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2022年05月23日11:51

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 「友情ほど、当てにならないものはない」を吟味する

  1928年生まれの映画監督・教育評論家の羽仁進氏の著書「放任主義」に書かれてあった言葉である。羽仁氏は「子供にそう教えろ」とさえ述べている。また、小中学時代、僕もそのような事を多くの大人たちから聞いたし、同様に聞いていた同級生たちもいた。当時の大人はすべて戦前世代。それゆえ、友人を作らない当時の大人もたくさんいたわけである。今の僕は2つの面からみている。

  1.友情の定義と持つ性格.

  仏典には随所に「修行や利他行為を通した善友」という言葉が出てくる。修行は学問やスポーツも含まれるし、利他行為は現代語では社会活動に当たる。確かに、それらは心結ぶし、励まし合い、たたえ合いも生まれる。まさに友情。僕も共に学んだ結果、心通じ合い、真の友人になれた人たちは多い。一緒に子供会活動した旧友とか。すがすがしくて、良いものだ。

  ところで、かつてはそうした友人に、例えば、「お金の工面をしてくれ」と頼む例も昔から多い。ジャッキー・チェンの映画にも面白く出てくる。その場合、依存や甘えの関係になり、断れば絶縁にもなりかねない。応じた場合、もっと無理な要求もしてきて、関係も腐っていくわけである。お金までにはいかなくても、約束し合った時間に「友人だから判ってくれるだろう」と思い、遅刻して、ケンカになるとか、人間の意見は様々で理解力も限界があるのに、「わかってくれない」と怒るとか。友情が崩れるパターンは無数にあり、危ういものである。そこからも「友情ほど、当てにならないものはない」という結論も出る。依存や甘えが友情を破壊するわけである。



 2.友情と仲良くの混同.

  教育勅語に「仲良く」という言葉が多く出てくるため、戦前世代のほとんどはその区別が付かないようだし、戦後世代にも多い。学問や社会活動などを通さず、いきなり他人と仲良くしようとすることである。そのために一緒に酒を飲んだり、芸能人の話もして。ムード的に仲良くなれるが、普通の友人よりも早くに依存と甘えが出て、ムリも押し付け合い、ケンカになることが多い。100%かもしれない。大正デモクラシーのバブルみたいなものがはじけた昭和初期には、不景気とも絡み、そのようなケンカが多かったようだ。しかも、多くは仏典は読まないから、仲良し=友情だと思い込んでいる。まさに、子供の時の僕などが聞いた「友情はダメ」の根である。世代柄、羽仁進がそう思ってもおかしくない。



 今現在の僕が判っていることは以上である。日本では、以上2つが重複しているのかもしれない。また、教育勅語のコピーをした旧ソ連でもそのような社会のゆがみが強く、ゴルバチョフが困ったわけだし、今の独裁者プーチンを生んだことにも通じているとみている。この件は継続して述べたい。
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