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2022年04月11日00:17

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アフガニスタンのハザーラ人―迫害を超え歴史の未来をひらく民― (世界人権問題叢書77) サイエド アリー ムーサヴィー 明石書店 2011年10月19日

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p.116
 ハーナーバード、アリー・アーバード、タハールのカルルク・ハザーラ族。ハーナーバードの東のシャイフ・アリー・ハザーラ族。バグラーンの北のガルガグ・ハザーラ族。ハーナーバードとクンドゥズの間のニークパーイ・ハザーラ族。ナフリーンの西のコーフ・ガダーイ・ハザーラ族。ナフリーンの南とハーナーバードの東のクズィ・ハザーラ族。ナフリーンの南のトゥライ・ハザーラ族(この名は、ほぼ間違いなくチンギス・ハーンの息子であるトルイの名に由来する)。ナフリーンの西とアンダラーブの東のダーラ・パース・キンディー族。ハーナーバードのジョーイ・カンド・ハザーラ族。バグラーンの北のナイーマーン・ハザーラ族。ヘラートの史跡の近くのコロ・ハザーラ族。ヘラートのゴーリヤーン・ハザーラ族。ヘラート周辺のバードギース、ジャワンド、ダラーエ・カーシュロー、ダーイ、ダフ・マルダ、ホシャク、そしてラズィールの各ハザーラ族。ショールトー、コラー・ホワール、ディーヴァナ・キシュラークといった溪谷の北部と内部のダーイ・ミーラク・ハザーラ族。イシュカミシュのチャール・ハザーラ族。バグラーンのコーフ・ギーナル・ハザーラ族。サマンガーンのバーボーラ・ハザーラ族。カガーイ、コール・バルス、カラー・バートール、ヤンガイ・カラー、マイン・マナ、ハミースィー、カライ・キーサル、バーブ・ヴァリー、そしてプレ・フムリーとバダフシャーンの各ハザーラ族。
p.120
 ハザーラジャートの境界の最北東端はマザーレ・シャリーフの南二〇キロメートルに位置する峠にあり、そこからダル・ガズ川に沿って南へ向かい、ボーイーナ・カラの森林を抜け、アーク・カプラク峠、カラ・カシャーン峠、さらにダンダーン・シカン峠へと続き、ここでダル・ガズ川はショルハーブ川、スィヤー・ハーク川に合流する。ここから、ゴールバンド川を越え、ドアーブ川に合流しながら、東方のハージャル村やルーラク村に向かって伸びている。
p.121
さらにコータンダル峠とザイ・モーニー村に向かってふたたび南へ向かう。そして、ここから西に折れてスィヤー・ハール村に向かい、さらに西方のジャルリーズやスルフ・サング、ジャウ・コル、ガルダーネ・デヴァーレ・ニヤーといった村々へと続く。そしてついには、南東の方角に向けて、ナナガイ・シャンバ村を過ぎ、ショフル・サング峠、サレ・ハワート峠、バール・カラ峠、シャムルトー、ボーナーン峠を越えて、アッラーホ・アクバル村に達している。そこからガズニーーカンダハール道路に沿って走る山脈の麓沿い、ガズニーの西二六キロメートル、カンダハールに近いところまで伸びている。
 ハザーラジャートの南の境界は、マイダーンに始まり、カッラーーエ・アースィヤとモコルを過ぎ、ナーホルブ川に沿ってシャーヘ・マシュハドに続く。それから西に向かって、バダン・マザール、バンデ・コータレ・ターヒリー、モルガービー・チャルミスターン、ミヤーン・ジョーイ、アーイ・カラーン、タネ・モルグ、チャカーロー、ローコールマ、バンデ・ザルブ、バグラーム、そしてバーヤ・コーフを経て、ズィヤーラテ・ハージー村を過ぎ、ザルド・ベード付近の峠を越えて、山脈に沿ってタガーブ・ホルに下り、ここで北に向きを変える。
 西側の境界はスィヤー・ルール村に近いバンド・バルマに沿い、西へトゥーローク、マーフ・ボル、ポーラーリスターン、スィヤー・ラク、カッラー、テクマン・コーフ、シャーヒーナク、ジャヌール、チェル・チャヴァといった村々を過ぎ、ハイル・ハーナクに至る。そこから、モルガーブ川に沿ってバーラー・モルガーブの手前約二〇キロメートルの地点まで抜け、それからバンデ・トルケスターン峠を抜けてブーカーン村に至る。
p.122
 北は、カッラーーエ・ワリー、チャール・シーニヤ、カッラーーエ・ナウ・ダラ、トゥカール、ダハン・ダラ、そしてボル・チラーグがハザーラジャートに含まれる。
 北西はカーウォリヤーン村やドル・ダイ村を抜け、サリ・ポルの南約二〇キロメートル地点に至り、さらにハージャ・コーローム、バル・コーローム、そしてタンガーエ・コーフに沿っている(39)。
p.126
