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p.359
これによれば対応の形はKarl, Ingjald, Farulf, Vermund, Hrollaf, Gunnar, Harold, Karni, Frithleif, Hroarr, Angantyr, Throand, Leithulf, Fast, Steinvithである。
p.366
馬の頭蓋骨から這い出した蛇に咬まれて死ぬという話はノルウェーからルシに渡来したものという(クロス)。他の伝承では、オレグが蛇に咬まれたのはギリシアからの帰途野原を通っていた時のことになっており、しかもオレグはキエフに帰還したのちノヴゴロド、更にラドガへと赴き、九二二年にそこで死んで、墓もラドガにあるとされている。
p.376
3 【イヴォル】クロスの復元した表記に従うとIvarである。以下も同様。
4 【ヴェファスト、……カニツァル】それぞれVefasut, Isgaut, Slothi, Oleif,Kanitsarである。
5 【ウレヴ、……シフベルン】…しかしほぼ規則的に一つおきにスラヴ語の物主形容詞の接尾辞とみられる形の語が現われること、スカンディナヴィアの対応形からこれらの要素を除いたものが語幹と推定されること、同一の人名とみなされるものでこれらの要素を伴うものと伴わないもののみられることなどから、これは前に立つ語を修飾していると見るのが妥当である。…なおシフベルン、スファンドル、ウレブはそれぞれSigbjorn, Svanhild, Oleifである。
p.377
6 【トゥルドからのブラステン】それぞれThorth, Freysteinである。
…
8 【スフィリクからの……カルシェフ】それぞれSverki, Grim, Haakon, Freystein, Stoething, Kari, Thorth, Karlsefniに対応するという。
…
11 【アミノドからの……シブリド】それぞれAmund, Eistr, Bjorn, Freystein, Gunnar, Yatving, Halfdan, Sigfridに当る。
…
13 【スフィルカ、……ムトゥル】それぞれSverki, Guthi, Hallvarth, Throand, Frothi, Ut, Munthorに当る。
p.378
14 【アトゥニ、……イグギヴラド】それぞれAuthun, Authulf, Ingivaldである。
15 【オレブ、フルタン】Oleif, Frutanである。…
16 【ゴモル、……チレナ】それぞれGamal, Kussi, Heming, Thorfrid, Thorstein, Bruni, Hroald, Gunnfast, Freystein, Ingjald, Thorbjorn, Manni, Hroald, Svein, Styr, Halfdan, Tirrに対応する。
…
18 【ヴズレフ、……ボリチ】それぞれVisleif, Sveinki, Borichに当るとされる。
p.393
3 【ヤスィ】サルマタイ起源のイラン系種族。一世紀以後アゾフ海沿岸地方と北コーカサス地方に住み、その一部は民族の大移動に加わっている。オセット人の子孫。アラヌィ人。
4 【カソギ】北コーカサス地方にいた起源を同じくする多くのアドィゲ諸族の総称。ロシアの年代記ではカソギ、西欧や東洋の史料では中世以来チェルケス人と呼ばれた。現在のアドィゲ人、カバルタ、チェルケス人。
p.399
ドネプルの浅瀬で河口から三百キロほどさかのぼった地点で、現在のドネプロペトロフスクとザボロジエ(浅瀬の彼方の意)の間にあった。…それによれば大きな浅瀬が七箇所あった。ルシの商人は船から降りて岸に沿って船をひっぱったり、最も困難な箇所では船から荷物も下して、船を岸に上げて運んだ。遊牧民にとってはこれが絶好の攻撃のチャンスであり、ルシの商人にとっては最も危険な道中であった。浅瀬を無事に乗り切ると、彼らは河中のホルチツァ島にあがって聖なる樫の木に犠牲をささげて祝った。この浅瀬の名称はスラヴ語と「ルシ」の言葉で書かれており、「ルシ」の言葉が明らかにゲルマン系の形をしていることからノルマン説の根拠の一つになっている。
