mixiユーザー(id:32437106)

2023年10月30日23:39

341 view

ハロウィン 2023年横浜みなとみらいライド 第4回目 10月22日(日)付け ZARD 10thシングル「きっと忘れない」リリース30周年記念を組み合わせたたび物語 山手西洋館ハロウィン

<2023年横浜みなとみらいライド 第4回目 10月22日(日)付け ZARD 10thシングル「きっと忘れない」リリース30周年記念を組み合わせた旅物語 山手西洋館ハロウィン>

舞台は、2023年第4回目となる神奈川県横浜市中区みなとみらい地区から山手地区である。訪問地は、山下公園、港の見える丘公園、山手西洋館、また公共施設の日本大通駅構内のニュースパークである。山手西洋8館では、17日(火)から31日(火)にかけて、2週間に渡り、ハロウィンの装飾が行われていた。タイトルは{山手の丘で「トリック・オア・トリート」}、ハロウィーン前の週末28日(日)には、仮装した人々が集うイベント「ハロウィーンウォーク」が開催された。西洋館内の装飾展示は、タイトルの「トリック・オア・トリート」の通り、神秘性を秘めていた。髑髏の新郎新婦やジェントルマンが、豪華なディナーを前に、背もたれのついた椅子に腰掛けていた。髑髏といえば、我々は怪奇現象を想像してしまう。怪談話では、事故で亡くなった人が、成仏できずに、こっそりと姿を表す様を描いている。山手西洋館内においては、窓から差し込む光を受けて、食卓自体が明るくなることにより、いくらか、晴れやかな雰囲気になった。館内を彩ったバラの花と共に紹介する。

 今回のテーマは、11月3日にリリース30周年を迎えるZARDの10thシングル「きっと忘れない」である。同曲は、オリコン・ウィークリー・チャートで、初週1位、売上枚数87万2130枚だった。同曲は、冬を前に、1人の若者が、離れてしまった恋人への思いを綴っている。歌詞に描かれた主人公目線から、みなとみらいの観光地について語っていく。

 写真左=きっと忘れないのCDジャケット
 フォト

 目次
・第1章 山手西洋館を巡る
・第2章 山手公園へ
・第3章 みなとみらい 新聞博物館 夜景北仲ノット

 前回 2023年第3回目6月4日(日)みなとみらいライド テーマ「果てしない夢を」
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985239710&owner_id=32437106

 バラの時期の日記 2020年10月25日(日)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1977385164&owner_id=32437106


 第1章 山手西洋館を巡る

 外部リンク 横浜山手西洋館 https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/yamate-seiyoukan/blog/

2023年10月23日(日) 一人の青年が、ハロウィン前の横浜のみなとみらい地区を巡った。より効率よく施設を周るべく、30km以上離れた多摩地域から自転車に乗り、海沿いの高台に位置するみなとの見える丘公園に向った。時刻は朝10時前、海を見下ろす展望台には、若いカップルや若者グループの姿がある。互いに感覚を開けて、潮風に当たりながら、言葉を交わしていた。麓のみなとみらい線元町中華街駅から、長さ300m、最大斜度12度に達する谷戸坂を自転車で上った青年は、展望台に足を運び、水分を補給した。麓はマンション街、その先は工場地帯である。西へ目を転じると、マリンタワーが聳え立つ。

 カップルが中心の中、青年は一抹の寂しさを感じた。ZARDが1993年11月3日に発売された10作目のシングル「きっと忘れない」の主人公の姿とも重なった。

 Aメロの冒頭:「きっと忘れない 眩しいまなざしを 信じたい 信じてる あなたが変わらぬように」

 写真=きっと忘れないのMVの一場面 掲載元 楽天ブログ パールライトの世界
翼を広げて 2008年4月13日付
https://plaza.rakuten.co.jp/k123hiroko/diary/200804120000/
 フォト

