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2024年04月26日02:21

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カタールの歴史 イスラム教受容から現在の石油外交まで U-23日本 対 U-23カタール戦レポート

テーマは、湾岸諸国のカタールである。現在、ガザ紛争の仲介役として、外交力に視線が注がれている。オイル・マネーを駆使して、海外からの労働力を受け入れ、宗教には肝要な立場だった。政治家は、ハマスと同じくイスラム教スンニ派である。中立とはいえず、ハマスよりの視点に立つ。同国の歴史を紹介し、最後に23歳以下の男子サッカー・日本対カタール線のレポートへと入る。

 前回中東関連日記 4月21日付 ガザ情勢 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1987429868&owner_id=32437106

ウクライナ関連とU-23日本 対 U-23ウクライナ戦レポート
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1987258945&owner_id=32437106


 第1章 カタールの歴史 

 歴史 ことバンク引用
 在カタール大使館より https://www.qa.emb-japan.go.jp/itpr_ja/b_000012.html

 カタールは、ペルシャ湾南岸の半島に位置する。面積は、秋田県程の広さになる11,570 km²、人口は300万になる。

 写真 掲載元 https://shop.tcgmap.jp/blogs/column/20190618
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イスラム教徒が誕生(622)した7世紀、カタール半島及びその周辺地域は、アラブ人のムンディール部族の支配下に置かれていた。首長アル・ムンディール・イブン・サウィ・アル・タミームは直ちにイスラムを受容し、自分の勢力を近隣アラブ諸国に遠征した軍隊に送り出している。今日までイスラム教徒の大多数を占めるスンニ派のウマイヤ朝(661-750、ダマスカスを首都とするイスラム王朝)時代、カタールもその勢力圏に入った。現在のシリア、イラクと南アラビア、インド間の交易の中継地点として、栄えた。カタール北部に設立されたダチョウの市場により活況を呈した。1世紀足らずで、ウマイヤ朝は滅び、アッバース朝(750-1258、バグダッドを首都とするイスラム王朝)に取って代わった。アッバース朝は、西暦751年にタラス河畔の戦いで、中国の唐王朝に勝利し、覇権を確実なものにする。唐の西方進出を阻み、イスラム教布教にも貢献した。5代カリフ ハールーン=アッラシード時代に最盛期を迎えた。ペルシャ湾のカタールは、交易の拠点だった。現カタール半島の西岸にあったMurwabフォートにはこの旨が記された碑文が残されていた。アッバース朝は、ウマイヤ朝時代から税制を見直し、勢力の拡大に成功する。ウマイヤ朝は、アラブ人であれば、免税の特権を与えていた。逆に非アラブ人だと、税金を課していたのである。アッバース朝では、イスラム教の普及に努め、人種による差別を撤廃した。全てのムスリム にハラージュ(地租)を、 非ムスリム にはジズヤ(人頭税)とハラージュを課したのである。ムスリムとは、アラビア語で帰依する者を意味する。女性差別が根強いことから、ムスリムは男性信者をさす。女性信者はムスリマという。一方非ムスリム圏では、男女平等の観点から、全てのイスラム教徒を「ムスリム」という。宗教のイスラームは、アラビア語で「神の教えに帰依する」を意味する。西暦610年に開祖ムハンマドが教えを受けた「アッラー」を唯一神とする。

 写真 掲載元 まっぷるTRAVEL GUIDE
https://www.mapple.net/articles/cms/wp-content/uploads/2021/11/007-sekaishi_002.jpg
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アッバース朝は、中国の唐王朝から持ち込んだ製紙技術をイスラム圏内に広め、文化の発展にも寄与した。一人のカリフでは、統治が難しく、各地方にアミール(首長)を置いた。バクダッドのカリフの目の届からないところで、アミールは、独自に交易ルートを確保する。次第にアミールの権限が強まり、カリフは統治力を失った。地方勢力の台頭と共に、アッバース朝は衰退した。西暦1258年にモンゴル系民族イルハン国の建国者フレグ・ハンが、バクダッドに侵攻した。最後のカリフとなるムスターシムは殺害され、名実と共にアッバース朝は滅亡したのである。バクダッドの中央政府が管理していたペルシャ湾交易ルートも途絶えた。