p.402
もう一つの伝説はヴラヂミルがログネヂをゴリスラヴァと呼び、また彼女はヴラヂミルの他の女たちとの関係を怒り、彼が寝ている間に彼を刺し殺そうとするまでになったと伝えられている。
p.403
ペルンは稲妻と雷の神であり、六世紀のビザンツの歴史家プロコピオスがすでにアント族の神として指摘している。…
ホルスとダジボグは太陽の神であり、平安の神である。ストリボグは風の神である。(『イーゴリ軍記』では風が「ストリボグの孫」と呼ばれている)。シマリグルの性格ははっきりしない。イラン語のシムルグに一致するともいわれている。モコシはモクシ・エルジ族の名称と関係があるのではないかといわれている。
p.404
しかしこれらの諸神が各種族の地方的伝承に深く結びついている以上、完全な宗教的統一は不可能であり、より普遍的な神を信仰するキリスト教による統一がキエフ大公の権威を高めるために必要となってくる。
p.405
2 【ヴャチチ】 ヴャチチはスヴャトスラフ[03]により九六五年頃一時的に貢税を課せられたが、十世紀に最も北東にいたスラヴ人の種族であり、現在のモスクワの南、オカ川の上流地域に住んでいた。
p.406
従って彼らはヴォルガ流域のフィン人とも相接しており、ロストフ、スズダリ地方に最も早く移住したスラヴ人の一つである(クロス)。…
九八三年
1 【ヤトヴァギ】 古リトアニア族の一つで、現在のリトアニア、白ロシア、ポーランドの国境のあたりに住んでいた。ヤトヴァギはこの時期にはプリペチ川の北、西ブグ川下流とニメン川上流の間に住んでいた。
p.407
ヴラヂミルに対する古い『ヴラヂミル讃』はヴォルガのボルガリを示唆しており、ヴラヂミルの「銀の」(つまりヴォルガの)ボルガリへの遠征が語られている。しかし船と馬による二つの道のことが記されていることからすれば、むしろドナウのボルガリに対する遠征について物語っているようでもある(ヴォルガのボルガリを船で攻めることはできなかった)」『十一世紀-十三世紀のキエフ・ルシの散文芸術』三〇〇頁。
p.441
神学的には正統派を標榜、ロゴスなる神は完全な人性を取ったが、肉体を取ったのは神の二性のうちの一つだけであると主張。…彼のキリスト論は「位格」を表わす語に「本性」を用いたため単性論者から典拠として利用され、しばしば異端の嫌疑をかけられたが、エフェソス教会会議(四四九)、カルケドン公会議(四五一)、コンスタンティノポリス公会議(五五三)で彼の正統性が確認された。
p.444
年代記の内容に最も近い十四世紀のシノド写本『ネムツィの誘惑の話。いかにして彼らを異端者の口下手のペトロスが唆したか』は、有名な妖術師シモンの伝説に基づき、東西教会分裂後使徒の教えに背いたラテン人の異端的言動を非難するために創作されたものと考えられる。…一二八四年リャザン写本『寺法類篇』の「口下手のペトロス」はアレクサンドリアの主教で、これとは無関係。
p.450
1 【高地】 高地と呼ばれたのは、ノヴゴロド(ノヴゴロドではキエフを低地と呼んだ)、ないしスモレンスクの地、その他。
p.452
しかしリハチョフは「ヴラヂミル[06]の死はスヴャトポルクの利益のために隠された。人々が死を隠したのは、スヴャトポルクがキエフにいて、そう指図する権力を持っていたからである」と解釈すれば、年代記のテクストのままで理解できるという。(リハチョフ)
p.460
3 【ベレスチエ】 西ブグ川沿いにある現在のブレスト・リトフスクのことである。
p.461
スミルノフは、トムトロカニというのはケルチ海峡からクル川に広がる遠い未知の地域のことであり、そこには時折ルシの公が家臣とともに攻め入って、カソギ、ハザールやその他少数の部族から戦利品を奪うことはあったが、そこに町を築いたことはなく、まして公国などなかったとしている(「トムトロカニとは何か」参照)。
p.466
一〇五一年
1 【マゾフシャネ】ポーランドの北東部、ヴィスラ川とブグ川の合流地点で現在のワルシャワ近郊に居住していた。彼らは当時プルシ、リトヴァ、ヤトヴャギと絶え間のない争いを続けていた。…
一〇四二年
