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2023年12月10日07:46

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文豪、社長になる[読書日記964]

題名:文豪、社長になる
著者:門井 慶喜(かどい・よしのぶ)
出版:文藝春秋
価格:1800円+税(2023年3月 第1刷)
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マイミクさんが薦めていた小説を読みました。
文藝春秋を創刊した菊池寛を主人公にしたフィクションです。
帯には“文藝春秋 創立100周年記念作品”と銘打たれています。自社の100周年を小説仕立てにするとは、さすが文藝春秋ですね。

帯の惹句を引用します。
“1923年
 大ベストセラー作家・菊池寛の手によって文春は産声をあげた
 100年企業の土台は、人望。
 仕事が、仲間が、人生が愛おしくなる
 2023年最高の感動歴史長篇”

表紙裏には主人公の菊池寛の略歴が載っていました。
“菊池 寛(きくち・かん)略歴
 明治二十一年(一八八八)、香川県高松市に生まれる。本名は菊池寛(ひろし)。
 京都大学英文科を卒業後、時事新報社社会部記者に。この頃、「父帰る」「無名作家の日記」「恩讐の彼方に」など、後に名作とされる作品を次々と発表。
 大正九年(一九二〇)、新聞小説に連載を開始した『真珠夫人』が大ベストセラーとなり、一躍流行作家に。
 同十二年(一九二三)に雑誌「文藝春秋」を創刊。その後も文藝春秋社社長の傍ら、旺盛な執筆活動を続ける。
 昭和十年(一九三五)、早逝した親友・芥川龍之介、直木三十五を悼み、二人の名を冠した文学賞を創設。日本文学の振興に大きく寄与した。
 同二十二年(一九四七)、戦時中の軍部への協力により公職を追放。翌二十三年(一九四八)、狭心症により五十九歳で急死。”

目次は次の通りです。
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 寛(ひろし)と寛(かん)
 貧乏神
 会社のカネ
 ペン部隊
 文藝春秋

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印象に残った文章を引用します。

【寛(ひろし)と寛(かん)】から、菊池寛が雑誌創刊を思いついた時の話。
“数日後、寛はふいにその着想を得た。
 (なんだ)
 得てみれば、かんたんなことだった。要するに寛みずからが雑誌をつくればいいのだ。(略)
 そう、かつて漱石は芥川へ手紙を書いて「鼻」を激賞した。その芥川は寛を大毎へ入れてくれた。それらをいずれも漁師の一本釣りとするならば、寛はいわば網漁(あみりょう)で行くのである。ごっそり捕らえて船に上げる。その魚がうまいかまずいかは寛が決める必要はない。文壇諸氏や雑誌社や新聞社が決めればいいのである。”(57p)
 ⇒ちなみに「大毎」とは「大阪毎日新聞」のこと。大阪毎日新聞に連載した『真珠夫人』がベストセラーになって、菊池寛は文豪になったそうです。

【貧乏神】から、大正十一年(1922年)頃に雑誌がおおいに売れた社会的な背景。
“すなわち、識字人口が激増した。それまで字を読めなかった、あるいは読めても何の益にもならなかった工場労働者や、商店の小僧や、家庭の主婦がこぞって教養や娯楽のために読むようになったし、また社会のほうもそれをもう無為や怠惰とは見なさなくなった。活字が市民権を得たのである。
 この傾向をいっそう推し進めたのは、石油ランプや電灯の普及だった。日が暮れてめしを食い、風呂に入ってもまだ一日は終わりではない。家や寮にはあかりがある。それをたよりに雑誌が読める。
 夜の時間が、史上はじめて余暇というものに変わったのである。そうしてラジオや蓄音機といったような音声機器はまだ普及していなかったから、その余暇は雑誌がほぼ独占した。”(88p)
 ⇒大正時代の世相は初めて知りました。

【貧乏神】から、芥川賞・直木賞を創設した時の話。
“翌年(1935年)、寛は「文藝春秋」誌上で、ふたつの文学賞の新設を発表した。芥川龍之介賞と直木三十五賞である。
 それらを、誰にあたえるべきか。寛は当初、
 (老大家に)
 そのことも考えた。そのほうが賞そのものは重みを以て世間にむかえられるだろう。
 だが、結局、逆にした。芥川賞は一般文芸、直木賞は大衆文芸、それぞれの分野で最も優秀なものを書いた「無名もしくは新進作家」にあたえることとする。”(139p)
 ⇒芥川龍之介が純文学を特異としたので、芥川賞は一般文芸。直木三十五が大衆文芸作家だったので、大衆文芸としたそうです。

