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2021年11月19日23:22

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鮮明性




話さないから分かる。離れないから通じる。





仕事が終わったタイミングでほとんど皆既月食のピークだった。帰り道できょろきょろしている人が居て同志かと思ったら探し物はタクシーだったらしい。月マニア(あるいは月食マニア?)らしき人がカメラで撮っている姿も見かけた。これも同志ではない。いったん帰って、洗濯機に洗い物を任せ、エビスビール1本と先週海に行ったときに買って食べなかった裂けるチーズ(プレーン)1本と煙草と携帯灰皿とスマホを持って近所の公園へ。ゆっくり眺めるのはとても良き。目を落とすと車の流れや帰路についているだろう人の営みも同時に見える。

光量を主張する部分と無い部分のコントラストに焦点が当たりそうになる。ただ、僕の目は、光量がないことによって輪郭がはっきりするところを見ていた。月食部分は赤みを帯びていて、光という衣を脱いでほんとが見られてしまうことに照れているように読めて、とても可愛らしい。目を離してしまうと分からないくらい微々光量部分を眺める。営みの流れから離れてこれこそが「時の間」に在ることなのだろうなと感じる。なんと良きタイミングで意識がある存在で在られたことか。時間は過ごすものではなく意識できる間に在るだけ。

何故か郷愁というか、還りたいと想ってしまう不思議。少し1人きりで眺めて、もう1人同士がやってきた。邪魔をしないように退散。同志とは話す必要がないしきっと1人で眺めたいはず。

仕事の雑談ではイベント事として語られていたが、これだけ満喫したのは仕事場ではきっと僕だけ。楽しい。僕は僕の意識で存在することを肯定して良い。

(歌人とラムの取り合わせってなんだかカッコイイ。元気がなさそうなのがちょっと気になるところ。)

さておき。

クリスマスと年末が近くなったことにより、仕事の雑談が食に移る。食も娯楽産業の消費物なのだろうなという感じがして胃がもたれる。たしかに美味しい物を食べるのは嬉しいこと。ただ、これは「美味しいとされている物」を消費することとは別物であって、こんな消費の仕方をしていると体に備蓄されてしまうのでは。備蓄は当人の話だからともかくとしても、では普段食べている日常のご飯はなんなのでしょうということになる。

普段のご飯を栄養補給とか食欲の満足としか味わえない人が、贅沢品の「味」が分かるのはそうとう難しいのでは。味わっているのはご飯でなく雰囲気だと思われる。という意味で、僕は別にご当地品はビール以外気にしないし、イベント事で何かを食べるみたいな習慣もなくなった。前者はご当地の味わいは食ではなく空間で十分だし、イベント事にも無理に合わせる必要はない。関西のおせちの「くわい」はご時勢ものとして好き。おせちも食が不足していた時代の名残ではという気がしていて、なんとも。別に水を差す気はないし、普段は言わない。クリスマスもキリスト教の記念日由来だし。

たしかに幼少期、普段食べているものと違うものを食べられるのは嬉しかった。外食とかカップラーメンとか。これは食に対して精神性が幼いため。自分の体を作っているのは普段の食なことが分かっていない、ただの味の変化に波打つというだけ。現代社会ではここの成長は求められていないから問題ないとしても、何かの既得権益の何某みたいな気がしないでもない。最低限食べていたらそれ以上は普段ですら娯楽領域のはずでは。まぁ人間の体のプログラムがあんまりアップデートされていないのもあるだろうな。糖分はあるだけ採ろうとする感じ。

甘さが味覚上の快感だとすると、僕の味覚はビールとかブラックコーヒーの中にも甘さを感じるようになっている。洋酒も嗜もうかしらと思うが、洋酒の酔いで文章書けるのか。

味わうと食べるは全然違う概念なのかもしれない。先輩男子と女性上司の雑談は今日何を食べるかが毎日繰り返されていたが、食べるというのは消費者の言葉。どういう風に生産者が作ったのかとか調理したとかは見えていない。見ないようにしているだけかもしれない。見ようとするのは無駄な脳の消費になる。味わうは存在として承認すること。お金払っているから良いだろうとはならない。

誰かが作ったご飯が美味しいのは、対価なく自分に作ってくれたこと自体なのだろうな。過去の僕は感謝が足りてなかった。というか、そこに感謝しなくて良いという社会規範に従っていたというか。味として美味しいから価値があるとかそんな話ではない。僕が作る側だったら、駄目出し、リクエストは何でも受け入れそう。相手が美味しいように作りたいもの。

食に対してこだわりはなく、寛いで作っているからそれくらいの余白はある。
ある物でなんとなく感覚的にやっているだけ。

むかーしは、食に関するこだわりはアイデンティティの一部であるという規範があった。でも、そんなところにほんとの人は居ない。これはあくまで自分がアイデンティティだと思い込んでいるその人のことであって、そんなところ守っても窮屈になるだけ。目玉焼きに何をかけようが存在は揺らがない。

譲り譲られで言えば譲る方が上手ではある。

やれやれ。

自分がいそいでいるという実感は特に早くなっていないということがやっとわかって来た。文字を打つこともそうだし日常でもそう。淡々と進めた方が早く終わるから、意識の挙動は連動していない。一致していないと言っても良いのか。

ここで、「線は、僕を描く」の「現象を追うには手は遅すぎる」というフレーズ。文章を書いていてずっと思っていたことだが、絵画も似たようなものなのか。これは1つの真理なのかもしれない。このフレーズでいう「手」は「意識」と互換性がある。だから空間とか時間を切り取る芸術的技法とか、学問が発明された。

意識=世界は無常で、それを人は認識できないため、なんとか自分のものだとみなすために可視化する概念を諸々作っている。短歌とか俳句の芸術もそうだろうし、現実的なモノサシのほとんどもそう。時間も空間も常識も範疇か。

この週末は水墨画展に行こうと調べてみたのだが、全然やっていない。ただ、画像データはあって、たしかにモノクロの中に色があった。僕が見たのはおそらく水辺の桜で、桜はたしかにピンクの色が付いている。凄い技術だというより、よく見えるようになったものだと捉える。芸術学曰く、芸術の様式は、見える人にしか見えないらしいし。そこに美を感じない人にとっては幽霊でしかない。

他人にとって幽霊であったとしても自分にとって実存であればそれで良い。
幽霊と実存の違いは、定義としては存在に影響を受けるかどうか。幽霊はすり抜けるから衝突しても問題ないが、実存だと直進したらぶつかってしまうから、自分が余計に動かないといけない。

ここを物理だけに置いていないというだけ。

なんかもっと自分の実存から離れてできる気がするんだよな。
対価とか知らないし、何かが在るから僕で居られるという訳でもないし。

という意味でいうと、僕は誰かが自分に対して価値を置いているかどうかが上手く見えないのかもしれない。消費物なのか存在なのかとか、僕の実存まで見ようとしているのかとか、好意とか。僕の実存は文章ほど書かれないから面白みはないと思うが。

最終的にはそんなことも気にしないで自分の為に生きることが大事。


はい、おやすみなさい。

良い夢を。

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