 遠く離れてしまった恋人へ思いを馳せながら、バラに彩られた港の見える丘公園を散策した。確かに学生を卒業して、就職すると、人間関係が変わりやすい。配属先が遠方であると、地元の仲間や恋人と疎遠になってしまいがちである。一般の人々の間で、メールによる連絡交換がなかった時代、遠方の相手と繋がる手段は、電話や手紙に限られていた。青年は、秘かに自分の思いを手紙に綴っていた。


 丁度西洋8館では、ハロウィンの飾り付けが行われている。港のみえる丘公園内に位置するイギリス館と山手111番館を巡った。

写真=イギリス館
フォトフォト

 二つ目の山手111番館の1階角部屋には、羊毛フェルト作家の作品が、展示されていた。プードルを初め、生き写しのように、姿形から毛並みまで再現していた。作者はJOY羊毛フェルトといい、ホームページから、インスタ、facebookまで開設している。

JOY羊毛フェルト ホームページ https://minne.com/@ranyumi06/profile

フォト

 ホームページの文章を読むと、作家自身、愛犬を失い、ペットロスになった経験から、同じ境遇の人々の気持ちを汲み取り、製作を始めたという。犬の寿命は十数年、長くても20年といわれている。子犬の頃から連れてきても、あっという間に歳をとり、亡くなってしまう。確かに言葉を発することはないとはいえ、意思疎通を図ることができる。困ったときやつらいときでも、そばに寄り添ってくれる。文明社会において、かけがえのない存在だった。

フォトフォト

 ZARDの「きっと忘れない」では、サビの2フレーズから始まり、Aメロの歌詞へと続く。
歌詞:「Every day every night 泣いたりしたけれど、誰にも話せなくて、不器用だけれど、せいいっぱいあなたを愛した季節」

 青年は、恋人と離れ離れになり、週末に出かけるたびに、当時の記憶が蘇る。自分なりに彼女へ思いを伝えることはできたはず、それでも何処か心はすれ違っていたのかもしれない。西洋館内の飾りつけや羊毛フェルトの作品を見て、いくらか救われたような気がした。

 自転車に乗り、根岸森林公園へと続く、アップダウンのある山手大通りを走った。およそ数百メートル先で、左手に見えるのは山手234番館である。横浜市が昭和4年(1929年)に建てた分譲住宅の中で、唯一現代まで保存された。装飾の方は、ハロウィンの午後のひと時を表現している。マントを被ったジェントルマンは、うつむき加減で、黙って招待客を待っていた。その様子は、恋人と意思疎通を図る青年にも通じていた。
フォト

 続く歌詞:「暮れゆく町、あふれる人並み 今にも笑顔で あなたが現れそうで」

 スリッパを入って室内に入ってくる人の足音を聞いて、振り向いてしまう。立ち止まっていては次に進めない。2階へと登っていた。

 ちょうど開けた空間の一室で、市民サークルによる絵画展が開催中だった。横長の机を前に座る二人の年配女性が対応してくれた。それぞれのメンバーが発表した作品は、神奈川県内の風景画を初め、静物画、人物画まで、多様化している。もっとも目に留まったのは、作品名「元町中華街で」ショーウィンドウを前に、肩を寄せ合う母と息子の後姿を描いていた。息子は欲しい商品があり、母親に駄々をこねているのだろうか、母親は財布の紐を空けて、現金、またはカードを確認したのかもしれない。
フォト

 他にもう一点紹介するのは、壁に貼り付けられた木を描いた2つの作品である。右手の方は、落ち葉が散っていく様子から「秋」、左手の方は、枝に残った葉の少なさから「冬の到来」をイメージする。
フォト
 
ハロウィン前の10月下旬といえば、ナナカマドの実が熟し、街路樹として植えられたモミジバブウの葉が色づき始める。街中の樹木が色鮮やかに染まる秋、冬を前にしなければならないことはあるのではないか。

