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2023年06月06日17:03

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6月6日はスウェーデン建国500周年 同国の歴史(6回目)現在の王室ベルナドット朝の始祖 

  <スウェーデンの歴史 19世紀以降>
 
2023年6月6日、スウェーデン王国は、建国500年を迎えた。福祉に手厚く、難民を受け入れ、経済格差を少なくした。2020年の出生率は1,66、欧州内ではフランスの1,83に次ぐ数値を誇った。子育て支援に手厚く、育児休暇は480日間与えられる。うち390日間は、給料の8割が支給される。

 詳細 内閣府 https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/whitepaper/measures/w-2022/r04webhonpen/html/b1_s1-1-2.html

スウェーデン王国は、グスタフ・ヴァーサが戴冠した1523年6月6日を、建国の日と定めている。

1813年の対ナポレオンとの戦い、第六次対仏同盟軍に加わって以降、210年にわたり、外交的中立を保った。戦火に巻き込まれることなく、工業化を促進させながら、福祉国家としての礎を築いた。今回は、19世紀初めに開かれた現在のベルナドッテ王室に焦点を絞る。第1章では、18世紀以前の歴史をまとめた。第2章以降、ベルナドッテ王室の誕生の経緯、ナポレオン戦争から、近隣のデンマーク=ノルウェー、ロシア帝国との関係についても考察する。

目次
・第1章 スウェーデンの創設期 16世紀から18世紀終わりまでを振り返る
・第2章 グスタフ4世、複雑化する対外関係
・第3章 カール13世の戴冠、後継者ベルナドット

過去のスウェーデンに関する日記
・デンマークの視点に立ち、スウェーデンを描く 2021年7月10日
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1979756511&owner_id=32437106

・西暦1700年から1721年に起こった大北方戦争
 2021年9月8日付け 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1980288196&owner_id=32437106
 2021年11月2日付け
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1980755517&owner_id=32437106

・スウェーデン、16世紀から17世紀終わり 2021年12月12日付
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981076404&owner_id=32437106

・スウェーデン18世紀の自由な時代 2022年7月8日付け
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1982734077&owner_id=32437106

 第1章 スウェーデンの創設期 16世紀から18世紀終わりまでを振り返る

 スウェーデンには、1万年前に人が暮らしていた痕跡が残っている。5000年前には農業を行い、青銅器を使用していた。文明の原点は7世紀、スヴェーア諸族から成るシルフィング王朝が創設された。7世紀には、ヨーロッパ大陸での傭兵活動を通して力をつけ、バルト海沿岸での交易や略奪を通して、富を築いた。海洋へ繰り出すバイキング時代の下地となった。

 やがては、ノルウェー、デンマーク、スウェーデンの3国へと収斂される。スウェーデンは、12世紀にエリク12世によって、フィンランドを併合する。

 北欧の3国で最も力をつけたのはデンマークだった。スウェーデン内部が、貴族たちによって権力闘争が繰り広げられる中、デンマークは絶対王政を築いた。1389年にはスウェーデン王アルブレクトがデンマークとの戦いに敗れて、捕虜となり、王位を剥奪された。1397年にはデンマークとノルウェーの摂政であるマルグレーテ1世のもとでカルマル同盟が結成され、スウェーデンの貴族は、一定程度権利を認められながら、従属的な立場に立った。

 転機は130年後に起きた。1520年にクリスチャン2世による、スウェーデン貴族の弾圧事件が起きた。スウェーデンの首都を舞台にしたことから「ストックホルムの血族」という。迫害を免れた貴族らは危機意識を持った。立ち上がったのは、後の初代国王グスタフ・ヴァーサだった。1521年に、国内のダーラナ地方の農民に決起を呼びかけ、国内からデンマーク軍を追放したのである。事実上カルマル同盟を脱し、デンマークの支配から逃れ、王国を再建した。1523年6月6日に、グスタフ・ヴァーサは戴冠した。

