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2021年07月10日16:56

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7/10(土)UEFA EURO2020企画(7)小国主義のデンマークの歴史 準決勝第2試合 イングランド 対 デンマーク戦レポート 米・大リーグ大谷 33号本塁打。

Jリーグの浦和レッズに移籍した日本代表の酒井宏樹が、10年前まで所属した柏レイソルへの思いを語った。
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=138&from=diary&id=6586688

 7/10(土) 今回は、デンマークの歴史を紹介すると共に、UEFA EURO2020 準決勝第2試合 イングランド 対 デンマーク戦をレポートした。デンマークの国土は、若干日本の1割程度、ユトランド半島と407の島々から成る。自治領のグリーンランド島とフェロー諸島をくわえると、日本の6倍にのぼる。人口は581万、首都コペンハーゲンは51万人、公用語はデンマーク語、通貨はクローネ、西暦2000年の国民投票の結果を受けて、EUに加盟しながら、通貨ユーロを採用していない。

 写真掲載元 http://www.ncm-center.co.jp/tizu/denmaaku.htm
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 デンマークと周辺国との関わりを見ていく。

目次
・第1章 デンマークの主要民族デーン人の始まり
・第2章 ハンザ都市との争い
・第3章 グスタフ・ヴァーサの反乱
・第4章 大国から小国へ
・第5章 EURO2020準決勝 第2試合レポート 
   

      第1章 デンマークの主要民族デーン人の始まり

 地図を広げると、ヨーロッパの小国のイメージが浮かぶものの、中世の頃は王国として繁栄していた。現在のユトランド半島とノルウェー、スウェーデン、フィンランド(12世紀から19世紀初頭までスウェーデン領)を含め、スカンジナヴィア半島の南部まで領土を広げたのである。フランク王国からの使者により、カトリックを享受し、10世紀に神聖ローマ帝国の臣家の礼をとった。同じ北欧のスウェーデン王国やノルウェー王国よりも、早く歴史上に登場する。西暦1017年デンマーク王子が、イングランドを配下に置き、デーン朝を開き、クヌート王となったことから文明が始まる。デーン人は、9世紀にヨーロッパ各国へ進出し、王朝を開いている。最も早く侵攻したグレートブリテン島のイングランドには8世紀頃に入っている。西暦866年には、イングランドに住む多くの人々が、デーン人の法と慣習(デーンロー)を押し付けられた。9世紀末にウェセックス王のアルフレッドが、デーン人に反旗を翻す。西暦878年、彼はデーン人との戦いに勝利し、「ウェドモーアの和議」を結び、東部一帯をデーン人の居住区(デーンロウという)として認めた。一時期デーンロウはイングランド国土の3分の1になった。アルフレッドは、大王と称され、法律を整備し、学問も奨励して、人々の暮らしを豊かにした。イングランドもデンマークも、バイキングの末裔デーン人を祖先に持つ。10世紀にハーラル1世が、キリスト教に改宗し、デーン人による統一国家を築いた。デンマーク王国の始まりである。

 写真 掲載元 Logos and Mithos https://tokoshie-jp.com/2018/11/19/english-timelines-and-major-events/
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ハーラル1世は西暦960年ごろにキリスト教の洗礼を受けていた。デーン人のイングランド内では、西暦1042年まで続いたものの、アングロ=サクソン王朝にとってかわられた。

 スウェーデンやノルウェーを配下に入れたデンマークは、別名北海帝国と呼ばれる程、漁業資源を生かして、貿易で潤った。現スウェーデン南部のスコーネ地方、バルト海中央のゴットランド、エストニアの領土も手に入れた。

         第2章 ハンザ都市との争い

 資源を巡り、北ドイツから西部のフランドル、東のポーランド、ロシアに及ぶ「ハンザ同盟」との間で緊張状態に陥った。現ドイツ北部のリューベックが盟主になり、ハンブルク、ポーランドのダンツィヒ、ラトビアのリガを含む。主要都市には在外商館を建て、14世紀にデンマークと対立した。16世紀には、それぞれの都市が小国家として独立したことにより、解体した。

