共通テストの倫理に「親ガチャ」想起させる問題、なぜ出題? 予備校関係者や大学教授に聞く背景
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【画像】話題の共通テスト「親ガチャ」問題全文
>注目を集めているのは、倫理の第4問「社会的格差における運と努力」をテーマとした出題の1つです。高校生2人が豪邸を前にして繰り広げる、社会的格差をもたらす運や努力の影響についての会話をもとに、問いに答える形式となっています。
>この議論では、運と努力が社会的格差に与える影響に対して、高校生2人の意見は明白に対立しています。一言で言うと、運と努力について、生徒Gは家庭環境や文化など“社会の問題”に左右される部分が大きいのではないかと考えているのに対して、生徒Hは結局のところ“個人の問題”に過ぎないのではないかと捉えていると考えられます。
>具体的には、生徒Gは「子どもも、家が裕福なおかげでいい教育を受けて、将来お金を稼げるようになったりするでしょ。運の違いが生む格差は、社会が埋め合わせるべきだよ」「例えば、運よく絵の上手な人が漫画家としてお金を稼げるのは、漫画を高く評価する文化が社会にあるおかげでしょ。人の才能も、社会のあり方によって、運よくお金になったり運悪くお金にならなかったりするよ」と指摘。
>一方で、生徒Hは「生まれた家とか国とか、個人が選べないもので差があるのは、不平等だとしても変えられないよ。与えられた環境の中で頑張ることが大事だよね」「同じ境遇でも、苦学して立派になる人もいればそうでもない人もいるし…。最終的には、努力は個人の問題ではないかな」などと議論を展開しています。
⇒100対0で一方が正しく、他方が間違っているのではなくて「場面や状況によって正解が変わる」という命題の典型。なので両者の主張に一定の説得力があり、片方が他方を完全論破することはできない。「どちらを重んじるか」というだけのこと。
●代ゼミ「典型的な出題だが……」
>今後、予備校などの問題解説で書かれるのではないかと思いますが、倫理学では「運の平等主義」という考えがはやっていて、こうした動向も背景にある問題だと考えられます。自分の選択の結果、生じた不平等は選択の結果なのだから引き受けなければならないけれども、「運(自分の選択や努力ではどうしようもないこと)」による不平等は正されるべきだという考え方が「運の平等主義」です。
⇒「結果の平等」を目指した共産主義という壮大な実験は、人間の性弱説を突破できず大いなる失敗として終わっている。というか共産主義の中で権限を握る上位層が結局利権や欲得にまみれるのでどだい無理がある。現時点の人類にとっての正解は「機会の平等」だろう。徒競走で「ゴール前でおててつないでゴールイン」ではなく、ひとまず「スタートラインをそろえる」ことから始める。
ただ、いわゆる親ガチャはまさに「スタートラインの不平等」への指摘と言える。私も5日前に父親になったばかりだが、「息子に『よい親ガチャだった』と言わせられるよう頑張るつもりではいる。
――運と努力、ひいてはその人が持つ出自や性別などが社会的格差に与える影響について、先生の見解を教えてください。
>馬渕教授:大雑把に言えば、近代より前の社会は「属性主義」の社会だったと言えます。属性主義は性別や家柄、身分のような属性を基準にして人を評価することです。近代社会の建前は属性主義をやめ、「個人の能力」を尊重しようとしたことだと思いますが、その建前を実現するのは容易ではありません。性別や出自などによる露骨な差別や格差がなくなったとしても、家庭環境、経済環境、社会環境などが個人の能力に大きな影響を与えてしまうからです。
>もちろん、能力主義にすれば問題がすべて解決するわけではありません。会話文でも近しいことが書かれていましたが、能力にも「運」が影響する部分があります。「たまたま能力が乏しい人は、そのことで不利になっても諦めなければならないのか。能力が乏しいと認定される人は屈辱感を味わうのではないか」などの問題もあると考えられます。
⇒能力の有利不利は存在する、これは事実だ。だが「屈辱感をもってあきらめなければいけない」などという事実はない。というか、私からすれば「あきらめてそれでどうするの?」という問いかけがある。
ハズレ親ガチャのせいにして諦める判断はその人物の自由だから良い。ある程度当たっている点も同意する。だが、その判断をしたとして、その後の人生が好転するとは到底思えない。諦める理由が正直「さっぱりわからない」のだ。生きていく限りは幸福に向かっての努力をやめる理由はない、と断言しよう。
「いや違うぞ、俺はあきらめてるんだ!」という方は「じゃあお好きにどうぞ」としか言いようがない。それぞれの人生、その人が主役だから「他人」である私にはどうしてあげることもできない。ただ「あきらめて 何か良いこと あるのかな?」と思うだけである。とりあえず私はあきらめない。それだけだ。
>いずれにせよ、私たちには「個人の出自や性別などで、人生が決定されるような社会は良い社会なのか、そんな社会に住みたいと思うかどうか」が問われていると感じています。格差是正の主張に対しては、逆差別や弱者優遇などさまざまな批判が向けられていると思いますが、最も重要なのはどのような社会に私たちが住みたいと思うかだと考えています。
>出題ではその後、2人の高校生は先生に意見を聞き、「運の違いも努力の差も軽視しない社会の仕組みを考え付くことができるといいですね」という先生の言葉で会話は締めくくられています。どうすれば、運の違いも努力の差も軽視しない社会はやってくるのか。受験生だけではなくわれわれに対する大きな命題に思えます。
⇒【私なりのまとめ】
・スタートラインがそろっているのは目指すべき理想であり望ましいとは思う(ゴールの平等は問題外)。
・だが、現実には親ガチャというスタートラインの不平等は確実に存在する。
・スタートラインの平等という理想を実現するのは現代人類にはほぼ不可能と言える。
・だからといって不貞腐れて諦める理由にはならない。
・とりあえず私はあきらめない。むろん死ぬまであがく。むろん、私は欲まみれの俗物なのでお金は欲しいし、多少アモテたいし、褒められたいが。それを目指してあがく家庭にも十分に喜びがある。なによりも「あきらめず、あがき続ける自分好き」なんだから仕方がない(笑)。
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