る。仏教の祖である釈迦の舎利(遺骨)を納める仏塔の形式の一種で、朝鮮半島から海を越えて、日本に伝わった。紅葉と日本古来の建物が競演する三渓園は、和の情緒溢れる雰囲気に包まれた中、結婚披露宴も行われる。現に2組のカップルが、建物をバックに撮影に望んでいた。青年は、江戸の香りが漂う中、四季の移ろいを感じることができた。

  第2章 馬の博物館へ

 三渓園の北門から自転車に乗り、JR根岸駅の方角を走る。道路が広くて、整備されている分、走りはいたって快適である。丘陵地にかけての住宅を貫く不動坂を上り、目的の根岸森林公園にたどり着いた。園内の馬の博物館は、12月9日(土)から2024年1月28日(日)までの日程により、フィナーレ展「うまはく所蔵優品展」を開催する。

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 馬と人の関わりをテーマに、1977年に開館した博物館は、資料の修復に伴い、年単位の休業をする。休業前に、来園者に感謝を示し、クリアファイルを贈呈していた。本展では、博物館を管理する財団が収蔵資料を精選し、披露する。撮影は、一部のエリアのみ認められた。

 以下 写真撮影が認められた展示室の古民家の再現
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 日本に馬が渡来したのは、4世紀末から5世紀初頭といわれている。軍事面や農業面で重宝された。相次ぐ戦いにより、武士たちは、馬を調教し、出陣していた。農業面では、江戸時代から活用され、馬耕(ばこう)という方法が根付いていた。馬に鋤を挽かせて、土を掘り起こしていたのである。耕運機と比べると仕上がりはよいという。確かに馬耕の方は、見た目は荒い。真価を発揮するのは、大雨の後である。水はけが良く、地中に染み込みやすい。もっともエコ的な農法としても注目される。エンジンが草で、排気が馬糞=堆肥、無駄なく、エネルギーに変換された。すなわち、完全循環機能を果たしているのである。また我々ヒトとも分業が成り立つ。馬が燃料補給(草を食う=人の草刈りの手間が省ける)している間、
人間は別の作業をする時間ができる。馬は、牛と比べると、消化効率が悪い。繊維質の高い草を胃の中で分解できず、酵素を出す微生物が住み着いた糞を排出する。対照的に4つの胃を持つ牛は、食休めを意味する反芻することにより、消化されてしまうのである。馬は、作物を育てるうえで、荷役と共に、肥料提供の役割を果たしていた。

詳細 馬耕 風景をつくる人と馬の仕事ー“Horse-Powered Farm”
を北海道に創ります。https://motion-gallery.net/projects/horsemade_landscape/updates/38455

博物館の外のタイル張りの広場では、一頭の馬の姿があった。サンタの赤い帽子を身につけたスタッフが、手綱を持って、誘導し、博物館入り口前で足をとめた。午後1時30分から、馬車の試乗会が始まる。小さい子連れの家族を中心に、列を作って並んでいた。19世紀を舞台にしたアニメに出てくる馬車さながら、カタカタカタカタカタと規則的に乾いた音を立てながら博物館の周囲数十メートルを走行する。敷地内の馬見坂を下った先には、厩舎と共に運動場が設けられている。

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引退した競走馬も公園内の厩舎で過ごしていた。公園の面積は18ヘクタール、1866年に当時の江戸幕府により、洋式競馬場として建てられ、第2次世界大戦時まで利用されていた。現在は、芝生公園として整備され、春先は桜の名所として、花見客により、ごった返す。歴史を今に残すべく、園南部に博物館を建てた。開園から46年で一区切りを迎え、年単位で休業する。この日は、館内で学芸員の姿もあり、丁寧に資料の保存や修復について教えていただいた。数百年前の石造などもあり、経年劣化は避けられない。建物自体も老朽化が進む。建物はほぼ維持しながら、運営方法の見直しを含め、新たな形で再開する。

第3章 山手西洋館「世界のクリスマス展」ブラフ18番館 スウェーデンのクリスマスより

 馬の博物館から山手大通りを下っていき、イタリア山庭園へと足を運んだ。庭園内の外交官の家、ブラフ18番館を含め、みなとの見える丘公園まで続く西洋7館では、毎年恒例の「世界のクリスマス展」が開催されている。

