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2022年11月05日22:02

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アイハヌム 2022 加藤九祚 一人雑誌 追悼号 平凡社 2022年07月22日

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p.128
 筆者は、この建物に関する〔先行〕論文で、本作品を結跏趺坐の仏陀像に同定した49。〔しかし〕この像の図像学的特徴を類例と比較した詳細な研究は、筆者の解釈が誤っていたことを示している。

 このような図像学的特徴をもつ仏陀像は、膨大な仏像の中でも類例がないので、防御用の甲と独特の頭巾の存在から判断して、この小像は別の、世俗像や兵士像の中に求めなければならない。

 カンピルテパ出土の男性像の頭飾りに類するものとして、(ホレズムの)コイ・クリルガン・カラ出土の浮彫水筒片があり、そこには頂部が前に折れ、下端部が頸と下顎を覆うバシュリク型の頭巾を被った騎乗者像が描かれている51。カンピルテパ出土の小像には、襟ではなく、これと似た頭巾の下端部が表現されているかもしれない。S.P.トルストフはコイ・クリルガン・カラ出土の騎乗者の頭飾りを「スキタイ・タイプ」、つまり「サカ・タイプ」(E.R.=筆者)と名付けた52。
p.129
したがって、この肖像は特異な作品であると断言できるのだが、それはつまりサカ上流階級の何某かの人物像、もしかするとオクサス右岸を支配したサカの統治者の姿を「永遠に伝える」ために、これと同じ像を複数個体制作したのかもしれない。…
…V.M.マッソンはこの問題に関する学者の見解を総括して、パミールとギビン(カシミール)を経由するルートと、サカスタンとドランギアヌを経由するルートという大きく2つのルートを経て北西インドに至る道を指摘した55。…
 一方、サカがオクサス右岸に居住した考古学的痕跡から、かれらが渡河してテルメズ地域のカンピルテパ(図11)、チュシュカ・グザル、バクトラ(バルフ)のケリフに入り、マウエスのインド・サカ王国が樹立したガンダーラに直通する道につながる、カーブルダリヤ(コーフェーナ)溪谷57に入ることができたと仮定することができる。
p.130
これらのDami/Dama/Dameの名称はすべて、《dam》――「創造者、造物主58」という共通の語幹を有している。
p.132
 O.N.トゥルバチェフは、ボスポロスの墓碑に刻まれたエスニコン〔部族名〕Τυκαδειταιが邑あるいは都市の名称――*Τυκανδαに由来すると考えた70。…彼はその類例を古代インド北西部、インダス川にカーブルダリヤが合流する場所、つまり、古代の文化誌的地域であるガンダーラの地名に、その類似性を見出した。この地は、アレクサンドロス大王のインド遠征の際にギリシャ語Ekbolima、ラテン語Ecbolimaから借用されたOhind、古代インド語でUtakhandaまたはUt-khandと呼ばれていた71。
 O.N.トゥルバチェフによれば、これら2つの名前と古代インド語のutkanda、ud-kanda、そしてギリシャ語のεκ-βΟλιμσ-(動詞εκβσλλωから派生)は「分派、枝」という同じ意味を持つという。彼は、「ギリシャ人にとっての困難は[語]群-tkをギリシャ語で変化させて伝えること」つまりut→tuへの変形であったと指摘しつつ、*Τυκανδαがパンチコインの銘文に地方のインド・アーリア語、シンド・マエオティス語の*Utkandaが反映されているとの結論を導き出した72。
 さらに、O.N.トゥルバチェフは、自身の結露に関して、古代С語のコプリ(「分岐、川の支流」)とインド・アーリア語(シンド・マエオティス語)のUtkanda73の意味論的一致を立証しながら、*Utkandaの都市ないし邑の所在地をシンド・マエオティス族の居住地域――クバン川下流――のなかで探し、かつてコプリ[Kopyl']とよばれた、都市の古名スラヴャンスク・ナ・クバニ[Slavyanska-na-Kubani]〔クラスノダール地方〕に類似性を見出している。
p.133
それは、古代チャーチのコインで確認されている名前であるZbb'ʏʏ――古代チャーチ74の最初の支配者――と、黒海北岸地域から出土した碑文に記載されているスキタイ・サルマタイの名前Zaβaʏioςとに確認することができる75。チャーチの2番目の支配者の名前であるWnwnもまた黒海北岸地域のタナイス出身のΟανουνοβαροςの名前に類例がある76。これら3例――ダーマ、ザッバッグ、ワヌン――は中央アジアと黒海北岸地域の様々な地方における名称の類似性だけを示しているのではなく、古代にこれらの地方に居住したスキタイ・サカ・サルマタイの同じ民族性をも示しているのだ。
p.134
20 (訳注)宮本氏によれば、カラルラングκαραλραγγοは中期ペルシア語のmarzbanと同じく、「辺境伯」などと訳される称号である。

