キルギスのアクタン・アリム・クバト監督・主演映画。以前に同じ監督がやはり主演俳優を務めた「馬を放つ」という映画を見たことがあった(2018年)。今回も、チラシの写真を見て、あの時の監督だとすぐにわかり、見に行った。
1991年までソ連邦の一部だったキルギス。ソ連崩壊とともに独立したが、ロシアに出稼ぎに行く人は今も多い。ロシアに出稼ぎに行ったきり、行方知れずになっていたザールクが23年振りに息子のクバトに連れられて村に戻ってきた。出稼ぎ先で事故に遭い、言葉も記憶も失って。クバトはすでに結婚しており、二人の子がいる。上の娘のスルガは突然現れたおじいちゃんに恐る恐る近づく。下の子のザールクはまだ赤ちゃんだが、祖父の名に因んで名付けられた。
ザールクは近所の人々が懐かしがって挨拶に訪れても表情を変えるでもない。ただ、ここが自分の家だということは認識しているようだ。そして、道端の空き瓶やプラスチックゴミなどをせっせと拾い集め始める。仕方なくクバトはそれをトラックに乗せて村はずれのゴミ捨て場に運ぶ。しかしそのゴミ捨て場はただゴミが放置されるだけで、何の処理もされないのだ。
ザールクの妻、ウムスナイは、村の有力者ジャイチに乞われて再婚し、家を出ていた。ジャイチは、借金のかたに村人の経営する養魚場を取り上げるような無慈悲な男で、村人からは嫌われていた。ジャイチの母は、ザールクが戻ったとの噂を聞き、ウムスナイを家に閉じ込める。ザールクの友人達がジャイチの留守中にウムスナイのいる家を訪ね、ザールクと会わせようとすると、ジャイチの母は、犬をけしかけて彼らを追い払うのだった。
村のモスクのイマーム(導師)は、各戸を回って礼拝を促す。礼拝の会では「アッラーの神を信仰すれば、神はどんな罪でも許してくださる。ただし、他の神を信じてはいけない。アッラーの神だけを信じれば許しを得て天国への道が開かれる」と説く。その最中にジャイチが訪れ、外に出ていくが、二人の間で交わされるのは生臭い金の話だった。
おそらくザールクの火の不始末から、クバトの家が火事になる。隣人による消火も間に合わず、ザールクが居室にしていた部分は全焼してしまう。クバトとザールクが焼け跡のゴミをゴミ捨て場に運んでいる間、ひっそりと家を出て来ていたウムスナイがクバトの家にやってきて、クバトの妻や娘のスルガに会う。なんとしてもジャイチと別れたいと思うウムスナイ。
ウムスナイはモスクのイマームを訪れるが、イマームは「離婚するには夫が3回ターリクと唱えなければならない。ジャイチは離婚する気はないから無理だ」という。しかし、そのモスクの外で、村の長老に「たしかにアッラーは男に離婚の権利を与えた。でも、女にも、女の側から離婚を請求する「クル」という権利をあたえられたのだよ」と知恵を授けられる。
焼け跡を片付けたクバトの家の広間に村人が集まっている。ザールクの帰還を祝う宴だが、肝腎のザールクはいない。中央にはたくさんの食べ物の山が築かれ、紅茶がふる舞われている。しかし、そこにウムスナイが現れ、驚いている人々の前でその車座に連なり、古い歌を歌い始める。
そのころ、ザールクは村の木立の中にいた。梢では葉が風に揺れ、陽を受けてきらきらと輝く。その幹に黙々と白いペンキを塗っていた。そこに、どこからか懐かしい歌声が流れてくる。それまで表情を変えることもなかったザールクが、何かを思い出したかのように手を止める。
遊牧民の末裔と言われるキルギスの人々。遠方からの客人はもちろん、ちょっと立ち寄った隣人にも紅茶とパンを勧めるのがもてなしの基本だ。
最後のお祝いの席でも、車座に座った人々の中央には山ほどパンの類が並べられていた。カザフスタンでも、正式な宴会やもてなしの食事には肉が欠かせないが、突然の来客には焼きたての熱いパンにバターを添えるのが最上のご馳走であったというのを読んだことがある。そのためか、この映画でも、来客にお茶とパンを勧めるシーンがある。またお茶とパンをを勧められても、すぐに帰るからお茶はいい、でもパンだけ頂くわ、というシーンもあった。
お茶とパンと言っても、たいていは、それに添えるものとしてバターや生クリーム、蜂蜜、果物類などが並べられる。また紅茶の場面で必ず出てくるのがロシアの湯沸かしサモワールだ。
ここに載せた写真はクバトの家の外なのだが、ここにもサモワールが写っている。その横にある洗面台も中央アジアではおなじみのもの。水道とは繋がっていないので、後ろ側に水のタンクがあって、蛇口と繋がっている。この洗面台は蛇口もとりはずされてしまっているようだけど。
これが農家の家で、有力者の家の台所には、ピカピカの冷蔵庫など都会並みの最新式の電化製品が並んでいるといった具合だった。
この数年、中央アジア今昔映画祭や、タジキスタンの監督フドイナザーロフ特集で中央アジアの映画を見る機会がよくあったが、そのうちの多くのセリフがロシア語だったのに対し、この監督の映画はすべてキルギス語だ。
スルガがお祖父ちゃんのゴミ拾いについていってしまい、姿が見えなくなったとき、母親が近所を探し回るシーンがある。「うちの子、こっちに来てない?」「うちの子、見かけなかった?」という質問に村人は「ジョック」と短く答える。日本語字幕ではそれぞれ「来てない」「見なかった」というオウム返しの答として訳されていたけど、要するに、否定の返事だ。カザフ語でも「No」という言葉はジョックなので、同じだ、と思った。
この映画は、浦島太郎のように23年後の故郷に戻ってきたザールクが、黙々と行う作業によって村の変容(教条的なイスラム教の台頭)や失われたもの(格差の少ない相互扶助の暮らし)、増えたもの(ゴミ問題)などが浮き彫りになる。
はじめはあまり関連がないように思えたが、この映画の中のゴミを拾うザールクと、前作「馬を放つ」で、牧場に飼われている馬を草原に放つケンタウロスの行為には現代社会への批判が込められていると解せるようだ。
「馬を放つ」の時は今はなき岩波ホールで公開されたので立派なパンフがあり、私を持っているが、今回はどうやらパンフは作られていないようだった。公式サイトの情報も僅かしかなく(キャストの紹介も3人のみ)、ネットを検索して昨年の東京国際映画祭で上映されたときの監督のインタビューを見つけて読み漁るしかなかった。
これも不況のせいなのだろうか。映画パンフが作られない例が増えているように思う。見た映画のパンフをすべて買うほどではないが、この映画はパンフがあれば欲しかったので、とても残念だ。
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