 庭園の入り口から、ブラフ18番館まで続くメタセコイヤ並木は、レンガ色に染まっていた。

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 ブラフ18番館の装飾のテーマは「スウェーデン王国のクリスマス」、西洋7館では、2021年にみなとの見える丘公園内の山手121番館でも、同国のクリスマスの飾り付けが行われていた。装飾デザイナーが異なる分、がらりと内容は代わっている。

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 ダーラナホースは、スウェーデンが世界に誇る伝統工芸品の一つ、古くから森と湖が織り成すダーラナ地方にて、人々は木こりの仕事で生計を立てていた。家で待つ子供達に向けて作った馬を象った木彫りの作品が、原点といわれている。16世紀、国の命運をかけた戦争の舞台にもなった。当時デンマークの支配下から脱するべく、ストックホルム出身のグスタフ・ヴァーサが、ダーラナ地方の農民にも決起を促し、戦いで勝利を収めた。現代のスウェーデン政府は、グスタフ・ヴァーサが戴冠した1523年6月6日を建国元年と定めている。

 今回は、グスタフ・ヴァーサの戴冠前の同国の歴史を辿っていく。

 直近のスウェーデンの歴史を書いた日記
2023年6月6日付け 建国500周年 19世紀のベルナドッテ朝の始祖
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985217476&owner_id=32437106

 2021年の山手西洋館クリスマス展 スウェーデンの歴史(16世紀から17世紀)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981076404&owner_id=32437106

 ハンザ同盟 またはデンマークの歴史、グスタフ・ヴァーサの戴冠
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1979756511&owner_id=32437106

  1.スウェーデンの古代史

北欧についての最古の記録は、古代ローマの歴史家タキトゥスのゲルマニアに書かれたスイーオネースである。バルト海に浮かぶ島で、兵力を持ち、権力闘争が行われたという。書物の内容によると、スウェーデン中部のスヴェーア人が、文明の楚とされる。

以下ウィキペディア スウェーデンの歴史から引用文


スヴェーア人が、建国した初期の王国の形成は、28の各部族が3つの原生国家へと統合されて行ったと記されている。その原生国家の一つ、メーラル王国はメーラル湖を中心として栄えた。6世紀頃に残る2王国を併合し、スヴェーア諸族から成るシルフィング王朝が創設された。西暦650年頃に領土征服をたくらむデーン人との戦いに敗れ、ヴェルムランド地方へ逃れてインリング王朝として再建する。南部のゴート王国を服属した後、860年には首都を古ウプサラへ設置し、後のスウェーデン王国の祖形が成立した。5世紀から6世紀にかけてのスカンディナヴィアでは、民族移動期と呼ばれ(この民族移動期は、ゲルマン民族の大移動と結びつけられて考えられて来た)、スカンディナヴィア半島南部で砦の建設が急増した。その要因は、地方的権力の台頭であると考えられている。地方分権は、それぞれの土地のアイデンティティーを認める自由な社会だった。見方を変えれば、絶対的統治者不在による危うい国家といえる。過去の歴史から地方勢力が台頭すると、国家基盤がゆらぐ。大国からの介入を受けて、最終的に滅んでしまう。7世紀にも砦の建設が急増している状況から、後期民族移動期に北欧各地に割拠する権力者と豪族達から町を防御するためだといえる。豪族たちはヨーロッパ大陸での傭兵活動や、北欧内部及びバルト海沿岸地域での交易、略奪遠征を行って来た。やがては、海を越えて、他国へ繰り出すヴァイキング時代の下地となったと言える  


 スカンディナビアは、ノルウェー、スウェーデン、デンマークの3王国へと収斂される。それぞれ3国は、艦隊を率いて、大西洋で拿捕し、略奪行為を行った。彼らを取り締まる程警察権を発揮する国は存在せず、暴利をむさぼっていたのである。当時のフランク王国からヴァイキングと呼ばれ、一目置かれていた。ヴァイキングは、奴隷貿易によって富を築いていた。キリスト教が布教した西暦1335年に廃止されている。

 キリスト教が伝来したのは10世紀、在位970年―995年のエリク6世は、キリスト教を受け付けなかった。当時ウサプラに上陸したバイキングにも屈せず、打ち負かした功績から「勝利王」とたたえられる。その王妃エーダ・ホーコンスドッテルのルーツからノルウェーとの関係性が強い。ノルウェーを事実上支配していたヤール(副王)ホーコン・シグルソンの娘をエリク6世は嫁に貰っていた。バイキングとの決戦の地、ウサプラといえば、15世紀に創設された北欧最古の大学がある。学生向けのファッション街や手ごろな値段のカフェが並ぶ。完成から1世紀を経て、西暦1435年に建てられた大聖堂を初め、歴史を今に伝えている。