 揺れ動く青年の心情は、サビの歌詞にも表れていた。

「きっと忘れない また冬がきても 想い出抱きしめたいから。空の彼方へと悲しみ吹き飛ばせ、信じたい信じてる あなたが変わらないように」

 窓辺からのぞく、庭先の葉っぱが色づき始めると、木枯らし一号と共に枝から離れ、地面に落ちていく。季節の移ろいと共に、彼の恋も散ってしまった。 

 第2章 山手公園へ

 エリスマン邸、ベイリックホールの順に訪問し、山手通りから海側となる左手に反れて、旧山手68番館がある山手公園へ向った。

 写真=エリスマン邸      写真=ベイリックホール
フォトフォト

景観に配慮して、周囲に高い建物はなく、こんもりと緑が生い茂り、暑い夏場は木陰を提供してくれる。実は山手公園は日本国内において、イギリス発のテニス競技が、初めて行われた場所として知られている。1859年の開港以来、見晴らしの良い高台を求めて、山手地区に住居を購入したことに始まる。異国の地で人々は、テニスを通して、コミュニケーションを深めていた。

 晴れた日の休日、中高年から若者まで、公園内のテニスコートで汗を流している。旧山手68番館は、利用者向けの休憩室と化しているものの、今なお西洋館の企画展にも加わっている。窓辺に設置された展示品は、赤い目をした巨大クモの周りに、白面が並べられている。天井からも頬に傷が入った白面が吊るされていた。その異質な光景に、青年は毒クモに体液を据われた人々を想像した。確かに西欧の昔話には、吸血鬼やドラキュラなど、非日常的な世界が描かれている。彼自身敏感に反応したことから、自分も犠牲者なのではないかと、思ってしまった。晴れた日、窓から太陽光が差し込むことにより、毒クモの罠にかかった人々に出口が見えているように感じた。

フォト

 外に出ると、秋のさわやかな風により、心を揺さぶられた。Bメロの歌詞にも表現されている。

歌詞:{別れは粉雪、寂しさが胸に積もる「また会いたい」}

 そういえば、彼女と別れたのは、粉雪が舞う頃だった。4月の新年度へ向けて、慌しく準備する中、寒気の影響により、雨が雪に変わった。沈うつな気持ちを抱えていると、いつの間にか季節が過ぎていく。テニスコートで汗を流す人々や、山手西洋館を巡る人々を見て、自分が取り残されているように感じた。

 続く歌詞:「どうして、あのとき、傷つけあったのだろう、つよがるしかなくて」

 青年は、疎遠になった理由について、心辺りがあった。確かに粉雪が舞う冬の終わりに、新生活の準備のために、別れを告げた。もし素直になって、思いを打ち明けることができたら、状況が変わっていたかも知れない。例え距離が離れていても、心は通じ合ったはずである。

 続く歌詞:「星くずの中 間に合うように 渋滞抜けて 送ってくれたね いつも」

 写真=PVの一場面 掲載元 TKHUNT 2017年3月31日付 https://www.tkhunt.com/278568/
フォト

 青年は、彼女が行きたいところへ、車を走らせていた。でもあの時は、新生活への準備や不安から、断ってしまった。思いを巡らしていると、自然とヒマラヤスギに囲まれていた三角屋根のこじんまりとした家の中へと入った。横浜市から全国へとテニスの普及を伝える「テニス発祥の記念館」は、無料で気軽に出入りができる。室内は敷居がなく、全面床張りだった。日本のテニスの歴史は、1876年に横浜市に持ち込まれ、2面コートが設置されたことに始まる。室内では常駐の一人の職員が、気軽に声をかけてくれる。アラビア語で「手のひら」を意味するテニス競技で使用するラケットが、時代ごとに横並びにされていた。展示品の中で最古となるのは500年前のラケットだった。完全な木製で、反発力が弱かったことが推察される。古くは木による腐食を避けるため、三角形の厚みのある器具で固定されていた。