35 G.A.プガチェンコワとの共著において筆者は、E.V.ゼイマリがサカの到達した国境をオクサスと考えたのに対して、その国境がダルバンド村近郊の鉄門であるとの見解を提示した。これについては、Pugachenkova, Rtveladze 1990,pp.44-45.を参照。現在、筆者はこの論争においてE.V.ゼイマリが正しいと看做している。Zeymal' 1978を参照。
p.138
 以上は、ウズベキスタン南部に位置するカンピルテパ遺跡の発掘報告書『トハリスタン調査団史料:ヘレニズム時代とポストヘレニズム時代のオクサス河岸の城砦(前4世紀末‐前1世紀)』(E.V.ルトヴェラゼ監修、タシケント:サンアット出版、2017年刊)に収載された論文の日本語訳である。原書の序には、著者と加藤九祚博士との写真(図1)が掲載されている。
p.139
 翻訳に際して高橋惣一氏より訳の確認を賜り、宮本亮一氏よりバクトリア語、吉田豊氏よりソグド語について助言を賜った。…なお、拙訳を脱稿した後、2022年2月10日にルトヴェラゼ教授の訃報に接した。ルトヴェラゼ教授には30年来、考古学に関する訳者の質問に対して畝に丁寧にして豊富な情報とともにご教示を賜った。
p.150
 しかしながら、我々はこの壁画が純粋に仏教的テーマで描かれたと考えたい。その理由は、第一に、描かれているのは仏教説話の聖鳥ガルーダであり、その頭上には頭光が描かれていることである。第二に、描かれた女性の衣服と装飾品が純インド的であることである。…そして第三に、後期クシャン時代の仏教寺院の発掘により、ザールテパにおける仏教の存在が示されたことである。
p.151
 同時に、インド美術では、クシャン朝時代と中世初期時代の壁画でも彫刻でも、インドの叙事詩で記述される巨大な翼と爪をもつ鷲の姿をしたガルーダの巨像や、ザールテパの壁画に描出されたのと同テーマの主要な登場人物は今のところ知られていない。
p.158
 以上の論文は『ウズベキスタン物質文化史』(Istoriya material'noy kul'tury Uzbekistana)第36号掲載のSh.R.Pidaev, M.A.Reutova著Zhivopis' Zartepaの日本語訳である。
 ザールテパの壁画に関しては、ピダエフ氏による論文「ザール・テパ都城址」が『アイハヌム2001』で紹介された。その後、「ウズベキスタン考古学新発見展」で将来され、加藤博士が同展の図録で紹介した。本稿は、その後の研究成果をまとめたものである。本論文の153ページに言及のカラテパ出土のガルーダ像に関しては、加藤九祚・Sh.Pidaev編著『ウズベキスタン考古学新発見』の他、『アイハヌム2007加藤九祚一人雑誌』、Sh.Pidaev著/加藤九祚・今村栄一訳『ウズベキスタンの仏教文化遺産』に図版があるので、参照されたい。なお、同遺跡の総括的な調査報告書として、V.A.ザヴィヤロフ著『ササン朝治下のクシャンシャフル(ザールテパ都城址の発掘資料より)』[V.A. Zav'yalov. Kushanshakhr pri Sasanidakh (po materialam raskopok gorodishcha Zartepa). SPb. 2008.]が刊行されている。
p.166
筆者は、この像の図像学的比定を試みて、これが、ゾロアスター教のパンテオン「不滅の聖性」(アムシャ・スプンタ《Amesha Spenta》)の一人であり、西暦127-150年頃に統治したカニシュカ1世や、西暦150-190年頃に統治したフヴィシュカ王などクシャン朝の諸王のコインに刻印された有名な神像シャフリヴァル(原語:Shakhrevar)(図9)であることを提唱した。
p.170
城砦址で類似の飾り板がいくつか出土したことは、シャフリヴァルの像がこの地域、つまり、スルハンダリヤの上流域および中流域が支配地であったチャガニアンで広範に普及していたことを示している。
p.173
 以上は、ウズベキスタン科学アカデミー芸術学研究所上級研究員ジャンガール・ヤフダットヴィッチ・イリヤソフ氏による本誌への寄稿論文Ossuariy s gorodishsha Dal'varzintepaの翻訳である。イリヤソフ氏はウズベキスタン南部のダルヴェルジンテパ、ブドラチ、カンピルテパ等の遺跡で長年考古学調査に携わり、中央アジアの考古学や古美術に関する数多くの論文を発表しており、とくにテラコッタ像の図像学的研究の専門家でもある。なお、図8のテラコッタ像の写真は古代オリエント博物館の津村眞輝子氏にご提供いただいた。