 1527年、ヴェステロースで開かれた国会において法律を制定し、ルター派の教義を全面的に認めた。

 写真 掲載元 日本の歴史認識 > 軍国主義崩壊への道 第1部 > 2.3 宗教改革/2.3.1 宗教改革のはじまり https://www.ne.jp/asahi/puff/mdg/g1/G1cp231.html
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デンマークとは、領土を巡る戦争が耐えない中、主権を守り通したのである。18世紀初頭には、ロシアを大国化へ導いたピョートル大帝とカール12世が、バルト海の覇権を巡って、争った。1700年から1721年まで21年にわたった「大北方戦争」において、歴史の転換点を迎える。カール12世は、戦争中の1718年に狙撃されて、35歳の若さで命を落とした。戦争終結に向けた講和条約により、スウェーデンはバルト海沿岸の領土割譲を迫られ、フィンランドのカレリア地域の一部をロシアに割譲した。

50年にわたり、王権が弱くなり、貴族議員が物事を決める「自由な時代」へと移行する。絶対的なリーダー不在の中、弊害が起こった。他国が資金提供を持ちかけることにより、議員の間で分裂が起こり、派閥が出来たのである。ロシア、イギリス、デンマークの支援を受けるメッソナ党、フランスがバックにつくハッタナ党の2台政党の間で、揺れ動いた。国内経済も、対外戦争による債務に苦しみ、悪性インフレを引き起こしていた。ひとたび緊縮財政を敷くと、国力停滞により、デフレに苦しんだ。

議会に不満を持つ国民の声を聞き入れ、立ち上がったのは、国王に指名されたグスタフ三世だった。1771年に象徴的存在だった父アドルフ・フレデリクの後を継ぎ、戴冠する。翌1772年に、近衛兵を引き入れ、議会に乗り込んだ。武力で持って脅しをかけて、議会を停止し、王権を強くしたのである。無欠クーデターは無事に成功し、国王が執政を握ることになった。1792年に46歳で暗殺されるまでの在位20年間において、議会の開催を3度にとどめ、フィンランドののっとりをたくらむロシアをけん制していた。貴族の力を弱くし、焼酎の専売制を導入することにより、平民からも不満を買っていた。暗殺は、起こるべくして起こったと、後世の歴史家はみている。

   第2章 グスタフ4世、複雑化する対外関係

 父の後を継いだグスタフ四世は、複雑化する対外関係により、国の財政とも向き合った。民主化運動阻止を名目に、1804年から第三次対仏同盟に加わり、戦費投入による、歳出が増加した。対仏同盟軍は、既にスウェーデンが援軍を送る前に、1805年のウルムとアウステリッツの戦いにより、敗れていた。ナポレオンが率いるフランス軍とは、直接戦っていない。当時スウェーデン軍は、同年プロイセンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム三世との領土を巡る軋轢により、開戦寸前に陥っていたのである。結果的にヴィルヘルム三世は、アウステリッツの戦いに敗れ、スウェーデンとの開戦を回避した。

スウェーデンとにらみ合う相手は、ロシア帝国だった。アウステリッツの戦いでプロイセンと共に敗退したロシア帝国のアレクサンドル一世は、ティルジットの和約を結び、対仏同盟から離脱する。ナポレオンは、アレクサンドル一世と良好な関係を築き上げるべく、秘密協定を結んでいた。アレクサンドル一世は、祖母に当たるエカチェリーナ2世が獲得を試みていたフィンランドを自国領土に組み込もうとしていたのである。実のところ、1788年から1790年にかけて、フィンランドの領土を巡り、第1次ロシア・スウェーデン戦争が起こっていた。1790年8月8日にヴァララ(現フィンランドの町)の条約によって、互いに賠償金や領土割譲なしの講和を結んだ。