 なお同盟国家内では、共通の軍隊は持っていない。重要な決定事項は、リューベックの市参議会が行っていた。デンマークと利権を巡る争いには、合同艦隊を出動した。

 西暦1386年にデンマークとの戦争が勃発した。デンマーク王ヴァルデマル4世は、王権を強化するべく、領土拡張を図っていた。リューベック市長が責任者となる連合艦隊との戦いでは、デンマーク艦隊にあっけなく敗北を喫した。

 デンマークの侵攻はもはや食い止められない。ハンザ周辺の都市からも対デンマーク戦に向けて、ひそかに代表者が集った。会議を開いた場所から「ケルン同盟」を結成した。期間3年の臨時同盟となり、ハンザ同盟が結成した軍を助けた。1368年、ハンザ側は艦船大小30隻、兵力2000の連合艦隊を編成する。リューベック市長が司令長官となって5月2日、デンマークの首都コペンハーゲンをいっせい砲撃する。専制主義のヴァルデマル4世は、内陸で静養生活を送っている最中だった。突如ハンザ軍の首都攻撃に太刀打ちできず、戦況は一気に不利に傾いた。国王の怠慢さから、反撃の手を加えることなく、降伏した。3年に渡ったデンマーク戦争はハンザ側の勝利となり、1370年にシュトラールズントで平和条約が締結された。ハンザ同盟は、安全に交易を行うため、敗戦したデンマーク王国に、15年に渡る要塞の使用権を譲るように迫った。双方の間で領土の変更はなかった。要塞使用権の委譲により、和解にいたったのである。
 
1426年には、ズンド海峡(デンマークとスカンジナビアの間の狭い海峡)の通航に課税をくわえたデンマークとの間で第2次戦争が起こった。他の同盟軍の支援を受けずに、渡り合い、ズンド海峡の通航権を獲得した。

 写真=ハンザ同盟の都市 掲載元 世界史の窓 
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 バルト海の交易権の独占を狙って、ハンザ同盟とケルン同盟の連合艦隊に破れたデンマーク王国は、建て直しを測る。1397年、実質デンマークが支配者となるノルウェーとスウェーデンからなるカルマル同盟を結成した。デンマークの女王マルグレーテが元首となる。ノルウェーのホーコン6世との婚姻により、1387年に女王の座についていた。なおノルウェー領だったグリーンランドの支配権も手に入れている。

        第3章 グスタフ・ヴァーサの反乱

 西暦1523年にグスタフ・ヴァーサの反乱にあい、1世紀半に渡った同盟は解体された。名門家出身のグスタフ・ヴァーサの決起には、深い理由がある。彼はユトランドの貴族の館で1年程幽囚の生活を送っていた。デンマークの抑圧下でのスウェーデン貴族は、自由や権利が保障されていなかった。彼は農民に化けて、リューベックに足を運び、1520年に一端スウェーデンに帰還した。カルマルの地で、父と叔父がクリスチャン2世による「ストックホルムの血族」により、惨殺されたことを知らされた。個人的な憎しみと共に、自由な生活を願う人々の気持ちを汲み取り、スウェーデン中部ダーラナ地方の農民達に蜂起を促した。農民達は、税金に苦しんでいたとはいえ、反乱失敗後の制裁を恐れていた。地方農民達が決議に入る前にスキーで雪の中を滑りながら、ノルウェーに向かった。遅れることダーラナ地方から使者が送られ、ノルウェーとの国境沿いのセーレンで合流した。反デンマークとの戦いに協力すると、申し渡された。グスタフ・ヴァーサは、農民の支持を取り付けたことを受けて、独立戦争を起こす。1521年に執政に就任し、軍船と共に傭兵をそろえた。南スウェーデンにて、デンマーク軍を追い払い、主権を回復する。1523年にグスタフ・ヴァーサは、ストレングネスでスウェーデン国王に推された。それ以降、世襲制の王朝が続くことになる。デンマークは、軍事力でスウェーデンに及ばず、カルマル同盟の解体に繋がった。グスタフ・ヴァーサは、プロテスタントのルーテル派協会と結託し、カトリック教会の財産を募集し、税収を増やした。専制主義のグスタフ・ヴァーサに異を唱える勢力が反乱を起こしても、兵を差し向けて、鎮圧する。国民から指示を得られないまま、1560年に没した。ヴァーサ朝は、スウェーデンのバルト帝国への幕開けとなる。

