mixiユーザー(id:5160461)

2022年08月31日23:50

103 view

諸国征服史 第2巻 (イスラーム原典叢書) (和書) 説明 バラーズリー 岩波書店 2013年01月31日

https://mixi.jp/view_item.pl?reviewer_id=5160461&id=5375310
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000120611722&owner_id=5160461

p.208
 信者の長マフディーの時世のこと、盗賊たちサアーリークや無頼の輩ズッアールが増え、アルジャバル[アルジバール]に跳梁してこの地方をかれらの隠れ家、および縄張りとした。…なぜなら、この地域はハマザーンとアッディーナワルとアゼルバイジャン――これら三地域[それぞれ]の辺境だったからである。
p.216
この時ムーサーはタバリスターン(65)で不穏な動きを見せていたターリブ派〔シーア派の一派〕との戦いに従事していた。
p.218
かれがメルヴ(72)の境界に至るや、メルヴのマルズバーンのマーハワイフはかれを恭しく丁重に迎えた。かれのもとにニーザク・タルハーン(73)もやって来た。…
p.225
 マーリク・ブン・ザイド族(4)のムンジル・ブン・ハッサーン・ブン・ディラール[・アッダッビー]は、アンヌハイラの戦い〔ミフラーンの戦い〕で[敵将]ミフラーンを屠った者の一人であった。
p.236
 クルド人がアブド・アッラフマーン・ブン・ムハンマド・ブン・アルアシュアス〔イブン・アルアシュアス〕の乱の時代に[跳梁して]害を為し、[世の]混乱を甚だしくした。
p.263
 ホラーサーンに進軍中のヤジードの行く手の街道には、スール・アットルキー(29)が障害となっていた。…
…ディヒスターンの民は出撃し、これらと交戦した。
p.269
 [一三七年、]ライの民のウマル・ブン・アルアラー(42)は肉屋を生業としていたが、人衆を糾合してこの地で蜂起したスンファーズ(43)と対決した。
p.278
ウトバがアルフラートの町の民と戦端を開くや、かれの妻アズダはムスリム人士を戦いに鼓舞して叫んだ。「かれら〔敵〕がお前さん方を破れば、包茎が私たちの中に侵入するのよ!」
p.280
 ムギーラ[・ブン・シューバ・アッサカフィー]は[バスラ総督在任中、]ヒラール族(65)の婦人でミフジャン・ブン・アルアフカム・ブン・シュアイサ・ブン・アルフザムの娘のウンム・ジャミール[・アルヒラーリーヤ]のもとに足繫く通った。かの女にはサキーフ族のハッジャージュ・ブン・アティークという夫がいた。
p.281
案の定、ご両人は裸で、しかもかれはかの女の腹上にあった。…
…「某はかれが件の婦人の腹に乗って穴掘りに奮闘しているのを確かに見てござる。かれはその一物を、まるで目張り用の筆がそれ用の墨壺に入ったり出たりするが如き行為に熱中していたのである」。
p.282
 ジヤード[・ブン・アビーヒ]は次のように証言した。「自分は恥ずかしい光景を目撃し、激しい息づかいを耳にしましたが、ムギーラがかの女と性交に及んでいたかについては確信がありません」。
p.323
 バシール・ブン・ウバイド・アッラーフ・ブン・アビー・バクラ[・ブン・マスルーフ(165)]は、アルムルガーブ[運河]を掘削したが、その名をメルヴのアルムルガーブ[川]から採った。
p.330
 カウサジャーンの名の由来は、アブド・アッラーフ・ブン・アムル[・ブン・ガイラーン]・アッサカフィー・アルカウサジュ(189)〔無毛者〕にある。
p.346
 [逃亡の]ヤズダギルドがイスファハーンに向かった際、かれはシヤーフ[・アルウスワーリー]を呼んでこれに三〇〇名を授けてイスタフルに派遣した。…
 イスタフルに到着したヤズダギルドはシヤーフをアッスースに派した。この時アブー・ムーサー[・アルアシュアリー]はかれらを[アッスースに]攻囲中であった。またヤズダギルドはフルムザーン[・アルファーリシー]をトスタルに派した。シヤーフは[アッスースへの途上]アルカルバーニーヤに駐屯した。
p.374
 アラー・イブン・アルハドラミーがウマル・ブン・アルハッターブのバフライン総督であった時、アズド族のハルサマ・ブン・アルファジャ・アルバーリキーを[ファールスに]派遣した。