1 【ヤミ】当時ラドガ湖と北ドヴィナ川の間の地域に住んでいたフィン人で、スラヴ人の移住に圧迫されて、その地域に移ったと思われる。十三、十四世紀にフィンランド南部にあらわれるが、ラドガ湖北東部にヘム(湿った、水の)という要素をもつ地名が多いので、これから訛ったと考えられる「ヤミ」が昔はそこに住んでいたと考えられる(クロス)。
p.468
1 出生の時の大網膜(羊膜)を保存し、それを護符のように身につけていると魔術使いになるという「ベナダンティ」がキリスト教以前の多産の儀礼として、ヨーロッパ諸国では根強く残っていた。大網膜(羊膜)を被って生れた者は魔力を持ち、狼人間に変身するというスラヴの民間信仰も、これと関係があると思われる。『イーゴリ軍記』、ブィリーナなどにみられる狼人間としての「フセスラフ伝説」と、この原初年代記のフセスラフ[L]に関する記述は密接な関係があると指摘されている。(クロス)
p.473
1 【ゴリャヂ】第一千年紀から第二千年紀初めにプロトヴァ川流域のヴャチチとクリヴィチの国の間に住んでいたバルト族。東スラヴ族に同化。
p.477
14 【ルサリィ】古代スラヴ人の死者追悼祭であり、ルサルカと関連があったと思われる。
p.478
ヴォジャネはフセスラフが保護を求めたフィン系の民族。
p.479
7 メリニコフは『モルドヴァ族探訪』の中で次のように記している。
p.480
我々の考えでは、この儀式によりこれまで解釈できなかったネストル年代記のある箇所が説明される。この集りのためにビール醸造人と村長が向かう村では、既に前もって彼らがいつやって来るか知っており、女たちは前日のうちにその準備を整えておく。…ビール醸造人と村長は家に入ると戸口のところで立ち止まり、一人は皮の上着を、もう一人は犠牲を捧げるためのナイフをかざして大声でチャム・パス、アンゲ・バチャイ、ユルトヴァ・オザイスへの祈りを唱えた。すると年長の女が小麦を入れた袋の紐を両手で持ち、それを自分の裸の肩ごしに投げかけ、振り返らずに後向きに戸の方に後ずさりした。このようにして彼女が徴集人たちのところに近付くと、ビール醸造人は彼女の背中のところに聖なる大桶を支え、村長はアンゲ・バチャイへの祈りを唱えながら一方の手に袋をつかみ、もう一方の手で彼女の肩と背中を軽く五回刺し、そして細紐を切り離した。袋は桶の中に落ち、紐の端は婦人の手の中に残った。
p.498
クドリャショフによるとヴラヂミル・モノマフ[D1]がポロフツィを追撃した道順、即ちまずトルチスクへ、その後ユリエフへ、そしてついにはクラスナ川で敵軍を破ったという道順から考えると、トルチスクはユリエフよりも南方であったと考えねばならない。ポロフツィが一〇九三年にトルチスクを包囲した時、ルシの諸公はキエフから彼らに対して出征し、まずストゥグナ川を渡り、トレポリを過ぎ、土塁を突破したが、ポロフツィに敗れ、ストゥグナ川の向こうやトレポリ方面へと敗走した。ポロフツィはこれを見て「トルチスクに戻った」とあるので、この記述に従えば、トルチスクはストゥグナ川およびトレポリより南方にあったことになる(クドリャショフ『ポロフツィの草原』一九四八年 一三五頁)。
p.499
12 キエフ公国の南側の国境に建造された防備土塁を指している。ストゥグナ川の流域には三つの要塞の跡があり、一つは北岸、一つは南岸にあり、最も遠いのがクラスナ川の北岸にあった。
p.500
皇帝はトゥゴルカンおよび一〇九六年の項に名の見えるボニャクに助けを求めた。二人はポロフツィを率いてやって来ると一〇九一年四月二十九日ペチェネギを壊滅させた。
p.514
38 【人より】ウネイン。カラムジンはこれをカバルダ語ウンナの派生語とみなし、これを「家」と考えている(『ロシア国史』第二巻)。
p.542
3 【ステニ】リハチョフは、『古代文献資料』(十一-十二世紀)の原初年代記の注の中でクドリャショフ説を紹介しているが、それによると、現在のザボロジエ州にあって、アゾフ海に注ぐマロチナヤ川を指すという。…
…
8 リュベチ会談でスヴャトスラフ[C]の子ヤロスラフ[C5]がムロム・リャザンの地を領有することになった。ここはヴォルガ川に沿ったフィン族の居住地の北西の端に位置しており、モルドヴァもその一部族である。彼らは本来オカ川の南岸に沿って居住していたらしい。(クロス)
■クリミア半島併合…鉄道事情の変遷から感じられる「ロシア支配のリアル」
