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2023年10月12日11:53

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これは傑作だ。『彼女のいない部屋』マチュー・アマルリック

これは恐ろしくわかりづらい映画ながら、恐ろしく美しくせつない映画でもある。失われた家族の幸福、その欠落感、喪失感を描いた映画にどうやら私は弱いようだ。ヴィム・ヴェンダースとサム・シェパードによる傑作『パリ、テキサス』、最近のものでは、父と娘のかけがえのない時間を振り返った映画『aftersun アフターサン』があった。『パリ・テキサス』では幸福な家族の記憶を示すものとして画像の粒子が荒い8ミリ映像が使われ、『アフターサン』では、幸福な親子の時間そのものが、現在から娘時代のあの頃を振り返る形で描かれていた。「失われたかけがえのない時間の美しさ」がそこにあり、その喪失感を抱えたやりきれない現実がある。それでも人は生きていかなければならない。そんな映画に惹かれる。それがこの映画では、失われた現在の哀しみや苦しみがあり、その辛い現実から逃れるために、「想像の家族の未来」がリアルな映像として描かれているのだ。

観客は最初から混乱に陥る。これはどういう時系列の映画なのか?どういう物語なのか?混乱しながら早朝に家を抜け出した一人の女性クラリスを演じるヴィッキー・クリープスの車の旅を見守る。そして家に残された夫と娘と息子の3人家族の生活のその後を見続けることになる。過去と現在と未来が音で連なり重なりながら、自在に前後し、編集で繋ぎ合わされている。現実で起きていることなのか?死んでしまった幽霊なのか?想像なのか?最初はまるで分らない。分かるのは、かつて幸せだった家族があって、その幸せが何かのキッカケで壊れてしまったことだ。

冒頭に出てくる幸福な家族の何枚ものポラロイド写真。それをトランプの神経衰弱のように重ね合わせながら、「もう1回、やり直し。やり直し。」とヒステリックに叫び続けるクラリス。彼女は一体何をやり直そうというのか?あるいは、壁に飾られている写真のような写実的な絵画、3人がアイスを食べている絵。その思い出の絵を娘がある時、手でなぞる場面がある。現実と虚構(写実的な絵画)。その重なり。

この映画をややこしくしているのは、ヴィッキー・クリープス演じるクラリスがボーっと幽霊のように移ろいながら車を運転し、家の周りを時間を止めたように彷徨っているのに比べて、家の中で子供たちが成長していくことだ。時間が動いていることを一番理解しやすいのが、子供たちの変化である。だから観客は、家族の3人の成長が現実の物語であり、クラリスという女性が幽霊なのかと思う。早朝に家出をし、残された家族がクラリスの不在を哀しみ、いなくなった理由を問い、息子のポールは、母の香水を捨てた父が「母を壊したんだ」と嘆き、宇宙服のような服のまま、泡だらけのバスタブに飛び込む。家に亡霊として戻ってきたクラリスは、学校に行って娘のピアノの上達、その成長の姿を見守る。窓の外から見つめるクラリスの視線。そんな風な物語かと思えてくる。

しかし映画の中盤、どうやら家族の3人が雪山で雪崩に遭い、事故死したらしいことがわかる。そして春になって雪が解けるまで、遺体は発見されないことがクラリスに知らされる。つまり、クラリスは最初から家族を失った亡霊のような哀しみを抱えた生者だったのだ。生きる意味を見失い、時間が止まったかのように車を運転して、彷徨い続ける存在。海や事故のあった山荘や家の周りを車で移動しながら、自分が家出をして不在になり、家に残された夫と2人の子供たちが彼女がいないままで成長し続ける姿を想像し続けていたのだ。それが一人っきりの彼女の姿と、家族3人の家での様子が同じトーンの映像のまま、ランダムに繋ぎ合わされている。だから観客は混乱する。現実に起きていると思われていた変化が反転し、クラリスの想像の物語だったことに、なかなか気づけない。あり得たかもしれない家族のもう一つの未来。

