mixiユーザー(id:19073951)

2021年07月18日09:12

232 view

背負わせすぎ

先日公表された、東京オリンピック/パラリンピックでの開会式音楽に起用された小山田圭吾が、過去に障害のあるクラスメートにいじめを行っていたこと、そしてそのような過去を持つ音楽家を登用してよいのか?と、物議をかもしている。

田中知之、小山田圭吾が開会式の音楽を担当すると耳にして、まず思ったのは「彼らで大丈夫なのだろうか?」ということ。
何も彼らの音楽性に問題があるというわけではない。
むしろ、その逆で、若い頃は彼らの音楽を積極的に聴いていた。
いわゆる「渋谷系」のプロデューサー、アレンジャーとして、実にセンスのある音世界を構築していた彼らのことは、高く評価していた。

それだけに、彼らには、自由な立場から自由な音楽を作って欲しいと思ったのである。
誰しもが経験できることではないオリンピック開会式の音楽を担当するということは、同時に権威と体制の側に組する、伍するという側面も持つ。
彼らには、そういう権威や体制とは無縁のところで、自由な音楽創作を行っていて欲しい。
そう思ったのだ。

続いて目に入った記事の続きが、例の、過去のいじめ問題だった。
もちろん、いじめ自体は、決して許されることではないし、自らの行ったことにはきちんと向き合う必要や、反省すべきことや謝罪すべきことは多々あるだろう。

しかし私は、個人の属性と、作品の価値とは、切り離して考えるべきかと思う。

音楽やオリンピックといった、一種「象徴的」なものに対し、音楽やスポーツ以外の要素を背負わせすぎなのではないかと、常々考えている。
オリンピック/パラリンピックが持つ崇高、壮大なイメージに便乗して「東日本大震災からの復興」あるいは「コロナの脅威に打ち勝つ人類の英知」だの、または商業主義だの、本来の理念や目的を逸脱した、「いかなる差別をも伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあう」という本来の目的以外の要素を、あまりにも背負わせすぎなのだと思う。

オリンピック同様に、それ以外の要素を背負わされがちな音楽についても、「音楽と,音楽から生じる音楽以外の要素に,いかに折り合いを付けるか?」と言う長年の疑問に答えを見出したい。

音楽に音楽以外の要素が介入することは,危険をはらんでいるケースもある。
ワーグナーの音楽がナチスの国威発揚のプロパガンダに利用されたように,音楽には良くも悪くも、エモーショナルな情動を喚起するという魔力が常につきまとう。

作曲家,音楽家の意図とは関わらず,時に真逆の意図をもって音楽が用いられるということもある。
例えば,アメリカ国歌"God save the America"やフランス国歌"La Marseillaise"(フランス革命の革命歌)には国家成立に向けた理念や意志が明確に込められているが,「君が代」にはもともと「親しい相手の長寿を望む」という程度の意味しか無かった。
普段,「国家?国歌?そんなの関係ねえし」などと思っているだろう若者が,ワールドカップの試合前に,敬虔に頭を垂れて「君が代」を聞き入る姿に,ものすご〜く違和感を覚える。

音楽の取り扱いには,時に慎重を期さねばならない場合もある。
「音楽はただ音楽として存在すべき,そこに政治的意図や宗教,情動など,音楽以外の要素を介入すべきではない」とするハンスリックらの音楽の純粋性についての主張は理解出来るし,私もどちらかと言えば心情的にはそちらに近い(あくまで,「どちらかと言えば,こっちかな」という程度(^^;)。

しかし同時に,音楽はその出自からして,祈り,願い,思慕,恋愛,呪術,宗教などといった,音楽以外の要素を切り離して考えることは出来ない。
豊かなエモーション,情動が創作の源となり,そして出来た作品が,それを聴いた者のエモーショナルな情動を良きにせよ悪しきにせよ喚起させることもまた事実なのだ。

「音楽」と,そこに光と影のように常に不可分一体のものとしてある「音楽以外の要素」に,どう折り合いを付けるか?

私は、音楽自体に罪があるのではなく、音楽を「運用」する仕方、あるいは、音楽に音楽以外の要素を背負わせる、その「背負わせ方」に問題があるのではないかと考えている。

やはり、音楽家の属性と、作品の価値とは、切り離して考えるべきかと思う。
15 14

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2021年07月>
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031