(まいどなニュース - 09月25日 21:00)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=262&from=diary&id=6680256
「クリミア半島はウクライナかロシアか」…。ロシアがウクライナ南部のクリミア半島を併合してから7年が経ちます。遠い国のお話に聞こえますが、ロシアとの間で領土問題を抱える我が国にとって決して無視できない事柄です。鉄道事情の変遷からも、ロシアのクリミア半島支配の実情がリアルに感じられます。
【写真】ウクライナ最大の駅、キエフ駅
多くの国々が反対している「クリミア併合」
クリミアの面積は約2万7千平方キロメートルとなり、日本で例えると九州と四国の間になります。黒海に面しており、ウクライナとは地続きになっています。一方、ロシアとは地続きになっていません。
クリミアは昔から目まぐるしく領有者が代わり、現在はウクライナとロシアの間で領有権争いが発生しています。
第二次世界大戦後、クリミアはソビエト連邦ロシア共和国に属していました。1954(昭和29)年、フルシチョフ第一書記がクリミアをロシア共和国からウクライナ共和国に移管しました。当時はウクライナもソ連に属していたので、大きな問題にはなりませんでした。
1991(平成3)年にウクライナがソ連から独立すると、クリミアは「クリミア自治共和国」としてウクライナ領になりました。当時からクリミアにはロシア系住民が多かったのですが、ロシアも「クリミアはウクライナ」という事実を認めていました。
2014(平成26)年にウクライナで起きた「マイダン革命」の混乱に伴い、クリミアでは一方的に独立ならびにロシア連邦への編入が決まりました。ロシアは「クリミアの人々の意思を尊重する」としていますが、クリミアの混乱はロシアが介入したことから、多くの国々がロシアによるクリミア併合に対して反対しています。
現在、日本政府はクリミアをウクライナ領としていますが、ロシアは実効支配をしています。
ウクライナが統治時のクリミアの鉄道事情
クリミアは観光地として知られ、地政学的にも大変重要なところです。そのためクリミアには鉄道路線が敷かれています。
ウクライナが統治していた2010年版「ヨーロッパ時刻表」でクリミアの鉄道事情を確認してみましょう。当時、クリミアの鉄道はウクライナ本土とつながっており、中心都市のシンフェローポリを通り軍港のセヴァストポリに至る路線とエフパトリアに至る支線がありました。
セヴァストポリ行きはウクライナの首都キエフ発はもちろん、モスクワやベラルーシの首都ミンスクからの列車もありました。またベルリンからの直通列車もあり、EU圏とクリミアとのつながりがあったことを当時の時刻表は証明しています。一方、クリミアとロシアの間にあるケルチ海峡を結ぶ鉄道はありませんでした。
ロシアの実効支配で…ガラリと変わった時刻表
クリミアがロシアの実効支配を受けてから、鉄道はどのように変化したのでしょうか。2020年版「ヨーロッパ鉄道時刻表」を見ると、ウクライナ本土とクリミアの間で鉄路が切れていることが確認できます。もちろんキエフからクリミア行きの列車は運行されていません。
一方、ケルチ海峡には鉄道路線が開通し、モスクワやサンクトペテルブルクからセヴァストポリ行きの直通列車が運行されています。
ロシアはロシア本土とクリミアを結ぶ「クリミア大橋」の建設を2015(平成27)年からはじめました。この橋は鉄道道路併用橋となり、鉄道は2019年12月に完成しました。つまり、クリミアとロシア本土が鉄道と道路で直接結ばれたのです。
2021年9月時点のロシア鉄道の時刻表を見ますとモスクワ、サンクトペテルブルクの他に北極圏にあるムルマンスクやシベリア鉄道の主要駅オムスクからの直通列車も設定されています。
個人的にはシベリア鉄道とクリミアの旅が一度に楽しめるのはとても魅力的に映るのですが…。しかしコロナ禍が終了しても、日本はクリミアをロシア領とは認めていないため、当地への旅行は控えたほうがいいのでしょう。
(まいどなニュース特約・新田 浩之)
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