 その後、ウマルがウスマーン・ブン・アビー・アルアーシー・アッサカフィーをバフラインとウマーン[の総督]に任命した。かれによりこれらの地が平定され、民のかれへの服従が固まるや、ウスマーンは兄弟のハカム・ブン・アビー・アルアーシー[・アッサカフィー]を海路ファールスに派遣した。この時ハカムは、アブド・カイス、アズド、タミーム、ナージヤ(51)――これらの諸部族やその他からなる大軍を率いていた。こうしてハカムはアバルカーワーン島(52)を征服した。その後、[ファールスに上陸して]タッワジュに軍を進めた。…

 アブー・ミフナフの話によれば、ウスマーン・ブン・アビー・アルアーシー自身が海を渡ってファールスに上陸したという。かれはタッワジュに対陣した。…またウスマーンは、タッワジュに境を接するアッラジャーン(54)にしばしば遠征していた。
…暫くしてウマルはウスマーンの兄弟のハカム[・ブン・アビー・アルアーシー]を後任〔ウマーンとバフラインの総督〕としたのである。
p.375
 ファールスのマルズバーン〔ペルシアの総督〕にして太守のシャフラクはアラブ軍のファールス進攻を重く見、その心は激しく動揺した。かれらの雄心と勇猛、そしてその常勝の報がもたらされた時、シャフラクは大軍を召集し、自ら兵を督してサーブール(55)の領域内のラーシャフル(56)に進んだ。…祖の先鋒隊を率いていたのは、サッワール・ブン・ハンマーム・アルアブディーであった。…
…[息子の]イブン・シャフラクは[父の仇とばかり]サッワールに迫り、これを殺した。
p.384
ムジャーシウは、ビーマンドに至った。…

 次にムジャーシウはバルーフラワを征服し、キルマーンの首邑アッシーラジャーン(77)に至った。
p.385
 ムジャーシウはジーラフト(79)を武力で征服した後、キルマーン[地方]に進軍して諸々の地を制圧しつつアルクフス(80)に達した。かれに対してペルシア軍の逃散者からなる軍勢がホルムズ(81)に集結した。
p.388
次いでかれはその水流の一つヌーク川を渡ってズーシュトに着いた。…
 次いでラビーウはナーシュルーズ(93)に至った。
p.389
 次にラビーウはナーシュルーズからシャルワーズ(94)に軍を進めた。…
…やがてザランジュのマルズバーンであるアバルウィーズは安全保障を求めて、和平と条約の締結のための使節を送って来た。
p.390
 [アブド・アッラフマーン・]イブン・サムラはまた、ザランジュとアルヒンド(98)の地の一つキッシュ(99)との間の各地を制圧し、かつアッルッハジュ(100)街道に沿った地方からダーワル(101)の諸地方の間を平定した。…
 イブン・サムラはアッズール[の社祠]に入った。アッズールは黄金の偶像で、その両眼に宝石が嵌め込まれていた。かれはその片腕を切り落とし、また両目の宝石を抉り出して件のマルズバーンに言った。…
 イブン・サムラはブスト(102)とザーブル(103)を条約を結んで征服した。
p.394
そして、ついにカーブルの地に至った。
p.395
さらにかれはフワーシュ(119)とクーザーン・ブストに至り、これを武力で征服した。次にラザーンに進んだ。…
 次いでアブド・アッラフマーン[ブン・サムラ]はフッシャク(120)に進軍した。…その後かれはアッルッハジュに転じた。
p.396
 次にかれはザーブリスターン(121)に至った。…

 その後カーブル・シャー(122)はムスリムに対して一軍を集め、カーブルに駐留する[ムスリム軍]兵士を追放した。
 また、ルトビール(123)も到来し、ザーブリスターンとアッルッハジュを制圧した後、ブストにまで来寇した。
p.398
そしてルトビールをアブー・アフラー=ウマイル・アルマージニーが殺した。
p.400
かれはシジスターンに到着するや、先のルトビールの後を襲った[新]ルトビール征討の軍を興し、自ら出征した。
p.401
そのような中、軍を進めたかれはカーブル近郊に駐屯した。その後[なおも行軍し]山道にさしかかった。ここで敵がかれを阻んだ。ルトビールもかれら〔敵〕に与した。…
 こうして戦いは再開され、シュライフは勇戦したが陣中に没した。
p.402
 その後ルトビールはハッジャージュへの恐怖からイブン・アルアシュアスを裏切った。
p.405
 ところがルトビールはすでにこの地を離れ、避暑のためザーブリスターンに移っていた。そこでマーンはアッルッハジュを征服し、多数を捕虜とした。…