過去を振り返ると、1721年大北方戦争の終結による「ニスタット条約」において、フィンランド西部カレリア地方が、スウェーデン王国からロシア帝国へ移譲していた。
大北方戦争終結後の貴族による自由な時代において、領土奪還に向けて、周到に準備を進める。初めに、1741年から1743年にフィンランドのカレリア地方を巡り、ロシアと戦争を起こした。結果的にスウェーデン軍は破れたとはいえ、領土削減を含め、国家運営において、不利にたっていない。1743年5月7日にオーボ(現フィンランド西部旧都トゥルク)にて、後を継いだエリザヴェータ女帝と和解した。エリザヴェータは、スウェーデン領フィンランドに侵攻した自軍を条件付で撤退すると表明した。代わりに、親類のドイツ系ホルスタイン・ゴットプル公アドルフ・フレドリクをスウェーデン王の後継者に指名することで合意を迫った。領土返還の目的を果たしたスウェーデン議会は了承した。戦争で負けたにも関わらず、大北方戦争で失った西部カレリア地方が戻ってきたのである。1751年にフレドリック一世の死去に伴い、ホルスタイン・ゴットプル家アドルフ・フレドリクが王位の座に就いた。息子が、王権を強化したグスタフ三世だった。


写真=ホルシュタイン・ゴットプル家の家計図 掲載元 まりっぺのお気軽読書 2011年9月8日付 スウェーデン王アドルフ・フレデリク妃 ロヴィーザ
https://blog.goo.ne.jp/marifle1010/35
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 ロシア帝国のアレクサンドル一世は、カレリア地方に問わず、あわよくばフィンランド全域の制覇を狙っていた。ティルジット条約において、ナポレオンにスウェーデンにも大陸封鎖令の参加を強制することを約束した。ナポレオンが敵対するのは、イギリスである。アレクサンドル一世は、スウェーデンに対して、バルト海を封鎖し、イギリスの航路を塞ぐように求めた。対仏同盟軍に残るスウェーデンは、アレクサンドル一世の無理難題な要求を呑めず、拒否した。対仏同盟軍離脱したロシア帝国は、ティルジット条約に基づき、スウェーデンを敵対国とみなし、戦線布告する。バックには、フランス第一帝政、スペイン、ノルウェー=デンマークがついた。スウェーデンをサポートするのはイギリスとポルトガル王国である。

写真=1812年のヨーロッパの地図 掲載元 12月15日 歴史のヒーロー (4) ナポレオン (Napoleon) http://miyata.gotdns.com/Cafe/1215.htm
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交戦国のロシアのアレクサンドル一世と、スウェーデンのグスタフ四世は、共に北ドイツ系のホルシュタイン=ゴットルプ家をルーツに持つ。とはいえ、専制主義のロシアと、より海洋交易で栄えたスウェーデンでは、政治体制に大きな違いが生じ、共に歩み寄れなかったのである。

1808年から1809年まで2年に渡った「第二次ロシア・スウェーデン戦争」は、敗戦国スウェーデンの歴史観を大きく変える。スウェーデン王室の運命を左右した人物が、敵国ロシア側にたって参戦していた。フランス帝国の海軍の指揮官として参戦したジャン=バティスト・ジュール・ベルナドッテである。2023年現在まで200年以上続くスウェーデン王室であるベルナドット朝の創始者だった。

ベルナドットの生い立ちを遡ると、1763年1月26日に、スペインとの国境近くの町ポーで産声を上げた。1780年に17歳でフランス・ブルボン王家の海軍に入隊すると、めきめきと頭角を表し、94年に将軍に任命された。1804年にナポレオンの戴冠に伴い、元帥に抜擢され、1806年にポンテ・コルヴォ(ナポリ王国内の法王領)の大公の位を授かった。出生街道を歩んだとはいえ、自身の兄弟姉妹、または従兄弟を征服国の君主とする独裁的なナポレオンの理解者ではかったのである。ナポレオン自身も、ベルナドットを一目おいていた。二人を繋いだのは、婚姻関係だった。ベルナドットの妻は、スペイン王となったナポレオンの兄ジョセフの妻の妹であるデジレ・クラーリーだった。ナポレオン自身もデジレ・クラーリーを恋していたこともある。親戚や姻戚を国家の重要なポジションに登用するナポレオンは、片思いしていたデジレ・クラーリーとの縁を保とうとしたのである。デジレ・クラーリーの夫であるベルナドットの手腕を見込み、ブルボン王家時代に続き、指揮官の座に据えていた。