  第3章 大航会時代のカタール

転機は16世紀始に迎えた。大航海時代の到来により、ポルトガル人が湾岸地域に進出した。カタールの首長は、オスマン帝国の勢力圏に入っていた。ペルシャ湾の防衛拠点となり、ポルトガルに対して、徹底抗戦する。ポルトガルが、スペインに併合されると、オランダの影響が周辺地域に広まる。オランダは、東インド会社を設立し、インドネシアのジャワ島に総督府を意味するバダウィアを建設した。台湾島を占領し、南アフリカ最南端のケープ植民地を建設し、インド洋の香辛料を独占する。対抗する大英帝国とは、1623年のモルッカ諸島のアンボイナ事件によって、排除した。イギリスの脅威を取り除き、1621年に西インド会社を設立し、アフリカ大陸へも進出する。17世紀に大海を越えて、植民地帝国を築いたのはオランダだった。18世紀にオランダとイギリスの立場が逆転する。イギリス内で1642年にスチュアート王政打破を掲げた内乱が勃発すると、49年にカルヴァン派を中心とした新教徒による共和制へと移行した。新教徒を意味する「ピューリタン革命」という。革命の立役者となったクロムウェルが、海洋進出を念頭に置き、貿易商の要請により「航海法」を制定した。1652年から1674年の22年間、第一次、二次、三次に跨り、一進一退の攻防が続く。オランダは、オラニエ家による総督ポジションを撤廃して、共和制に移行する。第一次はイギリス軍の勝利、逆に第二次はオランダが盛り返した。テムズ川を遡ってロンドンへ進軍した。2次戦争の終結に伴うブレタ条約では、オランダが有利な条件を引き出した。イギリスとの和解を優先して、北米大陸のニュー・アムステルダムを確かに譲った。その代わり、南米大陸のスリナムを獲得した(当時はスリナムの方が価値があると思われていた)。イギリスの反撃を恐れ、オランダは一定程度利権を譲っていた。植民地大国を目指したイギリスは、オランダを追い落とすべく、策を練る。続く第3次英蘭戦争では時のイギリスのチャールズ2世が、フランス(ルイ14世)と同盟を結んだ。フランス軍が陸上から侵攻(オランダ戦争)すると、オランダは太刀打ちできず、共和制を排除した。オラニエ家のウィレム3世が市民から担ぎ出され、総督のポジションとして復活し、フランスと渡り合った。戦費が嵩むことによる経済的な負担や、人的被害を恐れ、ウィレム3世は英仏と和解へ持っていく。長く信頼関係を築くには、婚姻を通して、同盟を結ぶことに限る。ウィレム3世は、チャールズ2世の娘メアリーと婚姻関係を結び、英蘭が共通の君主を戴いた。フランスのルイ14世との戦争も打ち切った。朕は国家なりの言葉を残したルイ14世は、領土拡大の野心が尽きなかった。英蘭は、共にルイ14を警戒し、共同防衛を図っていたのである。1689年イギリスの名誉革命により、ウィレム3世はプロテスタントの中心人物としてイギリス国王を兼ねる。ウィリアム3世と名乗った。1702年、スペイン継承戦争のさなかにウィリアム3世は落馬事故がもとで死去すると、オランダとイギリスは、再分離する。両国の明暗は大きく分かれた。イギリスは植民地帝国として18世紀に大発展、後半には産業革命により、世界の技術をリードする。一方のオランダは、議会と総督の内部対立から、事実上君主が定まらなかった。内乱に乗じて、植民地利権を失い、残るはオランダ領東インドのみとなる。
 オランダの衰退の背景には、国内産業の未発達、労働者の低賃金によって国内市場が成長できなかったことがある。国が獲得したのは、中継貿易にとどまった。