 写真=現在のウサプラの町並み 掲載元 Travel Book
https://www.travelbook.co.jp/topic/55108
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 西暦1008年に、エリク6世の死去により後を継いだオーロフ・シェートコヌングは、西方教会の洗礼を受けた。その前の西暦999年から西暦1000年にかけて、スヴォルドの海戦においては、デンマーク王スヴェン1世らと連合し、ノルウェー王オーラヴ1世トリュグヴァソンとの決戦で、勝利を収めた。君主として成功を収めるオーロフは、一見すると、高貴な人柄を創造できる。戦争において力を発揮する一方オ、女性には目がなかった。妻エストリドはオボトリテスの族長の娘で、言い伝えによると、メクレンブルク地方から戦利品としてスウェーデンに連れてこられたようである。
オーロフは、実のところ、女性問題が複雑化していた。エストリドと同郷のエドラという愛妾がいた。嫁に選ぶのは一人である。エストリドとエドラは王妃の座を巡るライバルとなった。実際にオーロフは、一夫多妻制度のように、2人を同等に見ていたという。王様オーロフとエストリド、エドラ、それぞれ2人の間に子供も生まれた。結果的にエストリドが王妃に選ばれた。その詳しい経緯はわかっていない。王妃としての地位を得た今、エストリドは、無慈悲なまでにライバルのエドラの子供たちを扱う。
王様オーロフはエドラとの息子エームンド(後の王)の身の安全を考え、バルト海沿岸のベントラントに住居を与えた。王妃エストリドへの従属する立場から開放されることにより、エドラと息子エームンドは、領主のように振舞ったという。

二人の女性同士のいがみ合いにより、宮廷は混乱する事態を避けたかった。王様オーロフの後を継いだのは、エストリドとの間に産まれた息子アーヌンド・ヤーコブである。

ヤーコブは、キリスト教の布教に尽力し、ゲルマン人やノース人から好意的に受け止められた。後継者は育たず、ユングリング家の血筋は途絶えることになった。
こく

 詳細 https://blog.goo.ne.jp/marifle1010/e/5b9412b0019943cdd386480f23f93f10
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       2. キリスト教を受容する。

国内では、着実にキリスト教が広まっていた。1164年にウプサラにて大司教座が設置されるまで、国王が司祭を兼ねている。12世紀にエリク9世によってフィンランドへ進出し、併合する。1814年にウィーン会議によってロシア帝国に割譲されるまで、フィンランドはスウェーデンと一体となる。時は中世、小都市の主が権力を持っていた。北海沿岸の都市は、それぞれ関税同盟を結び、交易路を確保した。いわゆる「ハンザ同盟」である。

 写真 掲載元 場当たり金魚 https://batarikingyo.com/hanza-goro/
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以下 ウィキペディア スウェーデンの歴史 統一王国の誕生とカルマル同盟


 ハンザ都市のひとつであるノブゴロド公国とは、12世紀から13世紀まで断続的に争いが続いた。1323年、ハンザ商人が仲介役に立ち、ノーテボリ条約によって、一端は和解する。(ただし両国の紛争自体は、15世紀半ばまで継続した)。フィンランドがスウェーデン王国に組み込まれる中で(1284年にはフィンランド公を設立)、ノルウェーとも1319年から50年代まで人的同君連合を組んだ。1370年には、海洋王国を掲げるデンマークを睨み、ハンザ同盟とシュトラルズントの和議を結んで、防衛面で協力し合う。
現在のスウェーデンの首都となるストックホルムは、バルト海の出口として、交易の中心も担う。13世紀半ばにスウェーデン東部のメーラレン湖東にある小島スタツホルメン島にフォルクンガ朝のビルイェル・ヤール王による砦として築かれた。都市としての機能も形成された(島を囲むように丸太の柵が巡らされていた為に、「丸太の小島」と呼ばれるようになったが、これはスウェーデン語で「ストックホルム」と言い、都市名もそれに倣って決定された)。ストックホルムの街は、西方からのデンマークへの防波堤の役割も担い、ハンザ都市として、安全保障の役割を担っていた。立地の良さを生かして、交易の中心都市としての役割をにらいながら、デンマークをけん制した。政治面では、混乱が続き、次第に防衛面では機能を失った。西暦1364年に北ドイツのメクレンブルクから王に招かれたアルブレクト時代に、貴族の信頼を失墜したことにより、領土拡大を狙うデンマークとの戦いで不利になった。