第二次ロシア・スウェーデン戦争において、1808年2月、海軍の指揮官としてベルナドットは、フィンランドに上陸した。フィンランドに駐留する1万のスウェーデン軍が戦わずにして降伏したことにより、首都ストックホルム制圧への道が切り開かれた。ロシア軍は8万、対してスウェーデン本土から6万の部隊が、フィンランドへ駆けつけて、応戦する。グスタフ4世は、3万の部隊を編成して、ゴットランド島経由で、フィンランドへ進軍した。フィンランド南西部で会戦したものの、ロシア軍の圧勝により、スウェーデン軍の兵隊は、本国へ引き上げた。

 ロシア軍と大きな戦力差を実感したスウェーデンの軍隊は、危機意識を持った。1809年3月、スウェーデンの陸軍将校の一団が、クーデターを決行し、グスタフ4世に退位を迫った。グリプスホルム城にて王は幽閉され、議会政治が復活する。同年5月に、正式に王国議会によって、グスタフ4世は廃位させられた。議会内に憲法制定委員会を設置し、二週間かけて、新憲法を策定した。王国本議会の最終審議を経て、1809年6月6日に立憲君主制を定めた新憲法(整体書)が施行される。1809年憲法第一条において、「国王が統治し、王位継承法が定める相続順位に従って、王位が継承される世襲王国である」、第85条では、「憲法、国会法、出版の自由法と並んで、王位継承法が国家基本法の一つを構成する」
 
王位継承法については、議員の中でも反対者が多く、成立まで半年を要した。議会で可決されたのは1809年12月18日になる。

1809年5月に、グスタフ4世廃位により、国の統治者は不在だった。暫定的に叔父のカール公爵が、整体書の施行に合わせて、議会によって国王に推戴された。新憲法を遵守することを誓約し、象徴的存在にとどまった。

なおロシアとの第2次戦争においては、1809年9月17日に、フレデリクスハムンの和約により、決着をつけた。スウェーデンは、フィンランド全土とオーランド諸島を割譲したのである。幸いにもスウェーデン本土の被害はなかった。敗戦による国力低下から再起を図るべく、強いリーダーが必要だったのである。

新たに即位したカール13世は、1772年に兄グスタフ3世のクーデターに協力し、第一次ロシア・スウェーデン戦争において、海軍の指揮官として戦功を立てた。国王の座についたとき既に65歳を迎えていた。体力的にも衰え、海軍時代に発揮されたリーダーシップには期待できなかった。あくまでも象徴的存在にとどまり、1772年以前のように議会が国を動かした。

   第3章 カール13世の戴冠、後継者ベルナドット

カール13世戴冠後、後継者選びも急いだ。候補に上がるのは、家柄に伝統があり、健康な若者に限る。スウェーデン国内では、議員同士の軋轢が深まる事態を避けて、候補から外れた。有力候補として名前が上がったのは、デンマークのアウゴステンボー家の公子で、ノルウェー総督を兼ねるクリスチャン・アウゴスト伯爵だった。シュレースヴィヒ・ホルシュタイン公国(現在のドイツ連邦北部)の貴族である。デンマーク王フレデリク6世(在位:1808年から1839年)とは義理の兄弟だった。

1809年7月に、クリスチャン・アウゴスト公爵は、スウェーデン議会から後継者に任命された。1809年9月に可決した王位継承法により、正式にカール13世の養子となり、王太子になる。1810年1月に、晴れて皇太子として即位し、名前をカール・アウグストと改称した。古くから領土問題を抱えるデンマーク=ノルウェーから王位継承者を迎え入れたとはいえ、突然の訃報により、事態は変わった。王太子は1810年5月に、落馬が原因で命を落としたのである。後継者断絶により、スウェーデンは、国の舵取りについて急転換せざるを得なくなった。