カタールも、オランダの衰退により、イギリスに目を付けられた。イギリスの保護下に置かれる中、19世紀中ごろまで現バーレーンのハリーファ家が統治していた。1868年カタール土着の名家の要請により,イギリスによって、ハリーファ家を同地域から引き離した。カタールは、イギリスの支配を受けながら、サーニー家が統治していた 小さな国が、長く単独国家としてとどまることは難しく、1871年にはオスマン帝国の中に入った。従属を強いられながら、首長のサーニー家には、カーイムマカーム(総督)の地位を与えられる。当時弱体化が際立っていたオスマン帝国内では、民族自決の動きが高まっていた。独立心旺盛であった第三代首長ジャーシムは、1893年にオスマン帝国がカタールに派遣した軍隊を撃退し、保護国から逃れた。晴れて独立を果たしたのである。現カタール政府は、三代目首長ジャーシムが即位した12月18日を国祭日とした。

写真=カタールの独立記念日のロゴ
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ジャーシム首長は、湾岸諸国への貿易に通じていたイギリスとも関係を強化する。オスマン帝国は、もはや瀕死の重病人、戦争するたびに、領土を手放していた。ジャーシム首長は、宿敵であったアブダビのザーイド・ビン・ハリーファ首長(当時)とのホール・アル・オデイド(今日のUAEとカタールを結ぶ約23キロの回廊地帯)の領有権を巡る抗争へ終止符を打つべく、第2次ワッハーブ王国(現サウジアラビア王国)アブドルアジーズ国王と同盟関係を結んだ。自身もまたサウジの宗派であるワッハーブ派を受け入れた。以後、カタールは今日までワッハーブ派を受容している。

第4章 20世紀の歩み イギリスの保護国から独立へ

1913年には、イギリス・トルコ協定でカタールの自治権が認められ、1916年、第四代首長アブドッラーは、他の湾岸首長国と同様に、イギリスとの間に保護条約を締結、カタールはイギリスの保護下に入った。イギリスは、湾岸諸国を味方に付けて、天然資源の獲得を目指していた。湾岸諸国は、自治体の長をシェイク(部族の長)として認められるものの、イギリスの許可なしでは、外交権を得られなかった。安全保障面は、イギリスが担っていた。1928年7月31日に、石油の利権を巡る取り決めが交わされた。当時のトルコ石油会社(the Turkish Petroleum Company, TPC:後のイラク石油会社 the Iraq Petroleum Company, IPC)の出資者間で赤線協定が結ばれた。この協定の目的は、TPC の企業体制を整えることにあり、すべての出資者に対して、旧オスマン帝国領において独自に石油権益を求めることを禁じた「自粛条項」を含んでいた。石油の独占ないしカルテル体制が築かれ、広い領域にわたって極めて大きな影響力が及ぶことになった。このカルテル体制は、1960年に結成された石油輸出国機構 (OPEC) によって成立した新たなカルテル体制に、30年以上も先んじていた。
伝えられるところによれば、1928年の会合で、アルメニア人の実業家で慈善活動家でもあったカルースト・グルベンキアンが中東の地図に赤線を引き、「自粛条項」が効力をもつべき範囲を示した。特筆すべきは、赤線の内側には、オスマン帝国の中東における領土内のアラビア半島やトルコも含まれていたのである。クウェートに関しては、除外されていた。なぜなら、クウェートに対しては、イギリスが重宝しているからである。グルベンキアン自身は、利権の5%を戴いた。石油の利権で巨万の富を得ると、アルメニアの文化振興に充てた。

 写真=カルースト・グルベンキアン 掲載元 ウィキペディア
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協定の締結には、イギリスの意向を無視できなかった。、1935年に英蘭仏米の共同国益会社「Petroleum Development (Qatar) Ltd(PDQ)」に対し、カタールでの75年間の石油掘削権を承認。1940年には高品質の石油が、カタール半島西岸で発見された。第二次世界大戦のため1949年まで石油輸出は行われなかった。

  