タガーウ……二つの山脈に挟まれた狭い平原、小さな谷で、幅広い川岸を持つ川がある。例えばタガーウ‐エ・バルグやタガーウ‐エ・カランダーイ。
ジョルガ……いくつかの川によってできた小さな低湿地、平原。ジョルガ‐エ・ヒールマンドやジョルガ‐エ・ゴルハールなど。
コル……幅の狭い峡谷。ドズド・コアルやコアレ・ルーラなど。
コビーあるいはナウ・チャーフ……洪水によってできた開けた土地。コアビ‐エ・チョークナやコアビ‐エ・ダウラト・パーイなど。
ナーヴァあるいはナーウ……いくつかの小さなコアルを含む広い谷。ナーヴァ‐エ・ミーシュ、ナーヴァ‐エ・バギーラーン、ナウ・ジョー、そしてダラ・ナーウなど。
トーガイ……川岸の草地の広がり。トーガイ‐エ・タバルゴーなど。
カーシュ……潅木に囲まれた山の泉(カーシュはハザーラギー語で「眉毛」を意味する)。
オルム……浅瀬、人が渡れるような川の浅いところ。サレ・オルムやペーラウ・オルムなど。
カンダロー……山や丘の麓。
p.127
アスカ……三方を川に囲まれた山の平原。サレ・アスカやダハーネ・アスカなど。
p.153
アライ ガル‐ガル ナク ディストマ ダ アシャ
ヤカク マハク ビスト アズ ショイ マ タシャ
alay ghal-ghal naku distma da asha
yakak makhak bisto az shoi ma tasha
ねえあなた 密やか静かにしておくれ 私は炊事でいそがしい
そっとキスして行っとくれ うちの旦那にばれぬうち
p.172
 一方ではハザーラ人のミール同士の争い、もう一方ではミールとウズベク人の「ベグ」やアフガン人の「ハーン」との間の戦いは、奴隷として自らを供することが生き残るための唯一の手段となるような状況をしばしば作り出した。
p.215
それはオロズガーン、スルターン・アフマド、ローティー、ハイダル、ミール・カダム、ダーヤ、フォーラーディー、ダンカ、ハージー、カールリーク、モハンマド・ダーバ、ニハール、バースィー、ダウラト・ハーン、ニーク・ムハンマド、アズィーズ、アスカ、タグローグ、ティームール、クーティーナ、ヒヤール、チョーパーナク、ミール・コリー、ダールー、バールラース、パンジパー、ミール・アーディーナシャーディー、タージーク、ノール・ビグ、ハージー・ハーン、ホルダク・ザイダ、マリキー、モリーディー、マカーナク、ゴラーム、ザーヴォリー[ザーブリー]、モラード、エナーヤト・ハーン、セ・パーイ、ホシュヌーである(42)。
p.235
ほとんど壊滅的な被害(約九〇パーセント)を受けた部族は、ダーイ・チョーパーン、ダーヤ、ポーラード(フォーラーディー)、アジャリスターン、チョーラ、オロズガーン、ザーヴォリー(ザーブリー)、パフラワーン、ボーバーシュ、ボーバク、スルターン・アフマド、シューイー、シーラ、ミーニシーンであった。また、ターラ、バルファク、グーリー、カーブリー・ハザーラ族も同様であった(89)。その他の激減した部族は、シャイフ・アリー、トゥルクマン、ダーイ・クンディー、カラバーグ、ジャーグーリー、ヤカーウラングであった。
p.240
このようにしてアフガニスタンに定住したパシュトゥーン人は、一般にサルハディー(境界の人々)、もしくはナキーリーン(移動させられた者)として知られている。
原註
p.89
(93) ラヴァルティによれば、「カルルクkarlukあるいはカルルグkarlughの名称は『雪の父』もしくは『雪に属する』を意味する」(Raverty 1988:281)。その一方で、ラシードゥッディーン・ファズルッラーは、別の意味を与えている。「ゴルとガルジスターンからヨルトの彼の故郷に戻る旅の間、オグズと彼の人びとは広大な山脈に出くわした。大雪のため、多くの家族は進み続けるのではなく、その場所に留まり、定住することを決めた。これは慣習によらないもので、オグズの好むところではなかった。というのも、彼らは大雪を再定住の受け入れられる理由とみなさないからで、それで、『雪の神』を意味する『カルロクqarluq』という新しい名前が与えられた。すべてのカルロク族がその子孫となったのは、これらの定住者たちからであった」(Rashiduddin Fazululla 1338/1959, Vol.1:34)。
p.87
シャフリスターニーによれば、ハザーラジャートのもっとも古い名称は、ガルシスターン、ガルチスターンもしくはガルジスターンである。ガルはファールスィー語で山を意味し、ガルジスターンは「山がちの」、あるいは「山岳地帯」を意味する。ハザーラジャートは後にゴルと呼ばれるが、ゴルもまた「山」を意味し、そのため、ゴルとガルジスターンはともに同じ場所を指す名称である。