 マーンは冬[の到来]と嵐[の襲来]を恐れてブストに退いた。
p.439
(22) ダイラムおよびダイラム人は、原文は定冠詞を付けてアッダイラムであるが、通称に従ってダイラムと記す。ダイラム地方はカスピ海南西の山岳地帯を指す。東のタバリスターンと西のジーラーン地方の間の地方。また、この地方に住むイラン系の民族をダイラム人と言う。軍人としての資質に優れていたため、ササン朝の一翼として重用された。かれらは色白(赤色)なのでアラブはかれらを赤色人と通称する。
p.447
(160) スンファーズとも読む。カリフ‐マンスールに謀殺されたアッバース朝革命の元勲アブー・ムスリムの復讐を掲げて一三七年に反乱した拝火教徒の指導者。イラン人の反アラブ・反イスラームの思想・感情を背景とした乱であったが、マンスールの派遣した討伐軍にジャルジャーンバーン(ライとハマザーンの間の地)で敗れ、次いで逃亡したシンファーズも同盟者に殺されたため反乱は七〇日で終った。
p.458
(65) イランのマズダク教と過激シーア派との混交によって成立したホッラム教の指導者。バーバクはペルシア語パーパクのアラビア語訛りと言われる。二〇一年、前指導者の後継としてアゼルバイジャンのアルバッズに依拠してアッバース朝に反乱した。その勢力は東はホラーサーン、西はアルメニア、南はアルジバールに拡大した。カリフ‐ムータシムは将軍アフシーンを起用してその鎮圧に努めた。アフシーンは二二二年にアルバッズを攻略した。アルメニアに逃れたバーバクは捕らえられ、二二三年、首都サーマッラーに護送された後、処刑された。
p.461
(42) かれは以前タバリスターンに逃亡者として住んでいた。一六二年には、ジュルジャーンで反乱したマズダク教の一派で、一種の共産制を唱道したアルムハンミラ(赤衣党)を鎮圧。一六三年にタバリスターンとアッルーヤーンの総督。一六七年には再びこの二地方の総督を務めた。
(43) スンバーズとも呼ぶ。アッバース朝革命の元勲アブー・ムスリムの復讐と、アラブ・ムスリムの支配からの脱却を掲げてアルジバールとタバリスターンの人衆約一〇万人を糾合して反乱した(一三七年)。ニーシャープールの一村の出身でゾロアスター教徒。はじめニーシャープール、ライ、クーミスを制圧したが、マンスールが派遣した討伐軍との戦いに敗れ、タバリスターンとクーミスの間の地で殺された。



■ハラール市場は2025年までに約375兆円に成長 矢野経済研究所がセミナー開催、専門家が拡大を予測
(OVO [オーヴォ] - 08月17日 11:20)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=201&from=diary&id=7075499

 矢野経済研究所(東京都中野区)は、米国とアラブ首長国連邦(UAE)に拠点を置く調査・経営コンサルティング会社DinarStandardと共同でこのほど、イスラム法を順守する製品・サービス市場「ハラル(ハラール)市場」についてのオンラインセミナーを開催。「ハラール市場は2025年までに約375兆円に成長する」などとする見通しを示した。

 同研究所によると、セミナーは「日本と世界のハラール市場2022」と題し、日本、米国、ドバイ、インドネシアを結んで行われ、世界のハラール市場の現状と成長性、日本企業の事業可能性について発表。各国から輸出入を手がける商社など関係者が参加した。

 セミナーではDinarStandardの共同経営者リーム・エル・サファキ氏が、同社発行の「世界イスラム経済レポート2022」を基に最新の世界市場の動向について「新型コロナ禍により大きな打撃を受けたハラール市場は、2021年には観光産業以外はコロナ禍前の水準に回復した」と報告。2021年の世界のハラール市場規模は2.0兆ドル、2025年までに年平均成長率7.5%で2.7兆ドル(約375兆円)に成長するとの見通しを明らかにした。

 また、ハラール市場の成長をけん引する消費グループとして、特に(1980年以降に生まれた)ミレニアル世代と(その次の)Z世代が今後注目されるとの認識を示した。

 インドネシア政府公認のハラール認証監査員の教育認定機関であるLSP MUIのヌル・ワヒッド氏は「ハラール市場はアジア、中東、アフリカの新興国だけでなく、先進国でも市場は拡大しつつある」と指摘した。

 こうした流れを受け、矢野経済研究所は「ハラール市場は世界全体で拡大しており、日本企業にとっても大きな事業可能性がある」として、市場調査や日本企業向けの研修などのサービスを提供するとしている。


0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2022年08月>
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031