1956年10月29日から11月7日まで行われていた第2次中東戦争(別名スエズ戦争)において、イギリスは、ナセル率いるエジプト共和国軍に敗れ、スエズ運河の通航権を失った。中東各国のイギリス離れを防ぐべく、軍隊を駐留させ、睨みをきかしていた。駐留費に見合うだけの利権を獲得できず、1968年1月に時のウィルソン内閣が、財政困窮を理由に、スエズ運河以東からの段階的撤退を表明した。つまり、湾岸諸国はイギリスの抑圧から開放されることになる。小さな領土では、国家運営に支障をきたさないか、格首長たちの間で、連邦構想が掲げられていた。それぞれ首長の間では、独立心が強く、単独国家として歩み始める。1971年8月、先人を切ってハリファ家のバーレーンが独立宣言をした。カタールも連邦が結成された際のアブダビ首長国の優位性を嫌って、1971年9月3日、単独独立を宣言した。

 第5章 独立後の世界、全方位外交を展開へ

 サーニー家のアフマド首長を中心に国造りを始めたものの、王族間では反対意見が根強く、統治力を欠いた。わずか172日で、クーデターにより退位する。1972年2月22日、アフマド首長の従兄弟のハリーファ・ビン・ハマド・アール・サーニーが、前任者の外遊中に、サーニー家一族の支持を取り付け新首長に就任した。

 ハリーファ首長は、アラブ連盟の一員として、石油外交へと舵を切る。第1次石油危機(1973年)以後急増した石油収入を利用し、製鉄・肥料・石油化学などの産業基盤の建設による工業化を進めた。既に未来も予測し、石油枯渇後を考えての着実な工業化路線を歩む。石油収入を福祉や教育面で国民に還元することで、国力の安定化に努めた。首長は、国の規模に見合った国内工業化が一段落したことから、国内経済の多様化(中小企業の育成及び農業・漁業の振興)や天然ガスの開発を目指す。1992年以降は、ハリーファ首長の長男であるハマド皇太子(現首長)が、ハリーファ首長に成り代わり国政全般を取り仕切るようになり、1995年6月、ハリーファ首長の外遊中にハマド皇太子が政権奪取し、新首長に就任した。独立から2代目の首長ハリファ首長は在位23年125日で役目を終えた。  

 3代目のハマド首長は、精力的にダイナミックな国造りを開始し、天然ガス開発、行政の合理化、民営化やカタール人優先雇用政策(カタリゼーション)を推し進めるとともに、教育やスポーツの振興、保健・医療の充実に努めた。ハマド首長は、経済面においては、天然ガス開発を中心とした開発プロジェクトを積極的に推し進めた、政治面では、民主化を推進し、99月3月にGCC諸国で初めて女性に参政権を付与した地方自治中央評議会選挙を実施する。03年4月には諮問評議会に立法権を付与することを規定した恒久基本法に対する国民投票を実施し、同基本法は05年6月に発効した。

将来を見据え、先行投資にも力を注ぐ。青少年教育の充実を図ることがカタールの将来の国力を維持していく基礎になるとの確信の下、「教育都市」を設立し、米国・欧州の大学及び研究機関の招致に取り組んだ。青少年のスポーツ振興の一環として、国際大会を主催する。最大の目玉は、中東初となるFIFAワールドカップ2022の誘致だった。文化面でも大きな功績を残したハマド首長は、2013年6月25日にタミーム皇太子への権限移譲を表明した。新首長に1980年6月3日生まれの当時33歳タミーム皇太子が即位した。タミーム首長は、即位から約11年、周辺の中東諸国と米王の橋渡しになる存在として、外交手腕を発揮する。

 2012年にはガザ地区を実効支配するハマスの事務所設立を認めた。指導者のハニヤ氏もカタールに拠点を構えている。ハマスと敵対するイスラエルを支援するアメリカには、軍事基地を提供した。2001年のアフガン戦争の際、アメリカはカタールの基地からも兵隊を送り出していた。当時アフガニスタンの政権タリバンとも良好な関係を築く。アフガニスタンの政治の場から引きずり下されたタリバンは、2013年にカタールでの事務所を開設する。2021年に米軍が、完全にアフガニスタンから撤退する際、タリバンへの政権移行を見据え、カタールが仲介を担った。ブリンケン国防長官は、2021年9月6日に首都ドーハを訪問し、アフガンから5万5000のアメリカ人の一時受け入れ先として求めた。他にもフランスやドイツの国民の一時的避難先となる。カタールは、アメリカに安全保障を担ってもらいながら、イスラムの国々ともコンタクトを築いた。オイル・マネーによる繁栄は、外交戦略にもかかっている。