■【現地ルポ】「私たちには夢があった」タリバン政権下で声を上げるアフガニスタンの女性たち
(AERA dot. - 03月18日 10:00)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=173&from=diary&id=6889985

 飛び立つ米軍機にぶら下がる人々の衝撃的な映像で、2021年夏に世界の注目を浴びたアフガニスタン。イスラム主義組織タリバンのカブール制圧と米軍の完全撤退で起きた悲劇を、国際社会はもう過去の出来事として忘れているようだ。しかし実際には市民の生活は悪化の一途を辿っている。米国内のアフガン資産が凍結されたことなどで経済が崩壊し、国民の半分は飢餓に直面しているのだ。抵抗勢力の戦闘が近く本格化するとの情報が飛び交い、タリバン暫定政権は大規模な家宅捜索などを実施し、取り締まりを強化している。女性の権利と自由を求めてタリバンに抗議デモをした10代、20代の女性たちもその標的だ。危険を承知でアフガニスタンに留まり、声を上げる女性たちに会った。


●「通りでよく男たちを殴ってたの」


 マリアム(24)がカフェに入ってくると、周りの空気が一瞬、揺れる。くっきりとした眉と長いまつ毛に縁取られた大きな瞳、ブラウン系のリップ、礼儀正しさと人懐こさが混じった微笑み。タリバンがカブールを制圧する前まではモデルクラブに所属していたということも頷ける華やかさがある。ベージュのスカーフは、彼女の黒髪だけでなく、秘めた闘志も巧みに覆っているのだ。


「何年か前までは、通りでよく男たちを殴ってたの」と言う。テコンドーの道場に通っていた18歳ごろのことだ。すれ違い様に手や足に触れる男たちが我慢ならなかった。「ちょっと待って」と呼び止め、殴った男に殴り返され、顔が腫れたこともあった。