 1618年から1648年にかけて神聖ローマ帝国で起こった「宗教戦争」により、デンマークとスウェーデンの力関係が大きく変わった。デンマーク国王クリスチャン4世は、1625年に、イギリスとオランダを後ろ盾に、新教徒側にたって参戦し、ドイツ地方農村地帯に踏み込んだ。敵対する皇帝側は、ティリが指揮する旧教徒同盟軍やヴァレンシュタインの傭兵部隊を投入して、クリスチャン4世軍に勝利する。支援国フランスは、戦況を分析し、兵を失う事態を出きる限り避けるため、デンマークに対する間接支援に転じていたのである。クリスチャン4世は1929年にドイツ地方から撤退している。

 写真 掲載元 quizlet.com
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 名を上げたのはグスタフ2世・ヴァーサだった。1630年、スウェーデン王グスタフ=アドルフは、フランスの資金援助を得て、新教徒擁護、神聖ローマ皇帝の北上阻止を名目にドイツに侵入した。1632年、リュッツェンの戦いでスウェーデン軍は勝利したものの、グスタフ・アドルフは戦死する。皇帝側のヴァレンシュタインは謀反の疑いをかけられ暗殺され、新旧両派の和約が成立した。この間、皇帝側は新教徒の拠点の一つマクデブルクを包囲攻撃し、旧教側兵士による残虐な破壊行為が行われた(1630年11月〜31年5月のマクデブルクの戦い)。最終的に1648年に、ウェストファリア条約で持って終戦した。背景には新教徒側のフランスと旧教徒側のスペインとの長期戦にある。1643年にフランス北部のロクロワの戦いで全く決着が付かず、翌年から休戦交渉が進められたのである。1555年のアウグスブルクの和議で容認された新教徒の信仰が認められた。
新徒側にたって敗北したデンマークは、領土を削られる。海洋国家としての面目を保つため、17世紀にスペイン・ポルトガルに代わり、西洋国家が参加する黒人奴隷貿易に加わった。1671年に特許会社となる西インド会社を設立し、アフリカ西岸で得た奴隷を西インドに移送し、植民地活動を行った。

 奴隷貿易によって海洋国家としての復活に向けて邁進するものの、19世紀に国の行方が変わる。西暦1814年、ナポレオン廃位後スウェーデンとノルウェー領土を巡って争った。対仏同盟に加わったスウェーデンは、ナポレオン側についたデンマークは、敵国だったのである。1809年のロシアとの戦争で、フィンランドを移譲したことにより、ノルウェー獲得を目指して、デンマークと相対した。キール条約を結び、ノルウェーをスウェーデンに割譲した。

    第4章 大国から小国へ

 写真 掲載元 シュレスヴィヒ・ホルシュタインの地図 掲載元 世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh1202-112.html
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 もう一つ国の行方を左右する問題は、ドイツである。ユトランド半島の南部シュレスヴィヒ・ホルシュタインを巡る戦いである。シュレスヴィヒ・ホルシュタイン地方は、北部はデンマークに多いデーン人が、南部はドイツ系民族が多数を占めていた。中世の頃シュレスヴィヒ公国はデンマークに、ホルシュタイン公国は神聖ローマ帝国に含まれていた経緯がある。15世紀にデンマークが、連合公国として統一し、王国内に組み込んだのである。デンマーク王国の領土は、ホルシュタイン公国を含み、図ⓐより以北であった。ただし、ホルシュタインはドイツ連邦にも属していた。つまり、ドイツ連邦の北限が図ⓑであったが、この段階ではドイツ連邦は単一の主権国家ではなく、ドイツという統一国家があったわけではない。シュレスヴィヒ公国は南部と北部の違いがあり、北部はデンマークへの帰属意識が強かった。
 19世紀のナショナリズムの風潮の中で、これらの地域、特にホルシュタインのドイツ系住民がデンマークからの分離独立を要求するようになった。それに対してデンマーク王国は中世以来、シュレスヴィヒとホルシュタインは一体であることを宣言していたが、さらにデンマーク王国憲法を制定して、両公国にも適用しようとした。1848年革命が全ヨーロッパに広がるなか、シュレスヴィヒ・ホルシュタインでもドイツ系住民がデンマークからの分離を求めて独立運動を起こし、臨時政府を樹立した。プロイセンは、臨時政府を支援する口実で出兵し、デンマーク軍と戦った。貿易国のロシア、イギリス、フランスが、デンマーク軍に助け舟を出すと、膠着状態になる。プロイセンは休戦に応じ、2つの公国の併合、または属国とすることを諦める。(第1次デンマーク戦争とも言う)。
1852年にロンドン議定書が成立すると、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国は、デンマーク王国のもとに高度な自治行政権を与えることで合意が成立した。デンマーク憲法は本土のみの適応に限る。プロイセン軍は一端両公国から引き上げたものの、引き続き干渉の機会をうかがった。