王位継承の法案が可決されて半年もたたず、後継者選びを行う。国の安定のためには、外国から迎え入れるのが得策だと議会は引き続き判断した。地方連隊の若き士官であるカール・ムネール男爵が、議会によってフランスの首都パリに派遣され、カール13世の養子候補を選定した。白羽の矢がたったのは、フランス海軍を率いるベルナドットだった。スウェーデン・ロシア戦争において、ロシア側に立って参戦した敵将とはいえ、スウェーデン議会は、強いリーダーシップのある王太子を求めていたのである。戦略家として定評がある彼は、政治的手腕も発揮すると見込まれたのである。1810年8月21日、議会は全会一致で、ベルナドットを正式な王位継承者として任命した。同年9月26日、議会で可決した法案を、国王が了承することにより、王位継承法が認められた。1810年10月20日、スウェーデンに入国したベルナドッテは、ルター派に改宗し、カール・ヨーハーンと名乗った。カール13世の在任期間、摂政として振る舞い、国の未来を左右する判断を迫られる。国際情勢にも変化が訪れていた。1812年に、ティルジットの和約を事実上破棄し、イギリスと交易を続けていたロシアに対して、ナポレオンは討伐軍を派遣した。

 写真=ベルナドッテの肖像画 wikipediaより
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 スウェーデン側は対応に追われていた。ベルナドッテを王太子兼摂政として招き入れた分けは、フランスとの同盟を強化し、ロシアと戦う手順を踏むためだったのである。

 ベルナドッテは、フランス出身とはいえ、同盟の強化には否定的だった。より産業が発達したイギリスと通商することにより、スウェーデンの経済によい影響があると判断した。彼は、対仏同盟軍に加わる選択を選んだ。フィンランド奪還を諦め、大西洋の出口となる西への領土拡大方針を採用した。スウェーデン領ポメラニアとリューゲン島にナポレオン軍が上陸したとの情報が入ると、ベルナドッテはただちに手を打つ。イギリスとロシアと共に第六次対仏同盟軍に加わり、ナポレオン軍と戦う。イギリスに対しては、デンマークとの戦端を開いた際、ノルウェー獲得の了解を得る。同じ同盟軍のプロイセンに対しては、三十年戦争の終結に伴うウェストファリア条約で獲得したポンメルンを譲り渡す代わりに、デンマークとの戦争の際、支援を求めた。他国の協力を取り付け、準備を整える。

 写真=ポンメルンの位置 掲載元 ウォーゲームで歴史に思いを馳せる
http://dsssm.blog.fc2.com/blog-entry-172.html
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一方、ノルウェー獲得を狙うスウェーデンの総督ベルナドッテの戦略を、デンマークのクリスチアン6世は見抜いていた。対仏同盟の参加を拒否し、中立の立場を表明した。積極的に戦争に加わると、当時領土内だったノルウェーからの穀物の輸入が途絶えることを恐れていた。国益を重要視したとはいえ、結果的にベルナドッテから反動行為ととらえられ、ノルウェー獲得を巡る戦争にさらされることになった。

1813年10月16日から19日までプロイセンのライプチヒの戦いにて、対仏同盟軍37万は、ナポレオン軍19万を打ち破り、勝利を収める。追撃したロシア帝国のアレクサンドル一世が、パリの防衛網をほぼ無傷で突破し、ナポレオンに退位を迫る。1814年4月4日、周辺の将軍たちの勧めにより、退位文書に署名し、地中海に浮かぶエルバ島の領主として追放処分を受けた。

 スウェーデンと国土を巡って争うデンマークは、事態が複雑化していた。当初は戦争への関わりを避けて、中立の立場を表明していたのである。スウェーデン軍の侵攻による、国土防衛の観点からナポレオン側に立って参戦する。1813年12月、デンマーク領ホルシュタインからスウェーデン軍が上陸して、ユトランド半島を制圧された。ナポレオン軍敗退により、援軍は期待できなかった。スウェーデンと講和を結んだ。1814年1月14日キール条約により、ノルウェーをデンマークから獲得した。当時のノルウェー領アイスランドやフェロー諸島、グリーンランドは、デンマークが領有する。