 詳細 日本経済新聞 2021年9月16日付け https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN054PZ0V00C21A9000000/

 写真 掲載元 毎日新聞 2021年9月8日付 
https://mainichi.jp/articles/20210908/ddm/007/030/118000c
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 一方で国策としてワッハーブ派を受け入れ、イスラム過激派を財政支援する。西欧諸国から頼りにされながら、警戒感はいまだに残る。同じイスラム諸国の間でも、時に一体感を奪っていた。2017年に、現在のサニー家を支えるイスラム同胞団をバックにする間柄から、親米のサウジアラビア王国、アラブ首長国連邦、バーレーン、エジプト、イエメン、コロモ、モーリタニアと国交を断絶した。いわゆる「カタール外交危機」である。2011年のアラブの春においても、王制や独裁政権打破を掲げる民衆を、カタールは支援していた。ワッハーブ王国時代から含め、200年以上サウード家が就くサウジアラビアは、反体制派を資金援助するカタールの姿勢を非難していた。2015年から2023年までの間、敵対するイランへ財政支援をしていたことが明るみにでると、外交関係を断ち切った。中立を貫くカタールが放映権を持つアルジャジーラも軒並み、王制を批判していた。政府のバックとなるイスラム同胞団もサウジアラビアからテロリストに指定されていた。イスラム過激派と繋がりが深く、王制のサウジアラビアとバーレーン、首長が絶対的権限を持つアラブ首長国連邦から、阻害されたのである。エジプトにおいても、2013年にクーデターにより誕生したシーシ政権は、ムスリム同胞団を厳しく取り締まった。繋がりの深いカタールとは敵対姿勢を鮮明にしていた。1981年に発足した湾岸協力機構(GCC)のメンバーから、クウェートとオマーンとは外交関係を維持する。クウェートは、湾岸協力機構の一員として、カタールと周辺の国々との和解へ向けて奔走した。

外交関係の途絶は、国の経済を大きく停滞させる。安定的な石油供給と、安全保障体制を構築するべく、米国が仲介役に名乗りを上げた。サウジアラビアとUAE、イエメンとは4年後の2021年に正式に和解し、国交を回復した。背景には米国の核開発を進めるイラン包囲網政策にある。断絶した国々は、イスラム教スンニ派である。対してイランは、少数派のシーア派大国。反米で西欧との外交関係も薄い。米国は、カタールを、取り込む狙いがあった。2023年4月5日サウジアラビアの首都リアドでの会談により、バーレーンと和解し、国交を再開する。
同年9月に、カタールは、反米のイランとアメリカの間に入り、人質交換の仲介役を果たしている。全方位外交を展開するカタールだが、イスラム色の強いムスリム同胞団との結びつきが強い。そのムスリム同胞団を支援する組織の一つが、ガザ地区を実効支配するハマスだった。ハマスと交戦するイスラエルとは正式に外交関係はない。11月24日から30日までの間、2度の延長を挟み、双方の間に入り、人質解放に伴う休戦協議を主催した。

写真 タミム首長とブリンケン米国務長官 2024年2月6日 ドーハにて
https://www.arabnews.jp/article/middle-east/article_111350/
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今現在、国際社会は停戦への役割を期待している。イスラエル側から、同じイスラム同胞団をバックにするカタールに対する信頼性へ疑念が高まっている。石油の埋蔵量が高いカタールは、ポルトガルに始まり、オランダ、イギリスへと、時の海洋国家から目を付けられていた。世界をリードする国に忠誠を誓いながら、権益を維持することにより、1971年の独立後、オイル・マネーを駆使して、経済大国へ上り詰めた。いまや民族間の緊張緩和へ向けて、外交力が期待されている。

 第6章 サッカーのレポート
 
写真掲載元 詳細 スポーツナビ https://soccer.yahoo.co.jp/japan/category/u_men/game/2024042501/text?gk=72