私はこの映画を2回見た。最初は混乱したままに。2回目は時系列を理解したうえで。そうすると、雪山の映像や捜索するヘリコプターの音が最初から頻繁に出てきて、クラリスは事故のあった後の悲しみを抱えたまま、彷徨っているんだということがよくわかった。春を待つことも辛くてしょうがない。ドイツで観光案内の仕事をしながら、子供を叱る父親を怒鳴りつけてしまったり、バーで隣の見知らぬ客に抱きついて泣いてしまったり、市場の魚売り場で氷に顔を埋めて泣き崩れたり・・・。クラリスは、自分が生きていることに耐えられない。家族がいなくなってしまった現実を受け止めきれない。

だからクラリスは車を運転しながら家族を想像する。自分がいなくなったあとの家族の姿を。あるいは家ではない別の場所から、夫のマルクに話しかけ、マルクと言葉のやり取りをする。家族の姿と彼女の思いがシンクロしていることがせつない。映画で何度も使われている「チェリー」という歌。 「チェリー、君を愛したい。チェリー、君も愛してくれる?」。自分のことを忘れてしまわないようにマルクに愛を呼びかけたり、子供たちをやさしく見守っている彼女の声。触れたいのに触れられない彼女の哀しみ。

さらにピアノの音。冒頭のクラリスが薄暗がりの家を出るときにピアノの鍵盤の上に鍵が落ちる。そのピアノの音から、彼女が不在の朝食時の家族の様子が始まる。キッカケはピアノの音であり、ピアノの音がクラリスの思いと想像の家族を繋いでいくのだ。たどたどしく「エリーゼのために」を弾いていた娘のリシューは、クラリスの希望通りどんどんピアノが上達していく。パリの音楽院に先生の推薦で受けられるほどに。グランドピアノを買ってもらって、リシュ―が鍵盤を叩きつけるように弾く演奏の場面は圧倒的だ。クラリスの不在を怒っているかのような強い思いが感じられる演奏。それは、クラリスの家族の理不尽な事故死の哀しみをリシューが代わってぶつけるようなシーンでもある。

父に木の上の部屋を作ってもらったポールは、壁に書かれた姉弟の身長の記録を黄色いペンキで塗りつぶす。母と娘の交換日記のような黄色いノートも燃やしてしまう。姉と弟のやり場のない感情のぶつかり合い。彼女の想像上の家族の物語は、次第に破綻をきたしていく。パリ音楽院の試験に向かうリシューが乗っている電車の車窓風景に、マルクが働いていた工場の中のような映像が挿入される。そしてリシュ―を追いかけて受験会場に現れたクラリスは、別の女の子を追いかけまわして受験の邪魔をしてしまう。クラリスの想像がだんだんと混乱し、現実に介入してしまう。

春になって、山の遭難事故のあった山荘を再び訪れるクラリス。不在の家族の大部屋に泊まり、不在の家族のコーヒー2つとココア2つをテーブルに並べ、悲しみを抱え込む。そんな閉じ込めていた感情が遺体と対面することでし、泣き叫ぶことができる。最後は冒頭と同じようにポラロイド写真で神経衰弱をやりながら、クラリスは「引っ越す」決意をする。部屋の中にいる幽霊となったマルクの視線のように、室内の窓越しにカメラは、車に乗って家を出て行くクラリスを映し出す。そして運転するクラリスの横顔で映画は終わる。家は家族そのものの過去の想い出であり、その家にいる限り彼女の時間は止まったままだ。最後にやっと、クラリスは家を出て、過去から抜け出すための車に乗ったのだろう。

過去の哀しみとどう向き合うのか、やり場のない理不尽な出来事を乗り越えるためのグリーフワークの方法はそれぞれだろう。時間と編集を巧みに使いながら、かけがえのない家族の時間、
ありえたかもしれないもう一つの現実を想像の世界というやり方で描いていて、音と映像を重ね合わせながら、それが見事に映画としての密度になっていた。


2021年製作/97分/G/フランス
原題:Serre moi fort
配給:ムヴィオラ

監督:マチュー・アマルリック
製作:レティシア・ゴンザレス、ヤエル・フォギエル、フェリックス・フォン・ベーム
脚本:マチュー・アマルリック
撮影:クリストフ・ボーカルヌ
美術:ロラン・ボード
編集:フランソワ・ジェディジエ
キャスト:ビッキー・クリープス、アリエ・ワルトアルテ、アンヌ=ソフィ・ボーエン=シャテ、サシャ・アルディリ、ジュリエット・バンブニスト





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