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2023年07月22日08:10

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人工知能はなぜ椅子に座れないのか[読書日記944]

題名:人工知能はなぜ椅子に座れないのか 情報化社会における「知」と「生命」
著者:松田 雄馬(まつだ・ゆうま)
出版:新潮選書
価格:1400円+税(2018年8月 第1刷)
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6月に読んだ『絶対悲観主義』で紹介されていた本を読みました。
『絶対悲観主義』の読書日記:
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985346505&owner_id=1795980
著者は次のように自己紹介しています。
“筆者は数学を用いて生物を理解しようとする「数理生物学」という分野を専門に研究を行なっています。そして、その一環として、人間や生物の知能を人工的に実現しようとする「人口知能」の理解に力を入れてきました。”(10p)
 ⇒この文章を読むと、生き物を数字に置き換えることができると信じている"人工知能万能派"の人物かと思ったのですが、読み進めると違うことが分かりました。

裏表紙の言葉を引用します。
“シンギュラリティの到来に一喜一憂しても、「人工知能の時代」は確実に
 やってくる。だからこそ持つべき視点がある。コンピュータがいかに「見
 て」「動いて」「考える」かを、錯視やロボットの例を用いて徹底解明。
 そして「生命」を深く考えてこそ分かる「椅子に座る」ことの本当の意味。
 注目の新鋭研究者が迫る「知能」の正体!”

目次は次の通りです。
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 序 章 人工知能を通して感じる生命への疑問
 第一章 人工生命、そして、人工社会とは何か
 第二章 人工知能の研究はどのようにして始まったのか
 第三章 脳はどのようにして世界を知覚するのか
 第四章 意識にみる人工知能の限界と可能性
 第五章 シンギュラリティの喧噪を超えて
 終 章 情報化社会における「知」と「生命」
 あとがき

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印象に残った文章を5つ引用します。

1.
【第一章 人工生命、そして、人工社会とは何か】から、アリに見る“群れとしての知能”の話。
“1990年代に入ると、知能を持つコンピュータの実現を目指す研究は、一つの転機を迎えます。「下等生物」と呼ばれていた生物種の動きの中に、人間と同等の、或いはそれ以上の「知能」が次々に発見されたのです。1992年、イタリアのコンピュータ科学者であるマルコ・ドリゴが発見した働きアリの社会システムは、その代表例と言えます。働きアリというものは、その一匹一匹自体は、高度な知能を持っていないかもしれません。しかしながら、彼らは群れとして協力的に行動することで、餌を効率的に探索し、いち早く最短経路を見つけ出すことができます。”(30p)
 ⇒この文章のあと、シロアリの例にも言及しており、曰く“シロアリは人間の建築技術をもってしても再現するのが難しいような複雑で効率的な地下都市と建設”(30p)とあります。

2.
【第二章 人工知能の研究はどのようにして始まったのか】から、「ディープラーニング」の概念は日本人研究者が考案したという話。
“昨今の「人工知能ブーム」の火付け役となった「ディープラーニング」という言葉。この言葉自体は最近生まれたものですが、その概念の歴史は、1979年の日本に遡ります。当時、NHK放送科学基礎研究所の主任研究員であった福島邦彦は「ネオコニグトロン」と呼ばれるニューラルネットワークを考案しました。これはニューラルネットワークを多くの階層によって形成するというものです。この多くの階層によって表現するというアイデアは、工学的なニューラルネットワークの研究としては画期的なものでした。”(98p)
 ⇒この文章を読んで、なぜか嬉しくなる自分がいて、「自分も結構偏狭なナショナリストなのか」と思いました。

3.
【第三章 脳はどのようにして世界を知覚するのか】から、新生児の「視力」の向上と「見え」の成長について。
“僅か0.001程度の新生児の視力は、生後半年を超えると、0.2程度になります。すると、視細胞は発達し、より複雑化していきます。複雑化する細胞群を適応させようと、この頃の赤ちゃんは、複雑な図形や、コントラストの強い縞模様などに積極的に注目するようになります。これによって、単純に「視力」が向上するだけでなく、「見え」の成長が起るようになるのです。”(134p)
 ⇒養老孟司先生が「赤ん坊は自分が動くことで、同じ物が近づくと大きく見えることに気づく」とおっしゃっていますが、おそらく、それが「見え」なのでしょう。