 写真 掲載元 教材置き場 プロイセンからドイツ統一まで http://blog.livedoor.jp/kaito_km/archives/6459060.html
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ロンドン議定書では、連合公国の領土割譲問題を解決するに至っていない。再度争いに発展する。始まりは1863年に即位したデンマークの新国王クリスチャン9世の政策にある。両公国の結合を否定し、憲法をシュレスヴィヒに適用した。プロイセン王国のビスマルクは、ロンドン議定書に違反する内容だと声明を発する。対抗措置として1864年2月、ドイツ連邦(1851年に復活)の諸侯をまとめあげ、オーストリア王国とともにシュレスヴィヒに侵攻する。兵力の差は圧倒的だった。デンマーク軍を北側の本土へと後退させ、ユトランド半島を制圧した。共同歩調をとったドイツ連邦諸侯とオーストリア王国の同盟軍による制圧した出来事をデンマーク戦争(第2次シュレスヴィヒ戦争ともいう)という。
 同盟軍とデンマーク軍は、1864年10月30日、ウィーンで講和会議を開いた。完全撤退したデンマークには、条約で不利な内容を突きつけられた。ホルシュタインと共にシュレスヴィヒも含めてドイツ連邦のプロイセン・オーストリアに引き渡したのである。領土の4割を失い、かつての海洋王国が、ドイツ地方に隣接した小国へと格下げになった。ウィーン講和会議後に策定された国境が図ⓔである。
デンマークから領土を得たプロイセンとオーストリアは1865年に、ガシュタイン条約を締結した。2つの民族が住む連合公国を分割統治するのである。シュレスヴィヒをプロイセンが獲得する一方、ホルシュタインはオーストリアが領土内に組み込んだ。ドイツ統一を掲げるプロイセンの首相ビスマルクは、オーストリアと対等に振舞うことにより、スウェーデンとロシアの干渉を避けることに成功した。狙い通り、ホルシュタインを一度はオーストリアに譲り渡しながら、口実をつけて、翌1866年に普墺戦争を引き起こす。プラハ条約でホルシュタインの移譲を認めさせると、彼の掲げたドイツ地方統一を完成した。1871年1月15日にヴィルヘルム1世を君主に、帝国として誕生する。

完全敗者となったデンマークは、南ユトランドを放棄することとなり、海洋貿易の拠点が狭まった。そこで「外で失ったものはうちで取り戻そう」というスローガンで狭いながらも国土の6割に達する農用転用地を生かして、穀物の大量生産に努めた。畜産業にも力を注ぎ、輸出国へと変わる。

領土を巡る争いを回避したことにより、比較的国内情勢は安定していた。第2次世界大戦時にはナチス・ドイツに目を付けられた。開戦翌年の1940年に、領土通過を求められた際、抵抗する力がなく、事実上占領下に置かれる。1945年5月4日に、旧ソ連軍の侵攻により、ベルリンが陥落したことにより、2日後の5月6日にデンマーク全土が開放された。第2次世界大戦以降、ヨーロッパ各地で国境策定が進む中、敗戦国ドイツ国内のシュレスヴィヒ地方の住民の間で、デンマークへの併合を望む声が高まった。連合国もシュレスヴィヒ地方の住民の気持ちを汲み取り、デンマークに帰属を決める権利を与えた。デンマーク側は、小国主義の原則を貫き、拒否したのである。東西冷戦時にはノルウェーと同時期にNATOに加盟し、ソヴィエト連邦をけん制した。

