■「時間内での給食がつらい」「背の順で並ぶのが嫌」「塾の方が面白い」…子どもたちに聞いた「小学校に行きたくない」理由
(まいどなニュース - 09月19日 19:50)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=262&from=diary&id=7116970
********************************
ミクシィの記事もそうだが、以下の記事が語りやすい。
>「なぜこの苦しみに気づけないのか」に対するアンサー「代案のない問題提起だけでは何も問題解決されないとになぜ気づけないのか」
https://news.yahoo.co.jp/articles/d3c34a6245e9b826679686ac99a6e39fb2333423?page=1
>だが、最初にどうしても述べなければならないことがある。それは「背の順で苦しんでいる人が存在する」というただ一点の紛れもない事実である。反対意見の人はそれを無視するか、ひどく軽視している。
⇒松尾氏の問題提起自体は良いのだが、「苦しむ人が絶対にゼロになる代案」がなければほぼ無意味な問題提起だ。
たとえば「背の順」をやめて「名簿順」にしたとて、新たに苦しむ人は絶対に出る。「整列をしない」となると、今度は管理する教師側が不便さに苦しむ。という具合に。この筆者の理論を正しいとして尊重するならば「苦しんでる人が存在するのはダメ」なんでしょ?ということは未来永劫解決しませんぜ。この松尾氏は自己矛盾に気づいてないのだろうか?
こちらとしては別にマイノリティー無視してるんじゃなくて、松尾氏の発想では「新たなマイノリティーを生み出し問題解決に寄与しない」のだ。
「差異があるのは当然、差異を必要以上に気にしないようになる」のが正しい在り方だ。
必要以上に殊更に「チビ」「デブ」「ブス」「バカ」「ハゲ」といった、一般に悪意のある罵詈雑言の表現を使うのは論外として(概してこういう表現を多用する人で聡明な人物を見たためしがない)。
要は「際があるのは当然のこと」と受け入れたうえで、どこまで気にするのか?ということだ。私の領域論で考えるならば背の順は「環境」の領域に属する。「気にするだけムダなこと」だ。背が低いなら低いという事実を受け入れたうえで「じゃあどうするか?」を考えるほうがよほど前向きで建設的であり、そう考えられるように育てるのが良い教育だろう。
「ドリブルこそチビの生きる道なんだよ」by宮城リョータ
という発想だ。無理に背を伸ばす必要はない。ないものねだりはしない。あるものをどれだけ有効に活用できるかだ。
人生はキッチンスタジアムではない。「与えられた能力や環境=冷蔵庫の残り物」でいかに「良い人生=手早くおいしい料理」を作れるかだ。
自分の持ってる能力、長所、好み、環境、人的関係を見直そう。良くも悪くもそうするしかできない。で、大概はまあまあ使えそうなカードが見つかるし。見つからないなあもはやそれは自分にはどうにもならないのであきらめがつくというものだ。
誰も罵詈雑言を浴びせない=「他人の領域」とか、罵詈雑言を浴びせると批判批難される空気=「環境の領域」 という「やさしい世界」を目指すというのは・・・憲法9条のようなものだ。たしかに「目指したい理想」ではあるが、未来永劫手に入らない。それを待つよりは・・・
「強い自分になる」=自分の領域 を目指すほうが現実的な正解となるだろう。事実は事実として受け入れて、他人の多少の悪意ごときでは傷つかない自分になる。これが良い。他人の悪意は受け止めて反撃するもよし、軽く受け流すのも良し、だ。
以前、美人アスリートとかが「そういう外見風貌ではなく運動技術に着眼してほしい」という記事を読んだが、どこに着眼するかは相手が決めることだから無理な願いだと思う。どうしても「外見風貌で騒がれたくない」ならば逆整形手術をするか、マスクウーマンにでもなるしかないということになる。マスクウーマンになるもともと美しい外見をわざわざ逆整形手術で醜くするなんてのはあまりに無理があるので、だったら「美人と騒がれるのはそれはそれでありがたいこと。ですがちゃんと実力もありますよ」とあまり気にせずに堂々としておくのが「強い自分」の正解となる。
で、背の順だが同じことだ。チビで悩むのは本人の自由だが「それって悩んで解決するの?」ということだ。解決できるなら解決すればよいが、解決しないことで悩んでも仕方がない。むしろそれを受容して、それを活かした強みだとか、それ以外の強みを探す「強い自分」になるほうを強くお勧めする。少なくともこの「松尾英明氏」の考え方ではだれも幸せにならないのは間違いなさそうだ。
--
ログインしてコメントを確認・投稿する