 写真 掲載元 海外旅行準備教室 デンマークより http://www.i-wanna-travel.com/r5-denmark00.html
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 ノルウェーは、一方的に領土を失ったうえに、スウェーデンへの併合に対して、国民の反発が強かった。同1814年5月17日にノルウェーは一方的に独立宣言し、クリスチャン・フレデリクが国王に選出された。スウェーデン側は、デンマークとのキール条約に従い、ノルウェー独立運動を阻止する。カール14世ヨハンは、軍を差し向け、ノルウェー軍を屈服させた。国王を名乗ったクリスチャン・フレデリックは、亡命する。新たに8月14日にモス条約により、休戦協定が結ばれた。スウェーデン軍が優位の状況の中、ノルウェー議会と交渉する。さすがにスウェーデンは、ノルウェー統治には、国民との一定程度の和解が必要と感じていた。外交権はスウェーデンが握るものの、高度な自治権を与えることを約束し、1814年にノルウェー独自の憲法を認めたのである。

 ナポレオンが去った後のヨーロッパの行方を決める1814年から15年にわたったウィーン会議において、ノルウェーのスウェーデン領有が認められた。失ったフィンランドは、ロシアとの同君連合国として歩むことになる。「会議は踊れどされど進まず」の言葉で揶揄されたとおり、大国の利害関係から、会議は長引いていた。

 ウィーン会議中に、ナポレオンがエルバ島脱出の報を受けて、各国対応に追われた。1815年2月にパリの住民から盛大な拍手で迎えられたナポレオンは、再起を喫して立ち上がる。

 フランス皇帝に復帰したナポレオンとの再度の戦いに向けて、第7次対仏同盟軍が結成される。ノルウェー領獲得に成功したスウェーデンは、中立の立場を保つ。

 最終決戦は6月18日のワーテルローで行われた。フランス軍7万2000、対してイギリス・オランダ連合艦隊6万8000である。数で勝るフランス軍がやや優勢に戦況を進めていた。プロイセン軍が、イギリス・オランダ連合軍に助け舟を出したことにより、一気に戦況が変わった。フランス軍は、太刀打ちできずに潰走した。追撃を試みるプロイセン軍の圧力によって、ナポレオンは6月22日に退位を表明し、アフリカ西方沖合いに浮かぶセントヘレナ島へ流刑になった。ナポレオンの百日天下は終った。

 

 スウェーデンは、1818年に68歳でカール13世が死去すると、同年2月5日にベルナドッテが国王として戴冠した。フランス軍時代、ヨーロッパを一つにしようとするナポレオンの野心から、海を渡り歩いたベルナドッテは、国王の座につくと、経済発展に寄与した。イギリスとロシアの間に入り、仲介役を果たすことにより、軍事的な争いを避ける。財政面では、厳しく管理し、インフラ振興に役立てる。バルト海から内陸への都市との物流を確保するべく、イエータ運河を建設した。

 写真=イエータ運河を通航する船 掲載元 Trips 2017年9月22日 https://trip-s.world/bergs-slussar
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農業立国としても基盤を築く。1811年に農業学校を設立し、スウェーデンの風土にあった農作物の種子や家畜の品種の研究を促進した。組合を導入し、一括して農機具を管理することにより、使い分けが出来るようになった。1820年代にはすでにスウェーデンは農作物の輸出国に転じた。1844年にカール・ヨハンが死去するまで100万人以上も国民人口が上昇し続けたにもかかわらず、食料を確保できていた。24年に渡り、農耕地は40%、農業生産量は53%以上増加している。

 金融面においても制度改革を行った。1820年にイギリスの例にならって最初の貯蓄銀行がヨーテボリに設立される。1830年に最初の商業銀行がスコーネに、最初の私立銀行がイースタッドに建立した。主要都市に商業銀行が置かれることにより、経済の向上を図った。ベルナドッテによって、スウェーデンは中立外交政策が築かれ、社会の安定をもたらしたのである。1844年3月8日15時30分に、81歳で息を引き取った。

 建国500年を迎えた現スウェーデン王国も、ベルナドッテ朝が継承されている。国王は象徴的存在にとどまり、議会が舵取りを担う。

 安定した財源の元、難民を福祉の担い手として登用し、格差のない平等な社会を築き上げた。北欧の福祉モデルは、少子高齢化が進む日本の手本にもなる。21世紀の新時代、NATO加盟を模索しながら、外交を続けている。
 
 参考文献:スウェーデンを知るための60章 明石書店
      物語北欧の歴史 武田龍夫    中央新書
スウェーデンの歴史 ウィキペディア


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