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2021年12月05日23:29

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さよなら、俺たち

金曜のNHKラジオ「高橋源一郎の飛ぶ教室」でこの本が紹介された。

いとうせいこうが書評にこう書いている。

桃山商事の清田代表といえば、主に女性たちの恋愛話を聞き取りながらそれを整理し、ジェンダー問題などを的確にとらえて話しあうといった活動で有名だ。私も何度かラジオで声を聞いたことがある。
 その清田代表が様々な媒体に書いたエッセーをまとめたのが今回の『さよなら、俺たち』で、このタイトルにメッセージの大半は汲み取られている。
 「僕たち」「俺たち」、と男性は同一性をもって集団化しやすく、ゆえに自分がジェンダーにとらわれていることに気づきにくい。だから無意識に他の性を抑圧してしまう。
 そのホモソーシャルな複数形から、「個人への脱皮を目指すためのプロセス」が本書であり、他人の話を聞く姿勢を根本とする著者は上からの断定や、独りよがりの結論を柔らかく避ける。というか、自らの中にも常に「男性性」が生じることを意識し続ける。
 したがって「さよなら」も日々言われ続けるのだ。

「さよなら、俺たち」というタイトルには、男連中が俺「たち」と複数で表現する仲間意識(俺もお前も男なんだし同じ考えだろ?)をやめ、個人の俺としてしっかりジェンダーに向き合おうという思いがこもっているんだろう。清田隆之をあまり知らないけどこの人は男のフェミニストなんだろうか?

ジェンダーに関する本はたくさん出ているが、その内容はほとんどが告発か謝罪が中心である。この本は、その範疇にとどまらず、こういったこと(ジェンダーの関する誤った認識)をこえて俺たちが成長していくための成長物語(*building romance)のような本。と高橋源一郎は言っていた。
*ビルディングロマンスとは、ゲーテ「若きウェルテルの悩み」やトーマス・マン、漱石「三四郎」のような若者が苦悩しながら成長していく物語のこと。


興味深い内容だったので、番組よりメモ。

12/3のNHKラジオ「高橋源一郎の飛ぶ教室」
《男性というジェンダーを見つめ直し見えたこと》
https://www.nhk.or.jp/radio/ondemand/detail.html?p=6324_01

ひみつの本棚(おすすめ本紹介): 清田隆之「さよなら、俺たち」

男性が男性であるために与えられている特権は、考えないで済んでいる、なんとなく許されている、そういうことになっている、といった形で我々のまわりに漂っている。だからそれが特権であることに気づかない。

★なにかと恋愛的な文脈に受け取る男たち
(たとえば上司が部下の女の子を食事に誘い、断らなければ「おれに気があるんだ」と受け取る)
★決断を先延ばしする男たち
★人の話をきかない男たち
★謝らない男たち
★女性の身体について無理解な男たち
★男同士になるとキャラが変わる男たち
★話合いができない男たち・・


《男を心地よくさせる「さしすせそ」(会話うけ)》

 さすが〜!(大げさにほめる)
 しらなかった〜!(知ってるときは「もっと詳しく知りたいので教えて」という。)
 すごーい!(おおげさに持ち上げる)
 センスいい!(彼がなにか新しいものを持っていたら誰よりも早く気づいてほめてあげて)
 そうなんだ〜!(しっかり聴いていることが伝わって彼が話しやすいよ)

以上、ローティーン女子向け雑誌モテ女になるためのノウハウ特集に書かれていた内容とか。私もこの「さしすせそ」については何かの記事で読んだことがある。

男とは、ほめられるのが好きでおだてられると気持ちよくなり、女になにかを自慢したり教えたくなる生きものなのだ。だから女は率先してその意図をくみとりさりげなくその欲を満たしてあげましょう、と。

思うにこの「さしすせそ」は、古今東西の女たちが膨大な経験則から導き出した最適解なのではないか・・
男とはその程度の無自覚な生き物だからそうやって気持ちよく過ごしてもらいましょう、みたいなあきらめにも似た女たちの姿勢を感じる。と。

著者は、早稲田大学在学中に恋バナ収集ユニット「桃山商事」を立ち上げ活動。そこでさまざまな恋愛相談を通して、現代の恋愛のカタチを研究。
本作では男と女、男性性と女性性の違いという枠を超えジェンダーの問題を誰でも思い当たる事例をまじえて分析している。

《俺たちは気づかないうちにセカンドレイプをしていないか》

著者は大学のとき友人の女の子からこんな相談を受けた。彼女はバイト先の先輩から非番の日に一緒にゲームしようと誘われ彼の家に行った。一緒にゲームを楽しんだあと帰ろうとすると背後から抱きつかれて怖い思いをしたという。相談された自分は彼女に「どうして一人暮らしの男の家に一人で行ったりしたのか?」と彼女の軽率な行動を非難するような発言をしてしまった。たぶんおおかたの人は自分と同じような意見をもっているはずであるが、これこそが彼女をセカンドレイプしているのである。
悪意は全くなかった。彼女のためによかれと思って、程度の意識でその言葉を彼女に投げたのだった。しかし当時の自分の感情や意識を深く掘り下げて分析してみると、さまざまなほの暗い感情が入り混じっていたことに気づく。
どんな意識だったのか?実は自分は彼女に好意をもっていた。その片思いの相手が自分以外の男の家に一人で行ったということへの怒りや嫉妬。自分が認めた男以外全部クズだという決めつけ、自分はこれほど彼女を大切に思っているのになんでそんな男が先に手を出すんだという謎の被害者意識。俺なら絶対彼女を傷つけないのにという自己アピール、その他にもミソジニー(女性嫌悪)やミサンドリー(男性嫌悪)など・・がその言葉の背景にあった。
しかし多くの男(俺たち)そんなこと考えもしない。いわゆる判で押したような言動が繰り返されるその背景には男がそういうこと(セクハラやセカンドレイプをしていること)に気づかないで済んでいる社会の空気がある。

清田氏は目下妻との間にできた双子の赤ちゃんを育てているらしい。その赤ちゃんに乳首を吸わせて男の中にも確実にある母性を認識するのだという。

人間のことをHuman beingというが、Human doing ともいう。
Human being ただ生きていること
Human doing  男である、お金を稼いでいる、なにか社会的属性をもって生きていること
赤ん坊はただ生きている。ただただ呼吸し食べ排泄しなんの欲もなく生きている。男でも女でもない。ジェンダーフリー。人はもともとそのような存在である。
赤ん坊をみているとそのことを強く感じる。人間はみなHuman beingであるべきだ。






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