21世紀の今もなお、平坦な国土を生かして、農業と共に、畜産業にも力を注いでいる。環境にも配慮し、バイオマス、太陽光、風力など再生エネルギーの稼働率は、欧州でトップの43%に達した。

 歴史を振り返ると、14世紀にバイキングの末裔らしく、北海の漁業資源を目当てに領土拡大をするにつれ、ハンザ同盟と争った。対抗措置のようにスウェーデンとノルウェーを併合し、カルマル同盟を形成した。最終的にスウェーデンのグスタフ・ヴァーサによって解体させられた。北海の覇権をスウェーデンに譲ると、30年戦争においての新徒側の介入失敗により、領土は削られる一方だった。ドイツ統一戦争に巻き込まれ、領土は縮小の一途を辿る。小国へと転落しながら、民族の統一を武器に、21世紀の今先進国として歩んでいる。

 第5章 EURO2020準決勝 第2試合レポート 

 7月7日 準決勝 第2試合 イングランド 対 デンマーク戦が、イングランド・ロンドンにあるウェンブリー・スタジアムで行われる。キックオフ前の午後7時30分時点で、気温は摂氏19度、湿度64%、風速4,7mである。イングランドは、Wカップを含めて直近の4大会でベスト4の壁に跳ね返され、EUROにおいてファイナリストになったことさえない。一方のデンマークは、1992年スウェーデン大会の優勝以来、29年ぶりの決勝進出を狙う。初戦フィンランド戦の試合中に意識を失って病院に搬送されたエリクセンは、一命をとりとめ、退院している。選手生活を復帰できるか、いまだに明らかになっていない。試合に勝って決勝戦にエリクセンを招待することを目的に、準決勝に望む。

 写真掲載元 Google https://www.google.com/search?q=%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89+%E5%AF%BE+%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF&rlz=1C1BLWB_jaJP577JP577&oq=%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%80%80%E5%AF%BE%E3%80%80%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF&aqs=chrome.0.69i59j0i324l3j0i3l2.8265j1j4&sourceid=chrome&ie=UTF-8#sie=m;/g/11fq895s7n;2;/m/01l10v;ln;fp;1;;


右陣地にイングランド、左陣地にデンマークがとり、デンマークボールで始まった。立ち上がりから一進一退の攻防が続く。17分、デンマークはラーセンが左サイドからコーナーキックをけると、カーブを描いたボールがゴール前に入る。前に飛び出したGKピッグフォードが、右手一本でクリアした。ゴールから35m付近でホイビヤがフォローし、コーナーキックのキッカーを努めたストリャーにパスを送る。ストリャーは、マウントと向き合う。ストリャーはフェイントをかけながらゴール前に持ち込もうと突破する。マウントは若干体勢が傾きながら、左足を辛うじて伸ばして、ボールを外に出した。マウントは、狙い通り、クロスが入る前にクリアに成功した。イングランドは、左サイドのスターリング、トップのケインも下がってパスを受ける。

 前半29分、押され気味のデンマークは、ゴールから約30m付近でFKを得た。キッカーを務めるテムズゴーが、助走をつけながら右足でシュートを打った。5枚の壁の一番右に入るハリー・ケインの頭上を越えていくボールは、左ネットに向かう。GKピッグフォードの指先を掠めて、ネットを揺らした。1対0.デンマークが先制ゴールを記録した。テムズゴーがけったボールは縦に回転がかかった分、落差がある。GKビッグフォードはコースの予測がつきづらくなっていたものの、ボールに触れることはできていた。

 1点ビハインドを負ったイングランドは、俄然攻勢に転じる。37分、サカが出したボールを、エリアの右側から腰を捻ってケインが折り返した。減速気味のボールを、スターリングが右足でシュートした。前に出ていたシュマイケルが胸でボールを押し返した。シュマイケルは、高い位置をとった分、スターリングのシュートコースを完全に抑えた。