「私たちには夢があった」。前政権の汚職にはうんざりしていたが、大学でビジネスを学び、「アフガニスタンのビル・ゲイツ」を目指していた。だからタリバンが復活したあの夏、「未来を奪われた」と感じ、いち早く逃亡したガニ大統領ら政治家に怒りが湧いた。


 アフガニスタンは多民族国家で、タリバンの主要な構成民族、パシュトゥン人は女性に関して極めて保守的だ。「タリバンはいい人たち」と語るパシュトゥン女性もいるが、タジク人であるマリアムには行動や教育、職業など女性の行動を厳しく規制するパシュトゥンの慣習はなじめない。


 友人のラムジア(22)たちが、女性の自由と権利を求めるデモをすると聞いた時、マリアムは「参加しなくちゃ」と思った。


「デモなんて、あばずれがやるものだ」。父はそう言い、弟たちも反対したが、マリアムは振り切った。


「ここは私の国よ。女性たちは互いの力が必要で、私にも責任がある」


 自分の可能性を試したいと夢に向かって歩いていたのに突然、道を塞がれて止められ、罰せられたようだった。「私たちの罪は何?」。プラカードにそう書いた。通りで見ていた男たちは「女がやることか」と嫌な顔をした。タリバン兵士に囲まれ、銃を突きつけられたり、催涙ガスを撒かれたりした。それでも女性たちはデモを何度も実行したのだ。



●「抵抗以外に選択肢がない」


 ある日の午後、カフェラテとチョコレートケーキをはさんで、マリアム、ラムジアの2人と話をした。


「外交官になりたかった」とラムジアは言う。大学では国際関係論を学んだ。しかし、タリバンが政権を握っている限り、女性が外交官になるチャンスはない。「命令されて、ただ家にいて結婚して、子供を4人産むだけしか許されない未来なんて、私はいや」。マリアムも頷く。


 デモ参加者たちは今、追われる身だ。「タリバンのスパイから尾行されているかもしれないから気をつけて」とラムジアはマリアムに忠告する。米CNNテレビのインタビューを受けたラムジアの親友は1月中旬、武装した男たちに自宅で拘束され、2月中旬に解放されるまで行方不明だった。


 地元ジャーナリストが人権活動家の話として語ったところによると、北部マザリシャリフでは、タリバンに拘束された複数の女性がレイプされた。事実だったとしても、家族の名誉を重んじる文化の中では被害が公になることはない。不名誉だとして、被害者が肉親に殺されることもあるのだ。


 マリアムとラムジアも、タリバンと名乗る男の声で「お前たちを見つけ出す」と脅迫電話を受けた。ラムジアは毎晩、寝る場所を変えている。デモもしばらく中断を余儀なくされたが、女性たちはこれで終わりにするつもりはないという。


「危険なことは分かっている。でも私たちには他に選択肢がないの」と2人は言う。「この国の未来に責任があると思う。もし国を出なければならなくなっても、国外でアフガニスタンのために働きたい」。


 ラムジアには、フェイスブック上でタリバンの友達がいる。タリバン内の最強硬「ハッカニ派」の有力者で35歳だと明かしたその男性は、カブール制圧前は、日々の戦況を自慢げに教えてくれ、「困ったことがあったら相談してくれ」とまで言っていた。ラムジアが実は大胆に行動する固い意志を持った女性であるとは、柔らかな笑みを浮かべたプロフィール写真から、彼は想像できないのだろう。(舟越美夏)


■ふなこし・みか/ジャーナリスト。1989年共同通信社入社。 2001年からプノンペン、ハノイ、マニラ各支局長を歴任。カンボジアの元ポル・ポト派主幹幹部、アフガニスタン戦争、スマトラ沖地震津波、ベトナムの枯葉剤被害などを取材した。19年に共同通信社退社。著書に『人はなぜ人を殺したのか―ポル・ポト派、語る』(毎日新聞社)、『その虐殺は皆で見なかったことにした』(河出書房新社)など。龍谷大学犯罪学研究センター嘱託研究員。


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