編集委員 大林 尚
霞が関エックス線
2023年10月25日 5:00 [会員限定記事]
菊地ロイヤルHD会長�蕕浪撞戮澳�間を使って「年収の壁」対応策の矛盾を突いた（10月3日）
3年前、新型コロナ対応・民間臨時調査会（コロナ民間臨調）が出版した「調査・検証報告書」には、まことに示唆に富むフレーズが残されている。「泥縄だったけど、結果オーライ」。感染第1波が収束期をむかえた2020年夏、当時の安倍晋三首相を支える首相官邸幹部の口をついて出た言葉だ。
この報告書は、政策シンクタンク「アジア・パシフィック・イニシアティブ」が立ち上げたコロナ民間臨調が政権幹部をはじめ、各府省庁や地方自治体の責任者、また医療関係者などへの聞き取りを重ね、まとめたものだ。
コロナ1年目の日本は感染者数、コロナ罹患（りかん）を原因とする死亡者数とも主要7カ国のなかで突出して少なかった。だが、それは必ずしも政府・自治体の対策や医療界の対応が的確だったためとは言い切れない。そのあやを表したのが、官邸幹部の言葉だった。
それ以降、首相は菅義偉氏を経て岸田文雄氏に代わった。今、名実ともにアフターコロナの時代に入ったが、泥縄式の政策対応に大きな変化はみられないのでは、と思えるときがある。目下取り沙汰されている所得税の定額減税案はその典型だ。
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首相の諮問機関である政府税制調査会が6月の中期答申で、会社員の通勤費を課税対象候補の一つとして例示したのをきっかけに、ソーシャルメディアのインフルエンサーが首相を「増税眼鏡」などと揶揄（やゆ）した。この汚名をすすごうと、首相自身が減税実現を強くめざしているとの見方がある。
「泥縄だけど結果オーライ」で世に知られることになったコロナ民間臨調の調査・検証報告書
もう一つ、コロナの収束とともに顕著になったサービス業の人手不足対策として、厚生労働省がはじめた「年収の壁」問題への対応策も泥縄式だ。
9月13日、内閣改造を終えて記者会見に臨んだ首相はこう述べている。「若い世代の所得向上のため、年収の壁を打ち壊す。支援強化策を早急にまとめ、10月から早速、実行する」。これを受けて厚労省がまとめた「年収の壁・支援強化パッケージ」は、あらまし次のようなものだ。
まず、従業員数101人以上の企業で働くパート主婦らは、月収が8万8000円以上（年収106万円以上）などの要件に該当すると会社員の夫の扶養対象から外れ、厚生年金と健康保険の保険料を合わせて年間およそ15万円を払うようになる。これに伴う手取りの目減り分を補おうと、パート主婦が負担すべき保険料を、雇い主への補助金を通じて雇用保険特別会計を流用して補塡する。
また、従業員数100人以下の企業で働いている場合は、パート主婦の収入が年間130万円を超えても、それが一時的とみなせるなら、2年間の期間限定で夫の扶養対象のままでいられるようにし、本来ならパート主婦が払うべき国民年金の保険料負担を免れられるようにする。
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支援強化パッケージを読んで、その内容や意図するところがすっと頭に入ってくるサービス業経営者はそんなに多くないのではないか。まして年収の壁に対する理解不足が指摘されるパート従業員にとって、かなり難解な代物だろう。その事実こそが泥縄色の強さを物語る。
年金や健康保険はその土台が形づくられたのは1960年代だ。以来、経済成長の鈍化、長寿化の進展、少子化の加速――など制度の持続性をおびやかす構造変化に遅れまいと、政府・与党はパッチワーク的な内容を含む制度変更を続けてきた。それもあって、ただでさえ制度の複雑さが増しているのに、さらに泥縄で難解な対応策を繰り出している。
年金や健康保険は制度が複雑で当然だという、ともすれば陥りがちな観念に対し、真っ向から疑問を突きつけたのは経済同友会である。
7月31日、新浪剛史代表幹事の発案で「年収の壁タスクフォース」を新設し、ロイヤルホールディングスの菊地唯夫会長を座長に就けた。タスクフォースは夏休みシーズンの短い期間を使って濃密な議論を精力的に交わした。
10月3日には政府の支援強化パッケージに関し「緊急避難策を講じることは時宜を得ているが、あくまで弥縫（びほう）策にすぎず、『年収の壁』問題の実態と複雑な背景を鑑みれば実効性が十分に発揮されるかは不透明だ」と喝破する意見書を公表した。
意見書は「106万円の壁」への対応策が厚生年金の適用を促しているのに「130万円の壁」への対応策は適用を猶予しようする矛盾を突いている。「同じタイミングで逆方向のメッセージを発しているため、中長期的にどちらに向かう心構えが必要なのか、働く個人にとっても企業にとってもわかりにくい」
社会保障審議会での議論には、ただでさえ複雑な年金制度をより複雑怪奇にするような内容も含まれている（5月）
厚労相の諮問機関である社会保障審議会・年金部会で、厚生年金の保険料を企業側だけに負担させる奇策が取り沙汰されていることにも、菊地氏は「賛成できない。給付と拠出があり、負担は労使で折半するという社会保険の原則から逸脱している。採るべき選択肢ではない」と、意見書を説明した記者会見で明快に退けた。
「ロイヤルホスト」「天丼てんや」などの外食サービスを広く展開する菊地氏は、パート・アルバイト従業員が「年収の壁」を意識して労働時間を減らす傾向が、人手不足対策としての時給の引き上げ効果を減殺する矛盾に、かねて悩んでいた。
タスクフォースでこの問題に取り組み、志高い識者と議論するなかで制度の複雑さに改めて戸惑いを隠せなかった。記者会見では、その実体験をもとに「年金制度を複雑化して対応するのではなく、シンプルな制度で多様性を包摂するのが必要だ」と、年金官僚にクギを刺していた。
意見書は「長期的には、報酬比例年金と税財源による最低保障の基礎年金の組み合わせによる2階建ての制度をめざすことが考えられる」と結んでいる。この実現には、消費税の増税というとてつもなく高いハードルを乗り越えなければならないが、ほこりをかぶっていた本物の年金改革を提起した意義は大きい。
近年、経済界には政府・与党の方針に歩調を合わせようとする空気が漂っていた。今回の意見書は、泥縄式から脱することができない政権に対する経済界の警鐘といえる。政治権力に物おじしない同友会らしさ復活の片鱗（へんりん）をみた思いがした。
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