 写真=ドリブルをするサカ
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足元に弱いデンマークディフェンスの裏を狙うイングランドは38分、右サイドバックのウォーカーが出したパスを、ミドルレンジに下がったトップのケインが受けた。ケインは体の向きを変えると、エリアに上がる右ウィングのサカを狙って、スルーパスを送った。スピードのあるサカが走りこむと、GKシュマイケルの位置を見て、ゴール前に走るスターリングを狙ってクロスを出す。体を倒したシュマイケルの手は届かず、カバーに入ったケアの足に当って、ゴールネットを揺らした。1対1.急いで戻りながらスライディングしたケアが、ゴールネットにボールを入れたことにより、記録上オウンゴールになった。ケインが引き出した分、ゴール前のスペースが開き、サカのスピードが発揮された。前半は、イングランドが盛り返して、1対1で折り返した。ゲームの方は、後半45分で点が入らず、15分ハーフの計30分の延長戦に入った。イングランドの方が運動量で上回り、デンマークは守り一辺倒になった。

 後半に好セーブしたGKシュマイケル
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延長前半11分、右から左に攻めるイングランドは、右サイドからスターリングが、ドリブルを仕掛けていく。対応するクリステンセンを交わし、エリアに入る。危機を察したメーレが肩を入れてブロックする。交わされたクリステンセンが後ろからボールに足を伸ばすと、スターリングは両手を投げ出して、ピッチに倒れこんだ。主審は笛を吹き、PKスポットを指差した。デンマークのメンバーは、いっせいに詰め寄り、スターリングのシミュレーションをアピールする。VAR(ビデオジャッジ)判定により、改めてPK判定が下された。キッカーは、キャプテンのハリー・ケイン、助走をつけながら右足を振りぬいた。重心を左に倒すシュマイケルがセーブしたものの、前にボールをこぼした。一度はミスを犯したケインが、冷静に逆サイドに流し込んだ。2対1.イングランドが逆転した。シュマイケルは、両手の平でボールを掴みに行った分、勢いに負けて、弾いてしまったのである。

 写真=こぼれ球を押し込んで逆転ゴールを決めるケイン
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 延長後半は、一転してデンマークがボールを動かしている。8分、ミドルレンジからブレイスウェイトが、右足でシュートを打つ。やや勢いがなかったものの、ゴール左隅をとらえた。重心を移動しながら右手を伸ばしたピッグフォードの指先にボールが当って、ゴールラインを割った。残り時間が少なくなるにつれ、イングランドは、前線の3枚{トップのケイン、右スターリング、左グリーリッシュ(サカと交代)}を残して、引いて守る。前がかりになる相手の意表をつき、追加点を狙う。延長後半15分、ケインが出したパスを、エリア内の右でスターリングが受ける。スターリングは、交代出場のアンデルセンを振り切り、シュートを打つ。ポストの外まで飛び出たシュマイケルが滑り込みながらセーブした。延長戦になってもスターリングは、ステップを踏みながら、相手の意表を突いて前に出るドリブルは健在だった。ゲームは120分戦った末に、イングランドが2対1でデンマークに勝利をし、大会初となる決勝進出を果たした。
 ゲームは、前半に限ると、時間帯によって両チームが主導権を取り合っていた。高さで勝るデンマークに対し、足元の技術ではイングランドに分がある。後半以降は、イングランドが押し気味にゲームを進めた。最終スタッツはボール支配率においてイングランドの58%に対し、デンマークは42%、総シュート数はイングランドの21本(枠内10本)に対し、デンマークは6本(枠内3本)である。後半以降に、シュート本数の差がついた。2連敗スタートからベスト4へ駒を進めたデンマークのメンバーは、スタンドの一角に陣取るサポーターの前に向かい、小さく拍手をする。対照的イングランドのメンバーは、皆で手を繋ぎ、サポーターに声援を要求する。マスク未着用のサポーターが,国家を大合唱した。選手達は、決勝戦へ向けて、一段と気持ちが高まったまま、ピッチを後にした。


 
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