 AFC U-23 アジアカップ・カタール大会、準々決勝 カタール 対 日本戦が、日本時間4月25日(木)午後11時にキックオフした。右エンドに日本、左エンドにカタールが入る。早速立ち上がり1分に動いた。右サイドの山田が、相手のトラップミスからボールを拾い、エリアすぐ外斜め45度から左足を振りぬいた。GKアブドゥッラーは全く動けず、鮮やかに右ネットを揺らした。1対0.日本がリードを奪いながら、すぐにカタールは、スコアをイーブンに戻す。 23分、右サイドのヤジディがゴール前にクロスを送った。関根に競り勝った身長184cmのラウィが、エリア若干手前からヘディングシュートを打つ。微妙に落ちていくボールは、糸を引くように右ネットに吸い込まれた。1対1.GK小久保は、球筋を読めず、全く動けなかった。ゲームのテンポが上がる中、前半37分に試合の行方を左右する判定が下った。GKアブドゥッラーが、細谷に入るボールを処理するべく、エリアの外まで出た。腰を捻ってヘディングで左側にクリアする反動により、右足のスパイクで、細谷の腹部を蹴った。VTR映像を検証した主審は、危険行為と判断し、アブドゥッラーにレッドカードを出した。エンドが変わり、後半3分、数的不利のカタールがチャンスを掴んだ。ゴールから約35m付近で得たフリーキックのキッカーをガベルが努める。短い助走から左足でゴール前にクロスを送った。ゴールから微妙に反対にカーブするボールを、ジャービルがヘディングで合わせた。前目にポジションをとったGK小久保の右手はボールに届かず、左ネットを揺らした。2対1.守備の時間が長い中、カタールは、セットプレーからのワンチャンスで、逆転に成功した。

 リードを許した日本は、ボール保持率が高く、チャンスを掴む。20分、右サイドから山本がコーナーキックを蹴ると、ゴール前の木村が反応する。タイミングよくジャンプすると、ヘッドでボールの角度をかえた。GKナダルは動けず、左ネットを揺らした。2対2.木村は、ゴール前のポジション取りに成功し、滞空時間が長いヘディングで、ゴールを決めた。

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日本はボールポジェッションを高め、センターバックもハーフウェー・ラインまで押し上げる。カタールは、5人のDFと4人の中盤の編成で、守勢に回っていた。46分、エリアすぐ外右から山本が左足でゴール前にクロスを送る。直接ゴールに向うボールを、重心を左に傾けながら横飛びしたナダルがキャッチングを試みて、リバウンドを出した。ゴールラインギリギリから藤尾が右足でシュートを打った。角度が厳しい分、枠を捉えられず、左ゴールラインに外れた。
日本は決定力を欠き、90分で決着がつかず、延長戦に入った。15分ハーフの延長戦は、右エンドに日本、左エンドにカタールが入る。数的有利の日本が、圧倒的にボールを支配する中、スコアを動かした。延長前半10分、中盤の藤田のパスを、交代で入った荒木が受ける。荒木は、ゴール前に動き出す細谷にスルーパスを送った。細谷は
、前に飛び出るGKナダルの動きをみて、右足でシュートを打った。体を投げ出したナダルの股をボールは抜けて、ネットを揺らした。3対2.日本が再逆転した。ポジショニングと、たてへの飛び出しが速い細谷の特徴が生かされたゴールだった。

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続くエンドが変わり、延長後半7分、カタールに止めをさす。左サイドの荒木が蹴ったコーナーキックの流れから、エリアの右側で川崎が右足を振りぬいた。ライナー性のボールを、右に体を倒したナダルが一端右手でセーブしたものの、前にこぼした。詰めていた内野が右足でゴールネットにボールを転がした。4対2.内野は、ルーズボールを即座に反応し、GKが守る反対サイドの左ネットに決めた。試合は4対2で日本が、カタールに逆転勝利した。中盤からサイドまで幅広く展開する日本は、繋ぐことを意識して、90分での決着を逃した。大きなミスなく、120分を終えたことは、評価できる材料だった。対照的にカタールは、前線にボールが収まらず、引いて守る一方だった。枠内シュートは2本のみ、終始劣勢だったのである。日本は、勝ったとはいえ、数的有利の状況を存分に生かせず、課題が残るゲームだった。

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