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2021年07月03日22:47

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『玆山魚譜』の日本語訳についての李教授の研究

成川彩さんによると李文雄ソウル大学名誉教授は、以下のように語られたとのことだ。

「李文雄教授によると、鄭文基氏は二度にわたり渋沢敬三に原稿を送っており、最初は原本を整理したものと序文飜訳、二度目は全訳、それぞれ二部作って自身でも保管。それは釜山の海洋博物館にある」

この内容には、驚くべき新事実が含まれているのだが、間違いもある。

まず、「最初は原本を整理したものと序文飜訳」を送ったというところ。
鄭文基が渋沢に送り、現在、横浜の中央水産研究所に所蔵されているのは、原本を校訂した漢文の原文と、「日本人読者に向けて日本語で書いた序文」である。
鄭文基は、のちに韓国語版を出版することになった時に韓国人の読者向けに韓国語の序文を書いているが、この内容はまったく異なるものである。だから、送られた序文は、序文飜訳ではなく、初めから日本語で書かれた日本語序文だ。

次に、新事実と思われるのは、日本語訳文を二部作っており、一部は渋沢に送り、それが横浜にあるということ。そして、もう一部は、釜山の国立海洋博物館にあると言うこと。

今回のインタビューで語られたような内容を李教授はどこかに発表されているのではないのか?と調べ始めたところ、それに相当する文章が見つかり、ネット上で読むことが可能だった。
https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART001892404
『玆山魚譜』 출간의 산파역 鄭文基와시부사와 케이죠[渋沢敬三]
『玆山魚譜』出版の産婆役 鄭文基と渋沢敬三 
という2014年の論文だ。オンライン日韓翻訳ではもっとも信頼できるPapagoで概要を把握したところ、成川さんの返信内容とはかなり異なることがわかった。

李教授は、鄭文基の書いたハングル版の序文、および回顧録に「日本語に翻訳し、原稿と序文を解放直前に渋沢敬三に送った」という記述があったことから、渋沢に送ったのは日本語訳だと思っていた。
そして、韓国で出版された韓国語訳の本を携えて、渋沢資料館を訪ね、その日本語翻訳本について説明したところ、「初耳だ」と特別の関心を示された。
일본어번역본에 대해 설명했더니 금시초문이라면서 특별한 관심을 보였다.
渋沢政英理事長(渋沢敬三の息子)も聞いたことがないと言うのだ。

そして、父親の書籍のほとんどを流通経済大学に送った。また、父が設立した「アチックミュージアム」を受け継いだ神奈川大学の日本常民文化研究所に送られた可能性もあると言われた。そこで、李教授は常民文化研究所にも足を運び、流通経済大学にも問い合わせたが、鄭文基の送った原稿と思われるものは見つからなかった。

2013年、黒山島を訪れるツアーに参加し、丁若銓の研究者である林松牧師に出会ったことで、再び、日本語訳探求の情熱に火がついた。ある日、民博のアチックミュージアムを特集した展覧会の図録にある渋沢の年譜を見ていたところ、「渋沢は大蔵省長官を退き、漁業史関係図書を東京帝国大学農学部に寄贈した」という記述が目に留まり、東大の知人を通じて、鄭文基の日本語訳の所在を探したところ、この資料は東大から水産庁を経て、現在は中央水産研究所にあることが突き止められた。
中央水産研究所に所蔵されている資料目録には「原本は1814年の著作であるが、これは昭和20年1月鄭文基の写本である」と記されていた。また知り合いに、この資料の本文の前後のそれぞれ二つのページずつ、そして序文はすべてのコピーをしてくれるように頼んだ。
こうして受け取った資料を確認すると、それは、『玆山魚譜』の複数の筆写本を総合して編集した新しい版の筆写本で、240字(10×24)原稿用紙にペンで清書した原稿(計124ページ)5)とともに別に200字原稿紙に書いた序文(計14ページ)だった。
また、この序文の最後には「昭和20年(1945)1月3日、「鄭文基書」と書かれ、赤印の印章も押されていた。
つまり、解放直前に鄭文基が送ったという原稿は日本語に翻訳された原稿ではなく、自分が新しく編集した『玆山魚譜』の筆写本と、日本語で書いた序文を指すものだった。

ところで、1977年に出したハングルの翻訳本『玆山魚譜』の訳者の言葉として、鄭文基は、「所蔵者がそれぞれ異なる『玆山魚譜』筆写本を整理して新しい原本2冊を作成し、新しい原本を日本語に翻訳した後、漢文を東京に住む渋沢に送った」と書いている。
また、解放後の6年に再び東京の渋沢を訪ねた時、渋沢は歓迎してくれ、書斎で『玆山魚譜』もここにありますよ」と探して見せてくれた。これに対し、鄭文基は「日文翻訳も解放直前にすべてできている」と報告した。時局が定まったら出版することを話した後、お別れした。その後渋沢は亡くなったと記している。
それでは「新しい原本を日本語に翻訳」して送ったというのはどういう意味だろうか?現在、中央水産研究所に所蔵されているものは、和文で翻訳した原稿でないのは明らかだ。おそらく一つ可能な解釈は、朝鮮の漢文テキストには日本で使わない漢字があるからこれらを日本人読者が読める日本式漢字に書き変えたことを意味するのではないか?

まあ、こんな内容である。日本語訳は日本では見つからなかったが、校訂された漢文の原文と、日本語序文が送られていたということを李教授は書かれているのだ。

この論文が書かれたのが2014年なので、新事実が見つかったとすると、それ以降ということになる。

ところが、李文雄教授は、2021年5月5日に、この2014年に発表した論文のことを回想した記事をブログに書かれているが、新発見には触れていない。
https://blog.naver.com/mlee95/222338910978
[자산어보](한글본)의 출간의 계기를 마련해준 일본 '문화인류학의 아버지' 시부사와 케이죠(渋択敬三)|작성자 이문웅
『玆山魚譜』(ハングル版)出版のきっかけを用意してくれた日本文化人類学の父渋沢敬三
作成者 李文雄

ここには、2000年前後、渋沢敬三を研究していたので、鄭文基の日本語訳文を所在を探したが、2013年に鄭文基が渋沢に送った原稿(校訂した原文)と日本語序文が見つかったという経緯を簡潔に述べている。また、2014年の論文と、鄭文基が渋沢に宛てて送った日本語の序文の韓国語訳がPDFでつけられている。

もしも、2014年から2021年までの間に、「鄭文基は日本語訳を二部作っており、日本に送ったものは横浜に、手元に残して置いたものは釜山にある」という新事実を発見していたのだとしたら、これまでの探求の経緯から考えても、この2021年のブログに後日談として付け加えておいても良さそうに思うのだが。

長くなったので、釜山の国立海洋博物館所蔵の筆写本については、稿を改める。
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