4.
【第四章 意識にみる人工知能の限界と可能性】から、人間がどのようにものを見ているのかという話。
“では、人間は、どのようにものを「見ている」のでしょうか。人間がものを見るプロセスについては、大脳生理学、認知心理学などの分野で、これまで多くの研究がなされているので、既に解明されている謎のように思われるかもしれません。しかしながら、実は「人間がどのようにものを見ているのか?」という問いこそ、どの研究分野でも解かれていない、最大の謎の一つなのです。”(163p)
 ⇒「どのようにものを見ているのか」という謎が解かれないまま、ここまで文明が発達してきたわけですね。

5.
【第五章 シンギュラリティの喧噪を超えて】から、《生命とは何なのか》という謎。
“生命については、未だ多くの謎が潜んでおり、数々の未解決問題が生命科学者たちを悩ませています。そもそも生命という現象それ自体が未解決問題であるということが意識されないまま、コンピュータ科学の分野では、「生命」という言葉自体が一人歩きしています。そして、その結果として「コンピュータが人間の知性を凌駕する」といった誤った理解が、まことしやかに語られてしまっているのです。”(214p)
 ⇒ここに至って、著者が"人工知能万能派"ではないことが分かりました。

本書では、「強い人工知能」「弱い人工知能」というキーワードがあり、【第四章】《人工知能への「楽観主義者」とその論争》で次のように説明しています。
“強い人工知能(Strong AI):知能を持つ機械(精神を宿す)。
 弱い人工知能(Weak AI) :人間の知能の一部を代替する機械。
 実空間を生きる人間のような知能、すなわち、「強い人工知能」というものは、人間のように精神を宿すものであり、現在のところ、人工的に実現することはできていません。一方で、人間の知的活動の一部を代替すると定義される「弱い人工知能」は、知的活動を行う人間にとっての「道具」です。”(153p)

最後に【第五章】の締めくくりの言葉を引用します。
“もし、私たちが、「弱い人工知能」によって支配されるような物語を描き、そういった生き方をするのであれば、(たとえ「弱い人工知能」それ自体は道具に過ぎないとしても)私たちは、主体性そのものを奪われてしまうかもしれません。
 しかしながら、私たちが「人とコンピュータが共に生きる」思想に基づき、具体的な物語を描いていくのであれば、「弱い人工知能」は、物語の中で役割を持ち、共に生きる私たち自身の物語も、更に発展していくことでしょう。”(258p)

タイトルの『人工知能はなぜ椅子に座れないのか』については【第五章】に説明があり(250p)、これもぜひ読んで頂きたいのですが、3ページに及ぶ長文のためここには引用できません。
本書は部分的には専門的な記述もあり、読み終えた今も「正確に内容を理解できた」とは言い難いのですが、それでも著者の真摯な文章に、良い印象を持って巻を置きました。

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松田 雄馬(まつだ・ゆうま)
1982年9月3日生。徳島生まれ、大阪育ち。博士(工学)。
2005年、京都大学工学部地球工学科卒。2007年、京都大学大学院情報学研究科数理工学専攻修士課程修了。同年日本電気株式会社(NEC)中央研究所に入所。
MITメディアラボやハチソン香港との共同研究に従事した後、東北大学とブレインウェア(脳型コンピュータ)に関する共同研究プロジェクトを立ち上げ、基礎研究を行うと共に社会実装にも着手。2015年、情報処理学会にて優秀論文賞、最優秀プレゼンテーション賞を受賞。2016年、NECを退職し独立。2017年、合同会社アイキュベータを設立。著書に『人工知能の哲学』(東海大学出版部)。

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