【会社のカネ】から、菊池寛が小説のアイデア出しに助手を使った話。
“一般的に小説の制作というのは、どんな作家でも、大ざっぱに言って、
  一、アイデア出し
  二、下書き
  三、推敲
 の手順を取るものだが、寛の場合には、特に「一」に時間がかかった。なぜなら寛の書くのはいわゆる純文学ではない。大衆の心をつかむ娯楽小説である。
 そのため絶対に必要なものがおもしろいストーリーであることはわかりきっているけれども、これを考えるのが案外むつかしいのだ。(略)
 となれば、ここを助手にやらせる手があるだろう。つまりはあらすじの採集である。具体的には日本橋の丸善で海外の小説をまとめて買って来させて、読ませて、要約を書いて提出させる。寛はその要約に目を通して、それで現代日本の話をこしらえるわけだ。「二」と「三」の過程を経るうちに寛がいろいろ手を加えるので、最後は寛のオリジナルになる。”(159p)
 ⇒この海外の小説の翻訳は、自宅近くの日本女子大学校の学生に頼んでいたそうです。

【会社のカネ】から、丸の内の大阪ビルに引っ越した文藝春秋、社長室の話。
“そのくせその部屋の家具の置きかたは「じっくり仕事」向きではなかった。寛のデスクはすみっこに置かれ、まんなかには別のテーブルがあって、将棋盤が鎮座していたのである。
 盤も、駒も、高級品である。社員が勝手に来てパチパチやる。作家も来て「王手」と叫ぶ。そのたびに寛は椅子の向きを変えて、
 「何だ、そんなとこへ金を打つやつがあるか」などと言い出すのだった。”(180p)
 ⇒菊池寛は社員から慕われていたそうですが、その理由がわかりますね。

締めくくりに、【ペン部隊】から、日本軍に占領された中国・南京に行った評論家:小林秀雄が、帰国後に菊池寛たちと雑談した時の話。
“むろん、この程度(ことばの上のレジスタンス)でも、もはや人前では言うことはできない。そういう世間の空気なのだ。
 ここにいるのは佐佐木も池島もまずおなじ真に自由を愛する徒なので、その点、小林も気が楽というか、地下活動家が同志のアジトに来たような安心感があるのではないか。それにしてもこういう人間の傾向は、どうしたものか、年齢は関係ないようだった。寛は五十一、佐佐木は四十五、小林は三十七、池島は三十。生まれ育った環境などもあるのだろうが、畢竟、
 (ものを考えるやつと、考えんやつの差さ)
 寛は、そんなふうに思ったりする。”(252p)
菊池寛は、戦時中も途中までは内心は戦争に反対していたと著者は捉えています。しかしながら、途中から文藝春秋は軍部に協力して大衆を煽動する記事を載せていたそうです。それが菊池寛の本心だったのか、それとも雑誌を売るためだったのか。筆者は後者の立場をとっています。

巻末には“この物語は、史実に基づくフィクションです”と断り書きが入っています。
実際に、本書のとおりの心の動きがあったのか分かりませんが、暖かい読後感が残った小説でした。

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門井 慶喜(かどい・よしのぶ)
1971年群馬県生まれ。同志社大学文学部卒業。
2003年、オール讀物推理小説新人賞を『キッドナッパーズ』で受賞しデビュー。16年に『マガジン・ヒストリー・ツアー ミステリと美術で読む近代』で日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、同年咲くやこの春賞(文芸その他部門)を受賞。18年に『銀河鉄道の父』で直木賞受賞。
著書に『家康、江戸を建てる』『ゆけ、おりょう』『東京、はじまる』『地中の星』『信長、鉄砲で君臨する』『江戸一新』など多数。
その他、ルポ『ぼくらの近代建築デラックス!』(万城目学氏との共著)、エッセイ集に『にっぽんの履歴書』、新書『東京の謎 この街をつくった先駆者たち』など幅広く活躍する。
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