 写真=500年前のラケット    写真=壁に立てかけられたラケット
フォト フォト

 テニス競技は、1対1のシングル、または2対2のダブルスが主流である。ラリーが続くと、その分体力の消耗が激しく、次の試合に影響を及ぼす。コートを走りながら、必死にラケットで球を打ち返す姿に、多くの人々の視線が注がれた。プロのプレーヤーは、4大大会(全豪オープン、全仏オープン、ウィンブルドン選手権、全米オープン)で結果を残すことにより、多額の賞金を得ることができる。オリンピック競技においては、男子に関しては第1回の1896年アテネ(ギリシャ)大会から、女子は第2回の1900年パリ(フランス)大会から実施された。1928年から1984年まで除外されたものの、1988年のソウル(韓国)大会から復活する。長く鎖国状態だった日本において、ここ横浜から西洋の文化が広まった。その一つが、イギリスの上流階級で流行っていたテニスだったのである。

 写真=テニス発祥の地の飾りつけ
フォト

 青年は、山手公園を離れて、通りに出ると、続く目的地のイタリア山庭園を訪れた。高低差のある園内は、水遣りから剪定まで、丁寧に花を育てていた。10月といえば秋バラの季節、春バラに比べると、花びらは小さくなりがちである。個体数ごとに開花状況に差がある分、長く鑑賞できるという。
 フォトフォト

 敷地内の外交官の家では、来賓をもてなすため、ひときわ豪華なディナーを再現していた。ダイニングには、手の平大サイズのカボチャを一つ置き、参加人数分のティーカップを並べている。向かい合う席の中心には、蝋燭と共に、活花を飾る。出席者が揃い、日暮れ時電気を消すと、蝋燭の淡い光によって、神秘性を増す。
フォトフォト

 対照的にサンルームでは、子供たち向けのお菓子が並べられていた。大人たちが食事中、子供たち向けに、遊べる空間を用意していた。実に気配りが届いたパーティーである。

 ブラフ18番館のサンルームの外側には、ソヨゴが甘い実をつけていた。既に植物や樹木は冬支度を始めている。我々人は、秋のひと時、色づいた木々や植物を観賞用として楽しむ。彼自身もひときわ思いを募らせていた。

 写真=ブラフ18番館       写真=ソヨゴの実
フォトフォト

 Bメロのサビの歌詞:「きっと忘れない 眩しいまなざしを、切ない約束が痛いけれど」

確かに忙しさにかまけてデートの約束を忘れてしまった。それも過ぎたことである。

続く歌詞:「遠く離れても 心は止まらない あきらめたい あきらめない 孤独がドアを叩く」

 曲の方はギターソロが入り、最後のCメロのさびへと続く。

 第3章 みなとみらい ニュースパーク 夜景北仲ノット46F展望台

 関連日記 2018年1月22日付 横浜観光 公共施設巡り ニュースパークを中心にレポート 横浜の歴史を紹介 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1964809541&owner_id=32437106

青年は、山手西洋8館巡りを通して、季節の移り変わりを感じながら、つかの間のハローウィンパーティーを疑似体験した。一段と力がみなぎった中、坂の上に位置する根岸森林公園まで自転車を走らせた。休日シャッター街となった商店の中を貫く通りを下ると、住宅街へ変わるに連れて、再び上り坂に差し掛かった。アップダウンがあることにより、ヒルクライムの練習にもなる。公園内の南側に位置する財団が運営する馬の博物館の企画展は、著作権保護の観点から、多くの展示品で撮影は禁じられている。撮影が許可されている第2展示室から一点紹介する。

 フォトフォト

 馬の博物館は、日本から世界に渡り、馬と人のかかわりをテーマに、年に4回ほど企画展を開催する。ウマは、我々ヒトの暮らしにおいて、荷物の運搬用としても重宝されていた。今では、体型がほっそりとしたサラブレッド種を初め、競走馬としても借り出されている。競馬場は、見物客から馬券を買ってもらう、またはテレビ中継の放映権料により、経営が成り立つ。今では我々ヒトのビジネス面でも貢献していた。