動物園のクマの囲いに3歳娘を投げ入れた母、来園客の目の前で(ウズベキスタン)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=103&from=diary&id=6832536

ウズベキスタンの首都タシケントにある動物園で今月28日、母親が3歳の娘をクマの囲いの中に投げ入れた。女児はスタッフに助けられ命に別状はなかったものの、母親は殺人未遂で逮捕されている。『The Sun』などが伝えた。

母親が3歳の娘を投げ入れたのはオスのヒグマ“ズズ(Zuzu)” の囲いの中で、女児は柵の反対側にある5メートル下の溝に頭から落下した。

動物園のスポークスマンによると、母親は近くにいた来園客やスタッフが止めようとするのを振り切って異常な行動に出たそうで、当時の様子をこのように説明した。

「ズズは金属製の柵の反対側から、親子の様子を見ていました。そして女児が溝に転落すると、立ち上がってゆっくりと溝に近づき、女児の匂いを嗅ぐとその場から去っていきました。」

「飼育係はズズを囲いの中にある施設に誘い出し、その間に別のスタッフが女児を助け出しました。」

「もしズズが女児を獲物と捉えて反応していたら…と考えただけでも恐ろしい話ですが、幸いなことにヒグマの牙や爪などによってできた傷はひとつもありませんでした。」

女児は5メートルの高さから落下したことによる脳震とうと診断され、頭部に開放性損傷を負ったという。軽いショック状態ではあるものの容体は安定しており、しばらくは医師の監視下に置かれるそうだ。


なお動機については明らかになっていないものの、警察は母親を殺人未遂容疑で逮捕しており、刑が確定すれば懲役15年となるという。


ちなみに昨年3月には、アメリカの動物園で2歳の娘を連れた父親がゾウ舎に侵入し、ゾウに襲われそうになった。父親は雄のアフリカゾウと記念撮影をしようとしたという。

画像は『The Sun 2022年1月29日付「JAWS OF DEATH Mum ‘tries to kill’ toddler, 3, by ‘throwing’ her 16ft into bear enclosure before she’s saved by zookeepers」(Credit: East2West)』のスクリーンショット
(TechinsightJapan編集部 A.C.)


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