 以下 メクレンブルク州の写真 掲載元 yachting.com https://www.yachting.com/ja-jp/houseboats/destinations/germany/brandenburg

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確かに1370年にシュトラスンドの和議により、ハンザ同盟とデンマーク王国は和解した。立役者はアルブレクトである。ハンザ都市に航路の通称権などを認め、デンマークの介入を拒否した。国内では、貴族や聖職者に対して、歩み寄れず、信頼を失っていた。兼ねてから、スウェーデンの征服を狙っていたデンマークのマルグレーテ女王との戦いは避けられなくなっていたのである。マルグレーテ1世は、息子エーリヒをノルウェー王に就けていた。従って、息子エーリヒの命を受けて、ノルウェー軍も味方に引き入れた。北ドイツのメクレンブルクからも兵を集め、数の力でも圧倒した。1389年にはスウェーデン王アルブレクトがデンマークに敗れ捕虜となり、王位を剥奪された。マルグレーテが指揮をとるデンマークは、ハンザ同盟に対抗する勢力として、バルト海北岸の国々の結集する必要性を説く。1397年には、現スウェーデン南部カルマルの地で重要な取り決めが交わされた。デンマークとノルウェーの摂政であるマルグレーテ1世のもとで、ノルウェー、スウェーデン=フィンランドから成るカルマル同盟の結成に向けて、調印が行われた。スウェーデンはデンマークの支配を受けることになった。

写真=カルマル城 掲載元 NAVIA 北欧メディア カルマル城より
https://hokuou-info.com/2021/03/15/kalmar/
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 アルブレクトは、かつての恩からハンザ同盟の説得により、デンマークから身柄を解放された。1394年から亡くなる1412年までメクレンブルク公の地位を守り、釈放後には海賊行為により、一時はスウェーデン領ゴットランド島を占拠していたのである。王の座へ戻ることは許されず、公の地位を息子に譲り渡して、死去した。

 3. 脱デンマークへ

スウェーデンは、デンマークの支配下にあったとはいえ、度々抵抗を試みていた。その1人が、騎士カール・クヌートソンだった。1441年にクリストファ3世の下、宰相に選出された。すぐに辞任し、翌1442年に高等枢密院の一員として、フィンランドに派遣され、トゥルクを占拠する。力をつけるカールに対して、王クリストファ3世は、一段と警戒する。緊張緩和のため、カールはトゥルクを返上した。フィンランドに滞在した期間、ハンザ同盟とも協力関係を築いた。1448年にクリストファが後継者を残さずに没すると、6月20日にカール・クヌートソンはスウェーデン王に選ばれた。6月28日にウプサラ近くのモラの石で新王として迎えられた。カールのスウェーデン王選出はカルマル同盟の再興につながり、1449年にノルウェー王にも選ばれ、11月20日にトロンハイムで戴冠した。

一方、デンマーク側は、カールの戴冠を認めていない。西暦1448年にクリスチャン1世を王に選出していたのである。一国二人の王による共同統治は認められていない。1450年にカールはクリスチャンにノルウェー王位を譲る。王の座を巡り、1451年からスウェーデンとデンマークは戦争状態に入った。国土の荒廃により、スウェーデン内にも停戦への機運が高まった。とりわけスウェーデン教会は、カールによる独立を嫌い、デンマーク王国内にとどまることを望んだ。1448年のクリストファ国王死去後の、国王選挙で敗れたオクセンシェルナ家とヴァーサ家も対抗勢力となった。カールは、その後2度王に就いては、対抗勢力に追われ、亡命を繰り返した。反対勢力のヴァーサ家グスタフ1世により、1521年に始めたデンマークとの戦争に打ち勝ち、1523年6月6日に戴冠した。今年はグスタフ・ヴァーサ戴冠500年、デンマークやフィンランドは、経済分野でも軍事面でも協力し、北欧の一国として歩んでいる。



 
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