 根岸森林公園から港の見える丘公園を経由し、谷戸坂を下って、山下公園へと向った。昼下がり、散歩する若者や、ベンチに腰掛けるカップルを含め、園内のバラの花に目を向けながら、午後のひと時を過ごしていた。1960年まで太平洋を横断していた氷川丸は、格好のフォトスポットになる。翌1961年から62年にもわたって係留保存され、変わりゆく横浜の町並みを見守ってきた。

 フォト

今なお高島町周囲の新港地区は、開発が著しく、タワーマンションが林立する。ここ山下公園は、関東大震災時に発生した瓦礫を埋め立てて作られた。1930年に開園以来、第二次大戦を挟み、植栽活動にも精を出し、四季折々花々を鑑賞できる。潮風が吹き付ける中、人々はゆったりとくつろいでいた。海沿いのベンチに腰掛けた青年は、再び立ち上がり、歩き出した。

 山下公園の次に訪れるのは、みなとみらい線の日本大通駅構内に位置する「ニュースパーク」である。西暦2000年に新聞博物館として開館以来、記者の取材から、新聞発行、配達までの一連の流れを学ぶ場として設けられた。2016年7月に全面リニューアルし、情報社会と新聞記事を全面に押し出した展示に変わる。新聞社の下請けを担う販売店については影が薄くなった。2階・企画展示室、3階・常設展示室になる。

 3階・常設展示室では、リニューアル後、タブレットを使った取材・体験ゲームが、新コンテツとして追加された。ゲーム内容は歴史に基づいて、3つのソフトが用意された。古い順から紹介すると、一つ目は1854年の「横浜開港の秘密を捜査せよ!」、黒船ペリー来航について迫る。2つ目は1866年の「日本大通の秘密を捜査せよ!」、現在の関内の生肉店から広がった大火事がテーマである。灰燼に帰した町の再建を担ったのは、イギリス人外交官アーネスト・サトウだった。防火対策として道路を拡張し、馬車を通りやすくした。長く鎖国状態だった日本に、西洋の発達した建築技術を取り入れた。その代表格はレンガ造りの建物だった。3つ目は1935年を舞台にした「山下公園の秘密を捜査せよ!」1923年の関東大震災まで遡り、瓦礫を集めて、埋め立てていき、公園へ変わるまでの過程を説明している。

 詳細 ゲームについて あそびい横浜 https://asobii.net/120574

 ゲームの方は、1作品ごとに、タブレットを、3つのマークにあてていく。一つのマークごとに、登場人物は3人、ゲーム全体で9人にのぼる。一つのソフトごとに、実在した人物が一人現れる。私が選んだソフト「日本大通の秘密を捜査せよ!」は、アーネスト・サトウが登場した。

それぞれのソフト内の一つのマークごとに、3人のアイコンが浮かび上がり、取材依頼をする。実際の記者が、時に取材を断られるように、ゲーム内でも拒否されることもしばしばだった。人物のアイコンをタッチすると、画面に出てくる2択の質問から一つ選ぶ。

 時間はおよそ6分、核心をついた質問をして、的確な回答が得られると、画面に「ナイス!」と表示される。取材の1回目から「ナイス!」を得るのは難しい。登場する人物のアイコンをつぶさにクリックして、声をかける。実に根気のいる作業だった。取材が終了すると、アイコンに表示された9名から、重要人物3名を選ぶ。中でも最も重要な証言を引き出したとおもわれる人物を一名選ぶ。選択によっては、その後出来上がる新聞の内容も変わる。取材内容が深ければ、完成した新聞の文字数が多くなる。紙面の大きさが一定であることを踏まえると、取材の最中で、証言を引き出せないと、空欄が多くなる。

 ゲームを見守ってくれた係員によって、取材・体験ゲームにおいて作成した新聞が印刷された。かつては字数をしっかり埋めることが出来たものの、今回は空欄が少しだけ生じてしまった。青年は、何度か取材中アイコンの人物から、そっけない態度をとられたことから、「失敗」と感じていた。出来あがった新聞を見て、空白部分がわずかだったことにより、比較的上手くいったと納得するようになった。

 写真=ニュースパークのゲームで作成する新聞 右側 2018年3月25日作成 左側 2023年10月22日(日)作成
フォト

 時間は午後4時30分前、係員と会話をすることにより、新しい世界に触れたような気がした。御礼の言葉を述べると、「またきます」と挨拶して、去っていった。新聞をしっかりと丸めて、輪ゴムでとめると、リュックの中の袋に入れた。

 外に出ると、いつの間にか日差しがなく、防火対策で作られた日本大通は、建物の影に覆われていた。時刻は午後4時40分、日没時間が迫っていた。室内でゲームに熱中していると、あっという間に時がたっていることに気付かされる。夜景撮影に備えて、自転車をこぎ出した。

 舞台は、みなとみらい線で隣にあたる馬車道にほぼ直結した高層ビル「北仲ノット」の地上46階の展望台である。撮影は、2021年11月3日(火・祝)、2022年10月2日(日)以来、3年連続3回目だった。

 詳細 はまこれ横浜 2022年2月7日付け https://hamakore.yokohama/the-tower-yokohama-kitanaka-night-report/

 無料開放された展望台の中では、クオリティーと共に利便性が高い。思い立てば、すぐにエレベーターに乗れて、1階と展望室を往復できる。

 さらに高層階のホテルと分譲マンションの管理事務所をかねるフロントが、展望台に設置されていた。常駐する職員によって、道についても聞くことができる。雲ひとつない空は、茜色に染まっていた。展望室の客たちも、ガラス窓に張り付いたまま、撮影の準備をする。夜景がきれいなトワイライトタイムは午後5時13分から10分または15分あまりである。

 写真=17時19分          写真=17時20分
フォト フォト

 きっと忘れないのCメロのサビへと続く。

 歌詞:「きっと忘れない また冬がきても 想い出抱きしめたいから」

 どんなに離れていても、良かったときの経験があったからこそ、今の自分がいる。

 写真=17時21分
フォト

 トワイライトが終ろうとする頃、今日辿ってきた港の見える丘公園、根岸森林公園を見渡せる東の窓へと移動した。

 写真=17時27分
フォト

 歌詞:「空の彼方へと悲しみ吹き飛ばせ、信じたい信じてる あなたが変わらぬように」

                                   END

 一度結ばれた相手のことを疑ってはいけない。彼自身は、かつての恋人が戻ってくると信じていた。前向きな気持ちでいるからこそ、今日のみなとみらいの観光地めぐりでは、沢山の人に出会い、会話を通して、多くの知見を得ることが出来たのである。地上46階から見下ろす世界は、格別だった。街路灯で使用されるオレンジのナトリウムランプによって、入り組んだ道路がはっきりと見渡せる。信号が赤から青に変わった瞬間、一気に車が動き出した。一眼レフのスローシャッターを切ると、テールランプによって、道路上に赤い線がきざまれる。日没後みなとみらいの町は、車のランプや、街路灯、オフィスの窓からもれる明かりによって、温かい空気に包まれていた。

写真 掲載元 X(旧ツィッター)SO(蘇)2018年2月6日付
https://twitter.com/1021549738/status/960676110521450496
フォト

彼自身、リュックを背負い、エレベーターで地上に降りた。本格的に寒い冬が来る前の12月に、みなとみらいへ来ることを誓い、自転車に乗り、帰り道を走った。数日後、一連の出来事を整理して、彼女宛の手紙に書いた。便箋を封筒の中に入れて、切手を貼り、ポストに投函した。どんなに遠くにいても、心は決して離れない。結末は別の物語へ。
 

7 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2023年10月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031